中津川と鼠島-地図から消えた川と島(2)

地形図に描かれた川と島【明治時代】

●地形図の誕生と基本図の整備

明治時代に入ると、江戸時代までの絵図や絵地図にかわって「地形図」が登場した。地形図は測量した成果をできるだけ客観的に図化した地図である。

西南戦争で政府軍は土地勘のない戦地で苦戦を強いられた。それを教訓として1885(明治18)年、明治政府によって日本全土をカバーする地形図の作成がはじまった。測量や図化などの実務は大日本帝國陸地測量部が担当した。

初期における地形図整備の基本方針は、全国を縮尺2万分の1でカバーし、大都市などの重要地域は1万分の1と5千分の1で製作するという計画であった。着手してみると測量に手間と費用がかかることがわかり、のちに基本図の縮尺は5万分の1に改められた。5万分の1に決まるまでにはいくつかの試行があり、1925(大正元)までは当初の計画に基づいた2万分の1の正式地形図も作成されている。

中津川や鼠島を含むエリアの最も古い地形図は、1898(明治31)年測量の仮製2万図である。その後、地形図は3千分の1、1万分の1、2万5千分の1、5万分の1で作成されたが、基本図からはずれた3千分の1、1万分の1(旧版)は、作成に手間と費用がかかるためあまり長くは続かなかった。

幸いにも中津川や鼠島が含まれるエリアでは、1921(大正10)年から1952(昭和27)年の間に測量や修正が行なわれた1万分の1(旧版)「大阪西部」が計7点発行されている。

ここでは一連の地形図を読み解きながら、明治後半から昭和の終戦直後にかけての中津川と鼠島の変遷を追ってみる。

●明治後期の中津川

陸測 2万分の1 仮製図「尼崎」 【1898(明治31)年測量】

中津川の下流が最初に描かれた地形図は、1898(明治31)年測量の仮製2万分の1図である。平板測量に基づいて作成されているので、細かな土地の起伏や微地形もきちんと描かれている。

測量時、新淀川はまだ開削されておらず、江戸時代の古地図とあまり変わらない位置を中津川が流れている。
蛇行する中津川の河道はかなり広く、そこかしこに大小の中州や砂礫帯が分布している。流量も多く、流れによって運ばれる砂礫も多い川であったようだ。

中津川の両岸には水田が広がっており、川から少し離れたところに海老江村、稗島村などの農業集落が立地している。少し上流にある野里村と塚本村の間には、大阪から神戸に向かう東海道線の線路が水田の中に敷かれ川と交差しているが、鉄道と一直線に伸びる水路以外にはこれといった近代的な工作物は見受けられない。

六軒屋川が分派する少し上流にある湾曲部付近で川幅は一段と広くなっていて、のちの鼠島となる大きな中州が形成されている。その周辺には小さな州もいくつか散らばっている。中州には川沿いにある農地のような水田の記号は入れられておらず、未利用地だったのか流作だったのか、地形図からは判然としない。

六軒屋川を分けたのち、500mほど下流で中津川はさらに二分し、北側に伝法川が分派している。分派点のあたりの川沿いには北伝法村と南伝法村の集落が並んでいる。川から離れて立地する海老江や稗島と違って、伝法の両村は半農半漁のムラであったのであろう。

明治になって30年も経つが、中津川の流れているあたりは町の賑わいとはほど遠く、江戸時代とそんなに変わらないのどかな場所であったように見受けられる。

陸測 2万分の1 正式図「大阪西北部」 【1909(明治42)年測量】

この地図は、先の仮製2万図から10年ほど経って行なわれた測量の結果が反映された初めての正式図である。
図には1987(明治30)年からはじまった淀川改良工事によって開かれてまもない新淀川と、分断以前の面影がまだ生々しく残る中津川が描かれている。

完成した新淀川の河道には阪神電車本線の橋梁が架けられている。こんな地盤の悪そうなところによく鉄橋を架けたものだ。左岸の堤防近くに駅があり、現在の駅名は「淀川」だが、この当時は「新淀川」だった。そういえば、川の名前も開削当初の「新淀川」からいつしか「淀川」に変わった。明治に開削された淀川下流を新淀川と呼ぶ人はもう少なくなった。

この阪神の橋梁付近で、中津川の旧河道が新淀川の流れと十字に交差している。もし二つの川に流れがあれば、四つ橋みたいに川の十字路が形成されて『大大阪名物』になっていたかもしれない。現実には、中津川を貫流する流れは堤防によって断ち切られてしまった。

新しくできた淀川は、2本の堤防に挟まれた広い河道が海に向かって真っ直ぐに伸びている。堤防間の幅は700mぐらいあり、圧倒的な存在感である。
いっぽうの中津川は、胴体を真っ二つに切られて、苦しみながらのたうち回る蛇のようにもみえる。

中津川の旧河道の流れの幅は200m前後あり、直交する淀川の流れの幅も同じくらいである。新旧の川で普段流れている水の量は同じぐらいだが、大水がでた時に流すことのできる水の量はまるで違っている。

新淀川の左岸堤防から中津川を少し下ったところに大きな中の島があり、「鼠嶋」という名が記されている。地形図に最初に描かれた鼠島である。島の縁は土手になっていて、その形は頭を川下に向けて横たわるネズミのようにも見える。中津川は胴体を切られても、なおくわえた獲物を放そうとしない蛇であり、島はその蛇からなんとか逃れようとするネズミの姿である。

中津川(千鳥橋付近) 【明治後期】
(資料:土木学会 デジタルアーカイブス 土木貴重写真コレクション)

写真タイトルに「中津川ノ一部(千鳥橋)」とあるので、千鳥橋付近から上流方向をみたものと推定される。右側(左岸)の煙突は大阪紡績(のちの東洋紡)四貫島工場で、 左側(右岸)には製麻会社が立地している。
鼠島は正面の方向で、船がたくさん浮いている所の奥に位置する。
土木学会の写真説明には「明治30年頃」と記されているが、土地利用から判断すると明治30年代の後半~明治40年前後だと思う。

先に示した1898(明治31)年測量の2万図と比べて、大阪市の市街地の外縁が拡大しており、10年前は農地だった福島や西九条も市街地へ変化している。
また、舟運による交通の便のよい中津川の川沿いには、四貫島北端に大阪紡績の工場、対岸の伝法町東部に製麻工場、鼠島の上流付近に硫曹会社や東レート会社の大型工場が立地するなど、地域が農村から都市へと変貌しつつある。

また、伝法川の河畔に立地する北伝法と南伝法の集落は回漕店など舟運関係の事業所や工場の進出によって急速に町に発展している。

●河川法の制定と鼠島の所有権

話は前後するが、淀川改良工事に着手される前年の1898(明治29)年4月、河川法が公布されている。現在からみると(旧)河川法になる。

制定された河川法には、河川管理の基本的事項として、河川の区域、私権の排除、支川や河川付属物に対する適用法規、管理主体の原則、河川の使用に関する制限などが定められている。
要点を手短に言えば、法の適用を受ける河川は国が管理する公物であり、所有などの私権は認められない。舟運や取水などの利用にあたっては、利水施設の設置などを含めて一定の制約を受けるといったことなど基本的事項が定められた。
つまり、河道のなかの土地は中州を含めて国の所有物であり、川の水も国が管理するので、当時の主務大臣だった内務大臣の命令に従いなさいということである。

流作だった江戸時代と違って、鼠島は国の管理するところとなった。新淀川ができて中津川の流れも平定されたからといって、流作として使用していた農民が水田にして私物化することはできなくなった。先の中島陽二氏の論考によると、明治末期の『大日本地籍図』には西野田下島町の表示があり、官有地となっていると記されている。

●鼠島周辺の建物や工作物

1909(明治42)年に測量された地形図には、島にできた建物や人工的な工作物が描かれている。
ひとつは島の北半分をつかって建てられた避病院(びびょういん)である。もうひとつは舟運のための閘門である。測量された時点では、閘門のゲートはまだ完成しておらず、船を通すための水路が掘られている最中であった。

避病院は、鼠島の北側3分の1程度をつかった敷地に建てられている。敷地の回りはぐるりと板塀で囲まれており、間口と奥行きが各約80mの大きな建物が南北方向に2棟並び、渡り廊下でつながっているように描かれている。ただし、これは「総描」という地形図によく使われる細部を省略した表現であり、必ずしも大きな建物であるとは限らない。小さな何棟かの建物をまとめて描いてる可能性が高い。

建物に名称は記載されていないが、「避病院」を示す地図記号が表記されている。この記号は、避病院および隔離病舎を示すものであり、一般の病院とは異なる施設であることがわかる。

島内には避病院以外の建物は見当たらない。中津川の両岸や四貫島の北端部には製麻や紡績などの比較的大きな工場がいくつか建っているが、それ以外で中津川に面した場所は水田か荒れ地である。川辺に人家はほとんど見当たらない。

中津川は鼠島を挟む形で東西2本に分流している。

東側の流路には、左岸の野田と島をつなぐ形で長さ約80mの締切り堤防が築かれている。島へは締切り堤防伝いに渡れるようだが、流路は閉塞されたため船舶の航行はできない。締め切り堤防よりも上流側の流路幅は150mほどあって広いが、締め切り堤防よりも下流側では100m前後に狭められている。締め切り堤防から約150m下流で六軒家川が分派している。

いっぽう西側の流路は、幅100m前後と狭いが、土堤や水門などの人工的な工作物はなく、水深さえ確保できれば船舶は自由に航行できる状態である。

鼠島の西側3分の1のあたりには、北側から長さ約100mの水路が開削されている。測量時点では行き止まりであるが、残り区間約30mを掘り進めれば、締切り堤防の約50m下流の東側水路に到達する。

伝染病対策基地としての鼠島

この項目は手持ちの資料がほとんどないため、以下の記述には情報の欠落や不正確な記述が含まれるかもしれない。
全体のストーリーの関係上、除外するわけにはいかないので、先人による論考や現時点で参照できた資料に基づいて簡単に整理する。大阪における伝染病対策や鼠島にあった大阪市立消毒隔離所の関連資料が入手できれば、必要に応じて改訂を行ないたい。

●コレラの大流行と避病院の設置

ここでは、大阪市環境保健局で感染症医療に従事された水原完氏の論文「大阪桃山病院ができたころ」と、当時の伝染病予防の担当部局だった大阪市保健部の報告書を参照して整理する。

1877(明治10)年を端緒として1890(明治28)年前後にかけて、大阪ではコレラが大流行した。
発端は九州でのコレラの流行である。西南の役から船で帰還途中の官軍の兵士が、感染しているのにもかかわらず医官の制止を振り切って神戸港に上陸したため、たちまち神戸、大阪、京都へと伝染した。
この年の大阪でコレラ患者の死者は1,618人にのぼり、致命率(患者の死亡率)は75%に達したという記録が残されている。当時、コレラは治療法がなく、高い確率で死に至る病であった。
コレラの流行はこの年だけでなく、1879(明治12)年、1882(明治15)年にも流行した。致命率は80%前後を示しており、死者は両年であわせて1万1千人以上に達している。

1877(明治10)年8月に内務省が定めた「虎列刺(コレラ)病予防心得」には、患者を収容隔離する避病院の設置が示されている。これをうけて大阪では、南長柄村にあったお寺に仮の避病院が設けられたのを皮切りに、難波村・長柄村・野田村・市岡新田の4箇所に避病院が設けられた。

最初期において医療施設ではないお寺が仮設の避病院として流用されたのも、なくなったあとのことを考えてのことだとみられている。

予防心得の第3条には、避病院の基本的事項について次のようなことが記されている。

  • 避病院の構造はきわめて軽易なものとする
  • 病棟は3棟を建てるか、あるいは1棟にして3部屋に区画し、軽症・重症・回復しつつある患者を分離すること

また、1879(明治12)にだされた「コレラ病予防仮規則」には病棟の建築基準が次のように示されている。

  • 避病院はなるべく人家のない場所に建設し、その構造はきわめて簡単なものとする
  • 病院の規模は土地の面積や患者数の多寡を斟酌して決める

病院といっても治す術がないので、隔離して伝染病の蔓延を防ぐのが主目的であった。

新しくつくられた避病院の建物は木造の簡素なつくりで、流行が終息するたびに取り壊すか焼き捨てられた。感染が広がるのを防ぐための措置である。
現在の医療機関では院内感染を予防するため、医療器具では使い捨てが当たりまえになっている。そのシステムを100年以上も昔に先取りし、しかも建物ごと使い捨てたという大胆な措置である。伝染病はそれほどまでに恐ろしい病であったのだろう。

なお、1877(明治10)年につくられた野田村の避病院がどの場所であったか、決め手となる資料はない。鼠島かもしれないが、どこか別の場所である可能性もある。

●伝染病院の開設と伝染病予防法の制定

大阪市内で伝染病患者を収容する病院と言えば、天王寺の近くにあった桃山病院が古くから知られてきた。桃山病院の歴史は古く、前身である桃山避病院は1887(明治20)年、大阪区部専用の避病院としてが創設された。建物は本建築であったが常設ではなく、コレラなど伝染病の流行に応じて臨時に開設されていた。

桃山避病院は、1889(明治22)年の大阪市の発足と同時に市立桃山病院となった。このとき、嫌われていた「避」の文字が名称からはずされている。

1895(明治28)年、伝染病患者を受けいれる専門の病院を市町村で設置することが定められた。その際、病院の建築基準も改訂された。それまでの避病院は仮設を原則としてきたが、伝染病院は恒久的な建物を交通の便利な場所に設置するように改められた。

桃山病院は1895年には大阪市初の伝染病院となり、翌年の1896(明治29)年以降は常設の伝染病院として運営された。

1897(明治30)年、伝染病の予防と伝染病患者に対する適正な医療の普及を図るため伝染病予防法が制定された。明治初期のコレラの大流行からはすでに20年もの歳月が経過していた。1883年、ロベルト・コッホがコレラ菌を発見し、予防や治療への道筋が見いだされたことなども予防法の制定の背景となっているのだろう。
同法の対象となる伝染病は、コレラ、赤痢、腸チフス、ペストなど10種で、コレラとペストはその疑似症も含まれている。保菌者に対しては、患者と同様に扱うことを原則とするが、コレラ菌保菌者に以外のものに対しては、別の取扱い方法が規定されている。

この法律は制定されてから100年以上も続いたが、1998(平成10)年に感染症法(通称)が制定され、翌1999年に廃止された。その内容は現在の感染症法に引き継がれている。

いっぽう、多くの伝染病患者を受け入れてきた桃山病院は、殉職者の慰霊碑があった病院としても知られている。創設以降、規模を拡大しながら桃山市民病院の時代を経て、長きにわたって大阪における伝染病予防や感染症医療の拠点としての役割を果たしてきた。その後、ほかの市民病院と同様に一般的な診療科も設置されたが、1993年に廃院となり、現在は都島の大阪市立総合医療センターに統合されている。

ところで桃山病院と言えば、個人的にはこんな思い出がある。

まだ小学校に行く前に市内旭区に住んでいた小さいころの話だが、50メートルほど離れた筋向かいの家に伝染病の疑いのある病人が発生した。天王寺の桃山病院から救急車がやって来て、病人を収容したあと、係の人たちが近所一帯をくまなく消毒していった。
収容される様子を祖母と一緒に窓の隙間から覗いていた記憶がある。記憶違いがあるかもしれないが、救急車は窓の少ない装甲車のような重苦しい形だった。病院の職員も白衣というより、少し灰色っぽい服を着ていたような気がする。
子どもにとっての桃山病院のイメージは、怖い病気にかかった人が「連れて行かれる場所」であった。当時の正式名称は大阪市立桃山市民病院だったが、市民には旧称のままで呼ばれていた。桃山病院の名前はこのときから脳裏に刻まれている。

●大阪市立消毒隔離所の開設

1897(明治30)年、大阪市の第一次市域拡張により、野田村が大阪市北区に編入された。新淀川の左岸にあった農業地域も田畑が住宅や工場に変わり、都市へ変貌を遂げつつあった。
その3年後の1900(明治33)年、大阪市立消毒隔離所が北区西野田下島町に開設された。下島町というのは前項で書いたように官有地となった鼠島のことである。
消毒隔離所というのは、消毒所と隔離所を併置したもので、桃山病院のような伝染病院とは別種の施設である。昭和初年に発行された大阪市保健施設概要には消毒隔離所の概要が記されている。抜粋して以下に要点を整理する。

1900(明治33)年に工費3万7千500円を投じて鼠島に消毒隔離所が開設された。建物は、明治37年に桃山病院の天王寺分院に使われていたものを移築し、隔離所として使用した。当初は消毒所と隔離所は分立していたが、のちの1912(大正元)年に統合して消毒隔離所と改称している。

同所を運営していた大阪市保健部の資料によると、敷地面積3,450坪、建物1,657坪、隔離室110室・575畳で、収容者数は約600人という規模だった。
施設の大きさは、一般的な小学校ぐらいの敷地と建物と同じ程度であろう。収容者数が定員一杯ならば、1人が畳1枚を占有することはできない計算になる。現在の例でいえば、大震災時の避難所のような窮屈な生活を強いられたのかもしれない。

構内には隔離室のほかに、事務室、医局、研究室、消毒室、面会所、売店、炊事場、浴室、運動場が設けられていた。

隔離室に収容すべき人として、伝染病予防法で定められた疾病のうち隔離を要するコレラ、発疹チフス、ペストの関係者のみであった。ただし、発疹チフスは市域では発症していなかったので、実質的にはコレラとペストの関係者を収容していた。

つぎに施設内での状況であるが、収容者には「患者」という言葉は使わないで、「隔離人」という表現が使われている。
資力のある隔離人には食費を自弁させているが、そうでない人には市費で食事をあてがっている。隔離中は毎日数回の健康診断を行ない、コレラ関係者には日々検便を実施している。

法定伝染病以外の普通病の人に対しては無料診断を行なっていて、もし伝染病や保菌者の疑いがある時は別室に移して経過観察と各種検査を行なって適正な処置を講じている。

隔離人の福利厚生は施設運営の最も苦心するところで、広い運動場には相撲の土俵なども設けている。また、ラジオ、碁盤や将棋盤、蓄音機、雑誌、小説、講談本を取りそろえて健康で文化的な生活を送られるよう配慮していると記されている。
さらに、所内には売店があり、収容者が多い場合は近くにある公設市場から出張店舗をださせて、市の公定相場よりも安い価格で販売している。

資料は運営機関自身による記述であるので、もしかしたら自画自賛やオーバーに書かれている可能性もあるが、日本最大の都市「大大阪」に発展しつつあった当時の大阪市の健康福祉行政の先進性やレベルの高さがよく示されている。

『大阪春秋』に掲載された中島氏の論考には、最後のページに大阪市が撮影した大阪市立消毒隔離所の写真が1点転載されている。
おだやかな水辺に面して平屋の建物が何棟か並んでおり、建物の東側の川沿いには大きな樹木がたくさん植えられている。高い煙突が何本か建っているが、消毒隔離所のものなのか、それとも背後の中津川右岸に工場のものかは判然としない。煙突さえなければ、隔離人を収容する施設というよりも、景色の良い場所につくられた保養所のようにも思えてくる。

鼠島周辺の河川管理施設

明治後期に行なわれた淀川改良工事の一環として、中津川や鼠島付近にも治水や舟運のためのさまざまな施設がつくられてきた。例えば、洗堰、水門、閘門、施設周辺の護岸、締切り堤などである。こうした施設群をまとめて呼ぶと「河川管理施設」という括りになる。この言葉はもっぱら行政用語として使われるので、一般の人々には馴染みのうすい言葉かもしれない。

ここでは明治の後期に中津川や鼠島周辺につくられた主な河川管理施設について、地形図や淀川の河川工事誌などを参照しながらみていこう。
なお、先に掲げた1909(明治42)年測量の2万分の1 正式図「大阪西北部」以降、明治末期に測量された地形図はないため、ここでは明治末期の状況を示しているものに最も近い1921(大正10)年測図の1万分1地形図を用いる。

1万分の1 地形図「大阪西部」 【1921(大正10)年測量】

地形図の縮尺が大きくなると、表現も精緻になり情報量も豊富になる。
まず、これら2枚の地形図が測量された明治42年から大正10年にかけてのきわだった変化をいくつか列挙する。なお、下記の項には六軒屋洗堰など大正期に入ってから作られた施設も含んでいる。

  • 鼠島を挟んで2本に分流した中津川のうち、西側の流路が北区と西区の境界になっている。
  • 鼠島には「西野田下島町」の町名が表記された。
  • 離病院の地図記号表示が消え、「鼠島消毒隔離所」と施設名が表記された。
  • 縮尺変更にともない、同所の建物群は総描表記から個々の建物が判読できる表記に変わった。
  • 東側流路に築かれていた締切り堤に小さな水通し(六軒屋洗堰)が描かれている。
  • 鼠島に掘られていた水路が貫通して閘門が完成した。
  • 鼠島の南端と四貫島をつなぐ締切り堤が築かれた。

●六軒屋閘門

六軒屋閘門(のちに六軒屋第一閘門に改称)は、淀川中流や長柄運河方面と六軒屋川・安治川・大阪港方面を結ぶ通船路を確保するために設けられた施設である。1908(明治41)年に着工し、1910(明治43)年2月に竣工した。
下流の安治川と六軒屋川は潮の干満差の影響を受けるのに対し、中津川では分派した伝法川流末部に閘門、正蓮寺川流末部に締切り堤が設けられたことから水位がほぼ一定となった。通船にはこれらの各河川における水位差を調整する必要があり、地の利のよい鼠島に閘門が設置されたのである。


六軒屋閘門 (資料:建設省近畿地方整備局『淀川百年史』)
操作員詰所や背景の工場建屋などから判断して上流側の中津川から
下流の六軒屋川方向を見たものと思われる、撮影年は不詳

水路の両端にはコンクリートの扉室が設けられ、各扉室には各一対の鉄製扉が設置された。観音開きの扉は上流側に向けて開き、開閉は歯車と鉄棒の装置によって動く仕組みになっている。現在、毛馬に保存されている毛馬第一閘門と同じような構造形式である。

二つの扉室に挟まれた中部閘室は最小幅約11m、長さ約89mで、両岸は法面護岸となっている。後年に撮影された空中写真をみると、中の閘室には小型の船舶や艀なら一度に6~8隻前後入ることができる大きさである。
また、その後の通船数の増加にともない、1923(大正12)年には並行して東側に第2閘門が増設されている。

明治後期の淀川や中津川周辺では、治水と舟運とを合理的に両立するために、たいへんシステマチックな工事が各所で行なわれていた。
この六軒屋閘門と関連する主な河川管理施設で、同時期につくられたものとしては次のような施設がある。

  • 伝法閘門(1903年竣工、1910年閘室長を延長)
  • 正蓮寺川締切堰堤(1908年竣工、1923年廃止、その後撤去)
  • 毛馬閘門(1907年竣工)
  • 長柄運河(1910年開通)
  • 毛馬洗堰(1910年竣工)
  • 長柄床固沈床(1910年築造)など

●六軒屋洗堰・サイフォン

六軒屋洗堰は、鼠島の東側の流路に築かれた締切り堤に設置された河川管理施設である。
この洗堰がつくられたのは少しあとの1919(大正8)年であるが、上に掲げた地形図にも描かれているのでここで整理しておく。地形図上では締切り堤の鼠島寄りにみえる凹みが六軒屋洗堰である。地元では鼠島の住所表示である下島町から「下島水門」と呼ばれていた。

この洗堰とサイフォンが設置された目的は、締切り堤によって隔てられてしまった中津川と六軒屋川の水流を接続し、六軒屋川の浄化を図るためである。1907(明治40)年から1922(大正12)年にかけて行なわれた淀川下流改修工事の一環として設けられた。

工事誌をみてもここに設けられたサイフォンについての詳細がよくつかめない。河川と水路との立体交差部に設けられる一般的な「伏越し」とは異なるようであり、六軒屋川の干満差による水位変動と中津川の平時の水位を考慮しながら締切り堤に管路を埋設したものと思われる。

流量の調整は洗堰の操作とサイフォンによって行なわれた。普段は2連のサイフォンで毎秒8.34トンを六軒家川に流し、洗堰を随時開放して毎秒13.90トン、両者を同時に開放して毎秒22.24トンを放流していた。

川だけでなく水というのは、常に適量を流したり循環させたりしておかないと腐ってしまうからである。
人もまた然りである。部屋に引きこもってPCに向かって作業ばかりしていると腐ってしまうので、少し表に出て外の風にあたってこよう。

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●参考文献
  • 大阪市保健部編『大阪市保健施設概要』1932、大阪市役所保健部
  • 建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』1966、淀川工事事務所
  • 小出 博『日本の河川研究』1972、東京大学出版会
  • 建設省近畿地方整備局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
  • 三浦行雄『大阪と淀川夜話』1985、大阪春秋社
  • 水原 完「大阪桃山病院ができたころ」、『生活衛生』29巻6号、1985、大阪生活衛生協会
  • 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」、『大阪春秋』第88号、1997、大阪春秋社
  • 大阪歴史博物館『水都大阪と淀川』特別展図録、2010、大阪歴史博物館

●制作メモ
  • 2007/07/24:鼠島跡、正蓮寺川、六軒川など現地を確認
  • 2017/11/10:コンテンツの制作に着手
  • 2017/11/11:【はじめに】を公開
  • 2017/11/12:【新淀川と長柄運河の開削】を公開
  • 2017/11/13:【絵図や古地図に描かれた川と島】を公開
  • 2017/11/14:【地形図に描かれた川と島】の一部を公開
  • 2017/11/16:【伝染病対策基地としての鼠島】を公開
  • 2017/11/20:【地形図に描かれた川と島】に●鼠島周辺の建物や工作物を追記
  • 2017/11/21:【鼠島周辺の河川管理施設】を公開
  • 2017/12/02:明治後期の中津川の写真(土木学会蔵)を追加

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