ヒコーキ見物の人々で賑わう 千里川の堤防
わが国では、建設省と運輸省が合体して国土交通省が誕生する以前から、なぜか空港と川の関係が深く、東京国際空港は多摩川の河口に、大阪国際空港は大阪平野の西端を流れる猪名川のほとりにあります。なかには、富山空港のように神通川の河川敷の中につくられたものもあります。
32Rへ進入するYS-11の機内からみた千里川の堤防
千里川に架かる青い原田進入灯橋の上を32Lへの着陸機が低空で通る
ここ大阪国際空港には、猪名川と平行して長短2本の滑走路があり、滑走路の南端には猪名川の支流千里川が流れています。滑走路は、西側の長いほうが中型・大型ジェット機用、東側は小型ジェット機や今や希有な存在となったプロペラ機が利用しています。もともと千里川は、現在の空港敷地のなかを流れていましたが、ジェット化などによる滑走路拡張のために現在の場所に引越してきました。
32Lへ着陸するJALのシャンボ
大阪空港へのファイナル・アプローチは、卓越風や航空路の関係から千里川のある南側から進入することが一般的です。信貴山や和泉山地の上空から大阪平野に入った定期便のジェット機は、大阪城から新大阪駅の上空を経由するほぼ一直線のルートで2本の滑走路のうち、長いほうの「32L」と呼ばれる滑走路をめざします。
関空開港以前は各国からの国際線ジェットも飛来
その32Lの滑走路に接する千里川には、両側に柵を設けて人は渡れないようにした小さな青い橋が架けられています。32Rに進入するYS11の機内から撮った一番上の画像にも小さく写っています。
人が渡れない奇妙な橋は、航空機が滑走路に進入するための目印となる進入灯を滑走路の末端から一定間隔で設置するために架けられたもので、大阪空港原田進入灯橋と呼ばれています。
ランディング直前のB747-400と見物のカップル
滑走路は制限区域のため金網で囲まれていますが、千里川の堤防には自由に入ることができます。ジャンボなどの大型ジェットがこの橋の上を超低空飛行でかすめていきます。進入時のスピードは時速250キロ前後だそうです。
おそらく日本の空港の中で一番近い位置で着陸の瞬間を見られる場所として、その筋のマニアの方などには有名な所です。マニアや見物客を当て込んで、休日には近くの道路にタコ焼き屋の屋台がでたりするのは、さすが大阪といったところでしょうか。
ランディングの瞬間を見るのは、ヒコーキマニアならずとも面白いモノです。
着陸のショックで乗客に不快感をあたえないために、着陸寸前に機首を引き上げて後輪からソフトに接地する最終の着陸操作や、横風が吹きすさぶ日の姿勢制御には、パイロットの腕がそのまま反映されます。
一般的にはソフトに着陸するほど腕がいいと思われがちです。しかし、強い横風で左右の主翼が上下に大きく揺れるような悪天候時には、ドスン!と思い切って着地するのが安全な場合もあり、あえてハードなランディングを行なうベテランパイロットもいるそうです。
箕面に住んでいたころは、四国や東京への出張に飛行機を使っていました。搭乗した飛行機のパイロットの離着陸時の技量と、客室乗務員の器量を5段階で評価するのが、密かな楽しみでした。
優れたテクニックで印象に残っているのは、1992年5月22日、羽田行ANA24便で前線通過にともなう悪天候下をフライトしたときの機長と副操縦士です。荷物棚の鞄が暴れ回るほど揺れまくるトライスターを見事にあやつった降下やランディングは見事でした。
飛来できなかった鶴
西の六甲に陽が沈む頃、空港は夕方のラッシュを迎えます。関空開港以前は、遠く海外から飛来する国際線も含めて、橋上空を数分間隔で到着機か飛び交っていました。
ジュラルミンやチタンでできた機体は、時折残照を浴びて輝き、夜のとばりとともに、進入灯橋からは離着陸する飛行機のライトが描く美しい光跡を見ることができます。
日没直前の32Lへ進入するNWのB747-400
1985年8月12日午後6時4分、満席の乗客と乗員あわせて524人を乗せた1機のボーイング747SRが、この進入路灯をめざして多摩川のほとりにある空港の18番スポットを後にしました。
しかし、到着予定時刻を過ぎても、大阪空港の門限である午後9時を過ぎても、さらに搭載された燃料がつきる午後9時27分を過ぎても機影がこの橋の上空をよぎることはありませんでした。
レーダーから消えた機影の位置が特定されたのは、公式には、翌13日の早朝であったとされています。

わが国最大の航空惨事から早幾年月。忌まわしい事故の記憶を一刻も早くかき消すためにか、“JAL123”の便名は直ちに抹消され、日本航空の社員で事故のことを直接知る人も圧倒的に少なくなりました。一時、廃棄処分されようとした機の残骸や持ち主の分からない遺品は保存されることになりましたが、墜落の原因究明には不可解な部分を残したまま、既に事故調査委員会も解散しました。
JAL123が見られなかった滑走路の夜景と光跡
茜色の残照を浴びながら、銀色の翼を広げた鶴が優美に舞い降りる姿を、この橋も橋のたもとに集う人も見届けることができませんでした。
1985年8月12日の墜落からもう30年以上が経過しました。夏が巡るたびに御巣鷹の尾根には多くの関係者が追悼に訪れ、麓を流れる神流川にはたくさんの慰霊の灯籠が流されます。
JAL123に乗り合わせた知人も何人か犠牲になったこともあり、忘れることのできない航空機事故です。圧力隔壁が破壊され、垂直尾翼が失われたとする墜落原因や、墜落地点の特定や救助活動の初動が大きく遅れたことについては、いろいろな見方や推測があり、公式報告書で発表されたことが全てではないという気がします。
救援や事故調査には日米関係が絡んでいて、真相の核心部を握っているかもしれないと噂された当時の首相も、数日前に101歳の天寿を全うされました。
事故原因の闇は深くなるばかりです。
【Memo】
このコンテンツは、旧サイトの『川で見つけたもの』で2001年に公開した「大阪空港原田進入灯橋(上)」と「大阪空港原田進入灯橋(下)」を編集し、再掲したものです。写真はいずれも1993年までの撮影です。
近年、「千里川の土手」はヒコーキ見物の名所としてすっかり有名になりました。国際線が関空に移動し、エンジン3基以上の大型機の離着陸が規制されてしまったので以前ほどの迫力はありませんが、堤防土手は相変わらず見物客で賑わっているようです。
なお、再掲にあたり、本文に最近のできごとなど一部を加筆しています。
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