三社合作

三社合作とは、1970年代から80年代前半にかけて、ロードレーサーやトラックレーサーといった競技用自転車の部品を生産していた国内三社が、カンパなどヨーロッパの自転車部品の技術水準に追いつくため、水面下で結んでいた協力関係のことである。

三社とは大阪で自転車部品製造業を営んでいたS野鉄工所と、堺に本拠をおいていたM田興業・S野興業。
三社合作の協議は、主に開発や設計部門の技術者が月に1回程度、鶴橋や阿倍野橋の居酒屋に集まって情報交換する形で進められた。

会合はいつも雨の日を選んで行われた。雨で客足が遠のくのを防ぐため、雨の日は店がビールや酒を原価で提供していたからである。
三社合作に直接関与していた技術陣は総勢で15人程度とされている。彼らは、たまたま同じ店に居合わせた客同士を装っており、お互いが近くの席に陣どりながら、開発中の製品についてアレコレ議論していた。そして互いに聞き耳を立てながら情報を収集し、不得意分野の製品開発に不毛な労力を費やすよりも、自社の不得意な分野を相互に補完できるようパーツに互換性や拡張性を持たせたり、三社製品のちゃんぽん使用を前提に強度や使用材料などに共通の技術基準を設けたりしていた。

関係者の話によれば、三社間における意思疎通には独特の符牒が使われ、重要事項の決定にはアテの追加注文と返盃で確認する習わしとなっていた。

例えば、S野鉄工所の提案に同意する場合、他の二社は「大将、○○、もうひとつ」「うちもおんなじの二つ」などと注文し、アテが出揃った時点で酒を酌み交わして合意が成立した証になったという。

会合に使われた飲み屋への支払いは、三社間で割り勘にする取り決めになっていて、開発費の中で年間の予算枠も決められていた。しかし実際には、S野鉄工所とM田興業のメンバーがしょっちゅうハメをはずして大酒を飲みたおし、酔った勢いで近くのアルサロに繰り出したりすることも多く、年間の予算をたった数回で消化してしまうこともしばしばあったという。ポケットマネーでその尻ぬぐいをしていたのは、無類の自転車好きだったS野鉄工所の社長で、この秘話は居酒屋とアルサロの限られた関係者以外にほとんど知られていない。

三社のうち、S野鉄工所とM田興業とは一時期、同じ名を冠したパーツをOEMするなど正式な提携関係をもったこともあったが、三社は表向きにはライバル関係にあるため、三社合作という協力関係が存在したことを公式には認めていない。また今となっては、消滅した企業や経営陣が代わった企業も含まれ、関係者の退職や逝去などもあいまって事実関係を確認することは困難と思われる。

三社合作の成果は、OEMや共同開発されたパーツの市販という形態ではなく、基本的には各社それぞれの製品群に集約された。そしてユーザーが各社のパーツの中から好みのモノを選び自転車に組む込む、という形に委ねて具体化が図られていた。当時、自分の好きなパーツを自由に組み合わせることは、ごく普通に行われていたが、合作の成果は積極的に公開されることもなかったので、お互いに足を引っ張り合うようなパーツアッセンも多くみられた。

三社合作の成果を最も効果的に発揮できるパーツアッセンとその要諦は、会合に使われていた飲み屋の常連であったロード愛好者の口伝のみによって伝えられ、巷の自転車雑誌などには決して掲載されることはなかった。したがって、当時の自転車雑誌に写真とともに掲載されていた愛車紹介やそのパーツアッセンに三社の製品がミックスして使われていても、それらは三社合作の成果と必ずしも一致するものではない点には注意が必要である。

三社合作は、1980年代にS野興業が推し進めた他社製部品を排除するシステムコンポーネント化戦略、エアロパーツや10ミリピッチを採用したトラックパーツなどの独自規格の製品化とともに次第に形骸化しはじめ、1990年に発表された74DORA-ACEのDual Control Leverの普及によって完全に崩壊した。


注:この話はフィクションです。登場する企業名等は実在する企業と無関係です。

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