鶯の森水泳場

駅前の水泳場

阪急電車の川西能勢口駅から猪名川に沿って北上し、多田や山下を経て能勢の妙見口まで入っていく能勢電には、絹延橋、滝山、鶯の森、鼓滝というように風流な名前の駅が多くあります。
鶯の森水泳場は、鶯の森駅の真ん前を流れる猪名川にあった水泳場です。

鶯の森駅で降りてから猪名川にでて、少し下流に歩くと大きな井堰があります。小戸(おおべ)井堰と言って、現在でも代替わりした堰が設けられています。この小戸井堰で川を堰き止めた深みを利用した天然のプールが鶯の森水泳場でした。

阪急と能勢電に乗って何回か連れて行ってもらった記憶があります。

鶯の森水泳場鶯の森水泳場にて 【1959年頃 撮影】

この写真は、たぶん市内から豊中に越してきた年で、まだ小学校に入るまえの夏だと思います。大阪市内に住んでいたころよく遊んでもらった向かいのTさんや彼の姉さんらと一緒にいったときのものです。

鶯の森水泳場堰の上流側は深いので子どもは岩場の浅瀬で水遊び【1959年頃 撮影】

堰の上流側は大人の背丈ほど深かったからか、まだまとも泳げない小さな子どもは、浮き輪をもって堰の下流側の岩場付近の浅瀬に入ったり、堰を流れ落ちるシャワーのような水を浴びて遊んでいたようです。自分では記憶にないですが、そういうシーンの写真が残っていました。

今では想像もつかないですが、当時、夏場の鶯の森はレジャースポットとしてたいへんな賑わいでした。

上の写真の背景にも何十人もの人が写っています。池田側の土手の上には水泳客を相手にする茶店もでています。大阪市内から来る水泳客もたくさんいて、能勢電や茶店を出していた地元の人たちにとっても、水泳客は重要な収入源だったといわれています。

当時の能勢電は、妙見山にお参りする参詣客が主な乗客でした。沿線は山ばかりで住宅や住民は少なく、今のような通勤通学客はほとんどいませんでした。

小学校にあがると、学校のプールで泳げましたでの、猪名川の水泳場には行かなくなりました。ですので、この鶯の森水泳場がいつまであったのかはよく知りません。

ネット上には、1959(昭和34)年9月26日の伊勢湾台風を契機に廃止されたと書かれている情報もあります。台風による大水で堰が壊れてしまったか、土砂や流木で川が荒れたりしたのかもしれません。上に掲げた2枚の画像は、たぶん1959年頃の撮影です。’60年の撮影ではないので、もしかしたら、鶯の森水泳場が閉鎖される最後のシーズンに撮ったものかもしれません。

猪名川の流量観測記録を調べてみると、伊勢湾台風のときの猪名川の水位はそれほどあがっていないので、もしかしたらもう少し後まで開かれていた可能性もあります。

いずれにせよ昭和40年代になると、農薬の普及や住宅開発が進み猪名川の水も汚くなってしまいました。

上流の山下あたりまで遡ると、支流の一庫大路寺川の川沿いにはキャンプ場もあって川遊びもできましたが、池田近辺ではもう泳げなくなってしまいました。

水泳場のあったところの小戸井堰は、改築されて現在でも農業用水を供給する施設としての役割を果していますが、鶯の森の川で泳ぐ子どもはいないでしょう。


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