原風景を今に伝える虫生のあたり

都市化の波に飲み込まれた猪名川


猪名川源流の大野山付近 (Google Maps)
源流の大野山(バルーン)を挟む形で東西に二つのゴルフ場が立地

猪名川とその流域の山野は、自然豊かで風趣に富んでいたことから、万葉の歌にも多く詠まれてきました。
いっぽう、流域は、比較的、早くから人の手によって改変が加えられ、開発されてきました。
水利や土地条件の良かった下流域は、古くから水田など農地として開かれてきました。その後、近代化とともに土地利用も変化し、大阪市近郊の住宅地や市街地として発展しました。中流域は、薪炭林として利用された里山が広がり、猪名川沿いには農地や農業集落が分布していましたが、1970年ごろから大規模な住宅地やゴルフ場として開発されました。現在、その開発圧は、上流域や源流付近にまで及んでいます。

猪名川本流の源流は猪名川町の大野山付近です。その近辺には旧来からの農業集落のほかに、2つのゴルフ場と別荘地などがあります。猪名川沿いの道路整備が進むにつれ、かつての別荘地は郊外型の住宅地へ転じ、山あいには新たに小規模な住宅地も開発されています。

猪名川の大きな支流のひとつに一庫大路次川があります。以前は山下に河畔のキャンプ場があり、周辺一帯は風光明媚な渓谷として知られていましたが、現在は一庫ダムの建設によってダム湖の底に沈んでいます。
一庫大路次川を遡り、山あいの盆地に古くから開けた能勢の山里を過ぎて京都府に入ると、一庫大路次川は大路次川と名前を変えます。流域の最上流域にあたる大路次川の川沿いにも、小規模な住宅団地がいくつも点在しています。最寄りに鉄道の駅はないので、住民の方々は車で京都や大阪に通勤しているのでしょう。

わが国にはたくさんの川がありますが、猪名川のように上流域や源流域の山地にまで都市化の波や開発が及んでいる川はほとんどありません。その意味で猪名川は「典型的な都市河川」だと言われています。

猪名川の原風景の面影が残る虫生のあたり

原風景の面影を残す虫生付近秋の気配が漂いはじめた虫生のあたり 【1991年10月撮影】
川沿いに立っている塔は水位・流量の観測施設

そのような猪名川にあって、ほんのわずかな区間だけですが、都市化される以前の面影を残した場所があります。

多田神社の上流側に架かる多田大橋から県道12号を少し遡ると、清和台方面への分岐点、清和台入口の三叉路があります。その分岐までは、川も道路も周辺の景色も都市そのものですが、分岐を過ぎて深い左カーブを曲がると、景色が一変します。

このあたりは、川西市多田院虫生という地名の土地です。
その鄙びた地名が示すように、猪名川の昔からの自然と風景が残されたエア・ポケットのような場所です。猪名川の右岸に沿って、能勢に向う狭い県道が通っています。古くからある道ですが、現在は新しくできたバイパスに車が流れるので、交通量も少なくて静かな場所です。
河岸の緑は、薪炭林として利用されてきた二次林で、自然環境は比較的、良い状態で保たれています。
帰省したとき、能勢など猪名川の上流域に出かける機会がたまにあります。バイパスから外れるので、少し遠回りになりますが、この景色を楽しむためこの場所を通るようにしています。

下に掲げたのは、猪名川中~上流域に大規模な住宅地が開発される前の状況がわかる旧版地形図です。

虫生付近の旧版地形図国土地理院2万5千分の1「廣根」 1961(昭和36)年修正(部分)

1961(昭和36)年に修正測量された地形図をみると、多田から廣根に至る道路は、現在の県道と同じ経路で、猪名川右岸に沿って通っています。
猪名川沿いで、まとまった数の人家があるのは多田神社の周辺だけです。多田院から先、廣根の手前にある石道集落との間には、ほとんど人家がありません。現在の清和台の南側に古くからある柳谷集落の入口にあたる移瀬(現在の清和台入口交差点の約300m手前付近)に数軒の家屋がある程度です。

虫生は、現在、地名として残っているだけで、古い地形図に載っていた集落は現存していません。かつての集落は、戸数6~7軒の小さな集落だったようで、猪名川沿いにあったのではなく、現在の清和台東の清和台中央公園のあたりにあったようです。虫生への入口は、下で述べる古い水位・流量観測施設の少し北側になります。

虫生集落への入口の少し上流で、東から支流の一庫大路次川が猪名川に注いでいます。一庫大路次川は、一庫ダムのある大きな支流で、その上流は京都府域にまで伸びています。

古い流量観測施設虫生に残されている古い観測施設【2015年11月撮影】

川沿いに立っている観測塔の少し上流には、流量を図るためにかつて使われていた古い観測施設も残っています。
これらは、水位と流速を目測で測り、計算式で流量を求めていた時代の観測機器です。

猪名川の河床には岩盤がみられ、ちょっとした渓谷の様相を呈しています。毎年、夏のキャンプで宿野の野外活動センターに行くときに通った一庫大路次川の龍化隧道のあたりも、ダム湖に沈む以前はこんな景色でした。

しかし、猪名川の自然と原風景が残っているかのように思えるこの区間も、空中写真で眺めるとご覧のとおりです。中央の縦方向の細い緑が猪名川の水辺空間です。


両側を住宅地に挟まれた虫生のあたり (Google Maps)

右岸側には、1970年前後に里山や丘を開発してできた清和台の住宅地、左岸側には向陽台の住宅地が圧倒的な面積で広がっています。最近は、流域を横断するルートで第二名神が建設され、すぐ北側には川西ICもできています。
上空から見ると猪名川と両岸の斜面だけが、開発圧を受けずにかろうじて残されているのがよくわかります。

これが、猪名川と流域の置かれている現実でもあります。

幻に終わったダム建設計画と今に伝わる原風景

このあいだの日曜日、何の気なしに『猪名川五十年史』という本のページをペラペラめくっていました。1991(平成3)年に刊行された河川改修や河川工事の歴史をまとめた本です。巻末近くに掲載されている初期職員の方々による座談会のところに、この虫生付近にダムの建設計画があったことが記されているのを見つけました。

ダム計画が浮上したのは、ずっと昔の戦前のことです。
1938(昭和13)年に関西を襲った豪雨によって大きな水害がありました。猪名川では、それを契機に内務省による直轄工事に着手されました。猪名川は現在、国が管理していますが、その流末は県管理の神崎川に流れ込んでいる全国でも珍しい川です。それにもかかわらず直轄河川になったのは、中流から上流にダムの計画があったからだという説もあります。

ダムの建設計画は、建設予定地点までの仮設道路をつくり、福知山線の川西池田駅付近から工事に使う物資輸送のための引き込み線をつくり、工事に必要な大型機械も購入して、着々と進められたそうです。しかし、戦争の激化とともに計画は中断し、建設は無期延期となりました。
関係者の話によると、ダムの建設工事のために購入された機械類も戦地に供出されてしまったそうです。

自分の印象では、虫生付近の地形は、スケール感は少し違いますが、揖斐川上流の徳山ダムが建設された地点の着工前とよく似た雰囲気です。ダムを建設するのに最適な峡谷地形であり、もし、先の戦争がなければ、ダムが建設されていたはずです。現在に伝わるこの緑豊かな風景は見ることができなかったわけです。

今に伝わる虫生あたりの風景は、多くの犠牲者と戦禍をもたらした太平洋戦争が残した数少ない功績かもしれません。戦争で中断された虫生へのダム建設計画は、のちに一庫ダムへと引き継がれたため、復活することはありませんでした。
【2019/12/15:このダム建設計画の項を追記】


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