しろうおが還る川 松本川(2)

■松本川の川普請

 沼や湿地を埋め立てて城下まちの骨格が整えられたのちも、松本川と橋本川は幾度となく氾濫をくりかえした。阿武川の舟運を利用して川上の諸村から生活物資などを運んで来るには便利だったが、川に囲まれているがゆえに萩城下は水に弱かった。
松本川の下流には流れによって上流から運ばれてきた土砂がよく貯まった。土や砂がたまっている川の様相から、一名を土原(ひじわら)川とも呼ばれた。川底にたまった土砂の浚渫や、橋本川の付け替え、城下を囲む堤防の補強が歴代の藩主によって重ねられた。

鶴江台の台地によって河口が狭められた松本川

川普請が続けられたにもかかわらず、濁流はたびたび土手を越えて城下に溢れた。とくに「申年の大水」と呼ばれる天保7年(1836年)6月の洪水は、築城後、最大規模で、城下の3分の2の地区が水没したことが記録されている。
この大水のとき、のちに13代藩主となった毛利敬親(たかちか)は18歳であったが、橋本川北岸にある別邸南苑(なんえん)にいて水難に遭い、命からがら舟で難を逃れたという。後年に敬親が藩主となってからも、江戸から帰国していた嘉永3年(1850年)、梅雨の洪水によって城下は大きな被害を受けた。敬親は、洪水は人災であるとともに、元就公をはじめとするご先祖の霊のお怒りであると考えた。そして、大水の教訓をいかして水害を防止する方策を家臣や被災地の古老に問うた。

■姥倉運河の開削

 水禍から逃れる方策として、家臣たちからいくつかの案がだされた。敬親自身も川辺を歩いて検討した結果、松本川や橋本川の浚渫を行うだけでは防ぎきれないとの考えに至った。そして、布施虎之助という家臣が立案した運河の開削を決意した。
その案は、川から海へ注ぐ流れをよくするため、日本海に抜けるバイバスの水路をつくるというプランだった。松本川の河口は、萩城下のある三角州と東側から張り出している鶴江台の台地に挟まれて川幅がとても狭く、海にでようとする流れを妨げるボトルネックになっていた。

嘉永5年(1852年)、河口のすぐ上流にあった天然の小さな入り江を東側に掘り進み、台地のなかに新しい排水路を切り開く工事がはじまった。
工事は、延べ31万人の人力と総工費1,250貫目の銀を要した大工事となった。藩や郡奉行所は、藩主の手元金や囲い石を売却して得た資金などを投入したが、工事の途中で資金不足にみまわれた。中断を避けるため洪水に悩まされていた城下の町人たちからも次々と援助の手が差しのべられた。

財力のある大店の主人は金や銀を寄付し、貯米のあるものは夫飯米を援助した。また、どちらもないものは労力の提供を申し出たことが古文書に記録されている。

一、金一〇両 大玉忠四郎
一、銀五貫目 熊谷五右衛門
一、銀五枚  有田屋ノ太郎右衛門
一、夫飯米一五〇〇人分 大黒屋新兵衛
一、夫飯米一ニ〇〇人分 但人別ニ〇〇人あて
小畑屋ノ文蔵
黒瀬屋ノ甲三郎
斎藤屋ノ半三郎
光屋ノ吉右衛門
河野屋ノ幾之進
末益屋ノ鶴吉
『両公伝史料』

台地を削って掘られた姥倉運河

着工から2年3ケ月、町民らの助力を得て安政2年(1855年)に待望の運河が完成した。運河ができてから萩城下は洪水の脅威にさらされることも少なくなり、同時に舟運の便も向上した。

開削された当時の運河は、全長419間(約750m)、幅15間(約8m)だった。その後、幅20~30m程度に拡幅され、現在のような姿になった。松本川の最下流に架かる雁島橋の少し下手に運河への分派点があり、鶴江台の南麓から萩漁港に至る約800mの区間は、姥倉(うばくら)運河あるいは姥倉新川の名で呼ばれている。

【次は】しろうおが還る川 松本川(3)


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