四つ橋

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大阪名物「四つ橋」

●錦絵広告に描かれた「四つ橋」

「四つ橋」とは、堀川の交差部に架かる4つの橋の総称である。転じて地名や四つ橋筋という南北方向の幹線道路の名前になった。

錦絵広告に描かれた四つ橋 【明治から大正ごろと推定】

この絵は、本林丁子堂という薬屋の看板商品であった『ドクトリ丸』というクスリの宣伝用につくられた錦絵広告である。制作された時代ははっきりしないが、電線があるので明治から大正にかけてのものであろう。

錦絵に描かれている水辺の風景は、大阪名物の四つ橋と『ドクトリ丸』の看板の掲げられた薬屋の建物である。
本林丁子堂は、四つ橋の西南、吉野屋橋の南詰を少し入った所にあったというから、絵が描かれた視点場は四つ橋の北東の角で、対角線方向にあたる西南方向を見ていることになる。

したがって、絵の左下から右上に流れているのが長堀川、右下から左上に流れているのが西横堀川になる。米俵らしき荷を積んだ川舟が長堀川から西横堀川の下流に向かって入ろうとしている。

ちなみにドクトリ丸というのは、たぶん“毒取り“の意味で、ほかに“ドクトル”の意味もかけていると思われる。
本林丁子堂の効能書きによれば、淋病・梅毒・瘡毒下しをはじめ、四肢関節のむくみ・耳鳴りなど何にでも効くとあり、万病に効く毒消しの丸薬なのであろう。効能書きどおりだとすれば、抗生物質のなかった当時はもとより、現代でもベストセラーになるような魔法の薬に違いない。

●堀川の交差部に架けられた四つの橋

大阪の川と堀川【明治中期】
橋は主要なもののみを表示した

四つ橋があったのは、西横堀川と長堀川の交差するところで、心斎橋から長堀川を西に350mほど下ったあたりになる。
注意しないといけないのは、2本の堀川が交差していた場所は、現在の四つ橋筋の四つ橋交差点ではないことだ。四つ橋交差点から東に60mほど離れた阪神高速の真下のあたりが、川の交差していた中心点になる。

西横堀川は、土佐堀川と道頓堀川を結んでいた堀川で、1600(慶長5)年、商人の木屋(永瀬)七郎右衛門によって開削された。大阪城の西惣構堀として秀吉が開削した東横堀を別にすると、市内で最初期に掘られた堀川のひとつである。西横堀川と同じ時期に枝川のひとつである阿波堀川も完成している。

位置的にも市内舟運網の中心的な役割を担った堀川で、行き交った舟の数も群を抜いて多かったとされている。

西横堀川の特徴はふたつある。ひとつは江戸町堀川をはじめとする多数の枝川が木津川方面に向けて分派していたこと。もうひとつは長堀川との直交部に四つの橋がロの字形に架けられていたことである。水都大阪で四つ橋があったのはここだけであり、地名としての「四つ橋」の起源もここにある。

●上繋橋・炭屋橋・下繋橋・吉野屋橋

四つ橋のあたり【1960年ごろ】
(資料:毎日新聞社『大近畿名鑑地図』1961)

四つ橋を構成していたのは、一番北に位置する西横堀川の上繋橋、時計回りに炭屋橋、下繋橋、吉野屋橋の4つの橋である。

4橋が架けられた時期ははっきりしないが、長堀川の開削された1622(元和8)年からほどなくして架橋されたと考えられている。
松村 博著『大阪の橋』によると、江戸前期のころで西横堀川に架かる上繋橋と下繋橋が幅約3m、長さ約33~39m、炭屋橋と吉野屋橋が幅約3m、長さ約40~42mで、長堀川に架かる2橋が少しだけ長かったようである。

冒頭に掲げた錦絵に描かれているように、四つ橋の開けた空間と水辺の風景は独特のものであった。川辺には柳が植えられ、納涼や観月の場としても親しまれた。

四つ橋界隈の風雅を愛でた粋人も多く、句や句碑も残されている。

涼しさや 四つ橋を四つ 渡りけり  小西来山     
四つ橋に 一本ありたり 柳かな  梅宝
後の月 入りて貌よし 星の空  上島鬼貫

下繋橋のたもとにあった鬼貫の句碑【撮影 1964年ごろ】

四つ橋の改築と消長

●都市計画事業と四つ橋江戸時代から明治時代後期までの四つ橋は木橋であり、痛んだ都度、何回か架け替えられてきた。明治39年から市電の整備事業がはじまり、長堀川の北岸には東西線が、四つ橋筋には南北線が通ることになった。

これにともない明治41年、東西線の通る上繋橋は幅16.5mに拡げられ、市電の重量や振動に耐えられるよう鋼桁に架け替えられた。また、吉野屋橋のすぐ西側に南北線の通る西長堀橋が架けられ、橋の北詰にある長堀通との交差点は市内で最大の交差点となった。当時、ダイヤモンドクロスとも呼ばれた四つ橋交差点の誕生である。

四つ橋と四つ橋交差点【1948年 米軍撮影】
四つ橋の西北、長堀通と四つ橋筋の交差点が四つ橋交差点

昭和に入ると大阪市の第一次都市計画事業によって四つ橋はすべて架け替えられた。このとき市電の走る長堀通の上繋橋は幅27mに拡げられたが、ほかの3橋は幅約9mと狭かった。

当時はまだ舟運がさかんに行なわれていたので、橋の下を船が通過しやすいよう4橋とも橋脚のない鋼製アーチが採用された。アーチの頂部には船から橋の名前がわかるように橋名板がつけられた。

●消えゆく四つ橋

心斎橋と同様に、四つ橋も堀川の埋立てにともなって姿を消すことになる。

上繋橋(左)と炭屋橋(正面)【1961年頃 撮影】
埋立てにともなう撤去工事がはじまったころの様子
組まれた丸太の足場の奥に鋼製アーチが見える

1962(昭和37)年、阪神高速の1号環状線(北行き)を建設するために西横堀川は埋立てられた。堀川の跡地には高架橋梁と駐車場が連なった。また、長堀通の拡幅と地下駐車場整備のために長堀川も埋立てられた。

高速道路の無粋な高架橋梁によって蓋がされてしまった四つ橋の晩年は、薄暗く哀れな光景であった。

吉野屋橋(左)と上繋橋(右奥)【1964年頃 撮影】
頭上には阪神高速の高架橋梁が完成した
科学館の前では停車したトロリーバスに客が乗り込んでいる

もし、大阪に堀川という担保がなければ、高度成長期にモータリゼーションの時代に対応した高速道路網を短期間に整備することは不可能であった。高速道路網がなければ、大阪の商業活動や経済は機能不全に陥り、相当なダメージを受けていたに違いない。
交通手段が舟から自動車にかわったのであるから、堀川を埋めて道路や駐車場に転用するのは当然のことである。しかも不要のものを処分して、役に立つ新しいものを創造するという合理的な都市開発であるという捉え方ができるかもしれない。

あるいは、継承されてきた共有財産の堀川を埋めて道路に変えたのは近視眼的な行為であり、取り返しのつかない愚策だったと、まったく逆の評価もある。

それらの当否はともかく、私財を投じて多くの堀川や橋を築いた大阪商人の才覚なくして、今日の大阪は存在しえなかったことを思うべきであろう。

そして、今の大阪には将来を見据えたかつての大阪商人のような人材、堀川と橋のような社会基盤となるものがともに欠落していることに気づくべきである。

四つ橋跡【2007年 撮影】


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