(98) 人も渡れる鉄道橋 三江線 第一江川橋梁 江の川

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人も渡れる鉄道橋

「人と列車が並んで渡れる鉄道橋」といえば、淀川に架かる城東貨物線の赤川の鉄橋(赤川鉄橋)が有名でした。過去形なのは、歩行者や自転車が通行できる人道橋の赤川仮橋が2013年の秋に閉鎖されてしまったからです。鉄道営業法などの法令に抵触することなく合法的に歩行者も渡れる鉄道橋はいまや幻の橋となりました。

ところが、江の川を渡るJR三江線の鉄橋にひとつだけ歩行者が渡れる橋があるのを空中写真で見つけ、先日渡ってきました。
ネット情報やマスコミを含めて、現段階ではまだあまり有名ではない模様です。

赤川の鉄橋は複線幅の鋼製トラス内で軌道と歩行者用仮橋が同居していました。
いっぽう三江線のこの第一江川橋梁は、単線幅のトラスの外側に歩行者用の幅約1.5mの通路が設けられています。

三江線の列車は、単行か2両の短い編成で運行されています。貨車を何十両も連ねたD52が牽く長い貨物列車が渡っていた赤川鉄橋にくらべて迫力がいまいちですが、この際、そんな贅沢は言っておれません。

単線なのに橋梁の幅が広く、しかも線路が橋梁の中心にではなく上流側にオフセットして敷かれています。その理由は、左岸の江津側でカーブしており、カーブの始点(終点)が橋梁上に位置するためです。上からみて、少し幅の広い橋桁に線路が「へ」の字の形に敷かれています。

現在はこの鉄道橋のすぐ近くに道路橋のあけぼの大橋が架かっていますが、以前はひと駅先の浜原駅近くにある浜原大橋まで大きく迂回しなければなりませんでした。この地に道路橋が架けられたのは1992年、平成になってからのことでした。

鉄道橋であるこの第一江川橋梁を人が通行できるのは、左岸にある野井集落の人たちが、右岸にある駅や役場、学校、商店などにいくためでしょう。おそらく昭和12年に国鉄三江線が浜原まで延伸開業した当時に鉄道橋を通行できるよう便宜が図られたものと思われます。

但しこの鉄橋は、「昭和47年7月豪雨」の大水によって1972年7月12日午前3時に流失してしまいました。その後、再建工事が行なわれ、昭和50年1月に歩行者用通路の付いた現在のトラス橋が完成しました。古い第一江川橋梁は5径間のガーダー橋でした。

流失した鉄橋を架け替えるために2年半近くの歳月と4億8千万円の工費を要しており、その間、明塚駅から粕淵駅間は不通になっています。

そのため1972年秋から1974年12月の間は、左岸に野井仮停車場が設けられ、鉄道の代わりに渡船による代行輸送が行なわれていました。渡船の運航は復旧までの臨時の措置ですが、たいへんめずらしいケースといえます。

この第一江川橋梁には、いろんな点で興味深い点が多く、少しずつですが情報を集め整理していきたいと思います。


営業最後の晩秋 草紅葉に彩られた第一江川橋梁【2017/11撮影】


■三江線の列車内からみた第一江川橋梁と渡っている人(1分37秒)

・三次行きの下り列車の車内からみた第一江川橋梁通過の様子です。
・折良く地元の方が歩行者用通路を粕淵に向かって渡っておられました。


Memo
  • 江の川・島根県
  • 撮影:2017/05、2017/06
  • 公開:2017/05/28
  • 改訂:2017/05/29、2017/06/01(旧橋の画像を追加)、2017/06/13(不通区間の渡船連絡)、2017/06/19(旧橋に関する追記、建設時の画像追加、構成変更)、2017/06/24(旧橋の流失に追記)、2017/11/21(晩秋の画像を追加)
  • 廃線が決まった赤字ローカル線ゆえに鉄橋の管理が行き届いていないようです。
  • 最新のペンキの塗り替えはなんと27年前で、歩道部の鋼鉄製の床板に腐食や穴があったりします。
  • 2018年春の廃線が近づき三江線ブームが過熱した場合は、何らかの規制がかかる可能性も考えられます。物好きな方はお急ぎください。

むかしの第一江川橋梁

■第一江川橋梁(旧橋)の被災前と被災直後の状況

ネット上を捜していましたら、鉄道のある風景写真愛好家の方が1972年7月に流失する前と、被災直後の様子を画像で比較しながら公開されているサイトがありました。

撮影されたあきらさんから画像転載の許諾をいただきましたので、被災前の旧橋と被災直後の様子をご覧下さい。

旧橋の雪の日の様子 右端の通路に歩いた足跡がついています

被災直後の状況 橋脚1本を残して惨憺たる状況です

被災時の状況は凄まじい状態です。5連のガーダー桁と線路は流失、橋脚は中央部の1本を残して他の4本は折れて倒壊しています。

現地の河原には倒壊した旧橋脚の一部が45年経った今でも残されています。

転載元のサイト、三江線「昭和47年梅雨末期の集中豪雨での事」コチラです。【2017/11/11:撮影者あきらさんのサイト移転にともないアドレス変更】


■流失前の第一江川橋梁(旧橋)について

昭和47年に流失した旧橋について、現時点でわかったことを以下にまとめました。

  • 旧橋が架けられたのは昭和12年のことです。この鉄橋の完成によって、江津から江の川の左岸に沿って伸びてきた三江線は初めて江の川の右岸に渡りました。終点もそれまでの石見簗瀬駅から浜原駅へ延伸されました。
  • 浜原から上流への建設工事は、戦争や電源開発のためのダム建設にともない中断しました。工事が再開されたのは昭和41年で、昭和50年に浜原駅~口羽駅間が開通するまで、三江線(のちの三江北線)は江津駅~浜原駅間50.1㎞を営業区間として運行されました。
  • 旧橋の架橋工事の様子を記録した写真が橋梁メーカーの技術報告書の論文に掲載されていました。

第一江川橋梁(旧橋)架橋工事の様子
資料:菅井 衛「送り出し工法の変遷」、
『宮地技報26号』、宮地エンジニアリング(株)、2012年11月

  • 掲載論文によると、架橋工事は径間36.4mのプレートガーダーに長い手延べ機取り付けて行なわました。このときの手延べ機には、当時一般的だったパイプ製ではなく、長い径間に対応できる剛性の高いトラス構造のものが使用されています。
  • 旧橋は橋脚が4本ある5径間のガーダー橋でした。中央部の3連の橋桁は両端部よりも長く、高さもある大きなものでした。
  • 写真などから判読すると、旧橋上の線路の平面形は右岸の粕淵駅側の1径間分だけはわずかにカーブしていましたが、その以外の区間は直線となっていました。
  • 現在の橋梁上の線路が左岸側でもカーブしているのは、改築時に川の流下能力を大きくするために堤防や橋台の位置が野井地区側に少し移動したためです。
  • 野井地区にお住まいの方によると、この旧橋は流失した昭和47年のほかに昭和40年にも橋の一部が一度流されたことがあるそうです。
  • 邑智町『邑智町誌』(下巻)によると、昭和40年7月、大雨で増水した江の川で浜原ダム貯水池に係留されていた水門修理用の艀舟が下流に流出して浜原大橋や第一江川橋梁に激突し、橋を破壊流失させたと記載されています。
  • 昭和40年代の前半、歩行者用の通路は現在と同じく下流側の線路脇に設けられていました。
  • 通路幅は現在よりも狭く、通路の外側(下流側)には転落防止の柵がありましたが、線路と通路を隔てる柵はありませんでした。通路の上から釣りをしたり、夏には飛び込み遊びをする子どももいたそうです。
  • また、昭和30年ごろより前は通路横の転落防止の柵もなく、枕木の上に道板を敷いた保線用の通路を渡っていたそうです。

鉄道代行の渡船

■不通区間の渡船連絡について

  • 昭和47年の水害では、第一江川橋梁だけでなく上流側の浜原駅前に架かっていた道路橋の浜原大橋も流失しました。
  • このため左岸の野井地区や隣の亀村地区の住民、ひと駅下流の式敷駅周辺の住民は、粕渕や浜原などまちの中心部のある右岸との交通路が途絶してしまいました。そのため、当時の邑智町によって渡船が運航されました。
  • 渡船を利用していた野井地区の住民の方々から伺ったところ、乗船客は地区の住民や三江線の乗客などたくさんいらしたとのことです。アユ漁などに使われる手漕ぎの小舟では一度に人数を運べないので、10~12人前後が乗船できる船外機のついた船が使われたそうです。
  • 渡船の運航に従事した船頭さんは2人いて、野井地区の家屋に寝泊まりして2人で交代しながら朝から晩ちかくまで両岸を行き来したということです。
  • 渡船の渡し場は、第一江川橋梁の少し下流側に設けられました。左岸側には、野井仮停車場から河原に降りて渡船場に至る小径が残っています。
  • また、右岸の船着き場は浄土寺から河原に降りたあたりで、そこは三江線が開通する前、江津との間に就航していたプロペラ船が発着した河港だった場所だそうです。
  • 美郷町立図書館に調べていただいたところ、邑智中学校の昭和48年度の卒業記念文集に船着き場の様子を撮影した写真が2カット掲載されていました。
  • 両岸の船着き場を結ぶ航路のおおよその位置を赤い線で示しました。持参したボートを浮かべてみたところ、流れはたいへん穏やかですが風の影響を受けやすい場所のようで、流れの状況や風向きによって経路が多少異なるかもしれません。

渡船場の置かれていた河岸

  • 渡船の運航状況を把握しようと思い、美郷町役場や図書館を訪問して当時の記録や資料を捜しました。しかし、45年も昔のことであり災害復旧で混乱していたこと、町村合併などを経ているため当時の資料は見つかりませんでした。現時点では、渡船連絡が行なわれていた期間や便数、乗客数などの詳細は掴めていません。
  • 1973年5月の時刻表によると、三江北線で運行されていた列車は上下各9本です。そのうち終点の野井仮停車場まで乗り入れていたのは朝の1往復と夕方の1往復だけで、残りは明塚での折り返しが6本、石見川本で折り返しが1本となっていました。
  • 同時刻表には、「石見簗瀬と浜原の間には連絡バスを運転している」との記載があります。
  • 明塚駅付近には江の川を渡る道路橋がなく、乗客の大半は石見簗瀬でおりて不通区間を代行バスで行き来していたものと思われます。
  • したがって三江線乗客のうち不通区間で渡船連絡を利用したのは、朝夕の通勤客や通学する生徒など一部に限定されていた可能性もあります。

運航当時の渡船の状況を教えてくださった野井地区の方々、運航時の写真や資料を捜していただいた美郷町立図書館にお礼申し上げます。


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