豆島を生んだ猪名川下流の低水護岸工事
猪名川の下流、一旦分派した藻川が再び猪名川と合流するところに、現在、「豆島」と呼ばれる小さな島があります。この島は、島のある猪名川と同様に、自然がつくったものであると同時に、人の手が加わってできたものです。
まず最初に、「豆島」が誕生するきっかけになった約30年まえの猪名川下流における河川工事、具体的には低水護岸工事の様子からご覧ください。
猪名川では、1965(昭和40)年に策定された工事実施基本計画に基づき、河川改修がすすめられてきました。
猪名川の下流では、改修計画で示された計画河床高までの河床掘削に先立って、1990年ごろから既にできあがっていた低水護岸の根継ぎや根固工の設置に着手されていました。
これらの工事は、神崎川に合流している直轄区間の下流端から順にすすめられました。
このページに掲げた写真を撮影したのは1993年2月です。その時点では、猪名川と藻川合流点よりも下流の区間の低水護岸工事は既にほぼ完了しており、合流点に架かる戸ノ内橋から上流約400mの区間の猪名川右岸で工事が実施されていました。

一番左側の護岸が既設の低水護岸、中央の白い護岸ができたての根継ぎ部分、
右側に敷き並べられたコンクリートブロックが根固工
低水護岸など低水路内での工事は、このように仮締め切りの堤防を築いて実施されます。出来上がっていた低水護岸の法先に、もう一段、小段(こだん)狭い平場を設け、さらにその前面に新しい低水護岸を設置する「根継ぎ」と呼ばれる工事が行われていました。また、河床には大型コンクリートブロックを敷並べた根固工が設置されました。
合流点の剣先の先端部でも、この工事箇所と同じような工事が、数年前に行なわれています。その時、護岸や根固工を設置するために掘削を行なった結果、豆島ができたわけです。


工事車両の進入路として、合流点の剣先付近から小段に降りる坂路が設けられ、戸ノ内橋の下をくぐって施工箇所まで仮設道路が設けられていました。
できたばかりの豆島
のちに「豆島」と呼ばれる小さな離れ小島は、元々は合流点の剣先の低水護岸の先に形成された砂礫堆の一部でした。猪名川や藻川によって運ばれてきた砂礫は、流勢や運搬力の弱くなる剣先の先端付近に堆積し、空中写真のように下流に向って伸びる舌状の砂礫堆を形成していました。

国土地理院撮影 CKK851-C6A-10
剣先南端部で低水護岸の工事を行なったときに、伸びていた砂礫堆の根元付近が掘削され、砂礫堆の先端部分が剣先から切り離されて、低水路内に島となって残されました。
島ができた時期は、現在手持ちの資料からでは特定できませんが、国土地理院が撮影した空中写真をみると、撮影日と画像から次のことがわかります。
(1)1985/07/26時点:砂礫堆は剣先と陸続きになっている
(2)1989/06/12時点:砂礫堆は剣先と陸続きになっている
(3)1992/03/04時点:砂礫堆が分断され剣先と島に分れている
つまり、(2)と(3)の間、1989年6月から1992年3月までの間に護岸工事が行なわれ、その際の掘削によって島が生まれたわけです。河川工事は、通常、年度単位で実施されますので、1989(平成元)年度から1991(平成3)年度の間に実施されたいずれかの工事によって島が分離されたものと推定されます。
したがって、「豆島」は平成生まれの比較的新しい島で、2019年現在、できてから約30年です。

猪名川の写真は1991年夏から中流を中心に撮っていましたが、下流区間の写真を撮り始めたのは、1993年2月からです。
冬の季節風が強かった2月3日に撮ったこのカットが、一番最初にとった豆島の写真です。剣先先端の堤防天端付近から猪名川の下流方向をみたもので、豆島の西半分が写っています。
島は長い歳月をかけて砂礫が少しずつ堆積してできたため、藻川に面した島の西側の水際は比較的ゆるやかです。
いっぽう、剣先に面した島の北岸は、掘削によって人工的につくられたため、比較的急な斜面になっています。また、西側寄りの一部は、流水や風浪などの影響をうけて崩れはじめています。
豆島の地盤高は、手前に見える小段よりもやや低く、小段は堤防天端から約3.5m下方に位置しています。水面からの比高は、目視で約80㎝ぐらいでしょうか。ただし、このあたりの水位は、河川の流量の変動だけでなく潮の満ち干の影響も受けるので、干満の周期や時間帯によって大きく変化しています。
島の陸上部には、ヨシやオギ、ススキなど、猪名川下流の河原に生えているのと同じ種類の植物が生育しているようです。
剣先に設けられた水生植物の生育試験地?
手元に詳しい資料がないので推測になりますが、当時、堤防に囲まれた剣先のほぼ中央部に窪地が設けられていました。管理されている様子から、ヨシの生育試験が行なわれているように見受けられます。
窪地の大きさは底部の平坦面が10m×10m前後で、地盤高は堤防天端の高さより約2m低くなっています。
画面右のブルーシートが少し見えているのが藻川側の堤防天端、重機の置かれている右奥が合流点の剣先付近、正面が猪名川の右岸堤防です。
両岸から見た豆島
次は、猪名川の右岸と左岸からみた豆島の状況です。

剣先の先端部と豆島を西側の右岸からほぼ真横にみた状態です。剣先と島の間の水面幅、島の地盤高が把握できます。
先ほどの地点から少し下流に移動したところからみた豆島の状況です。

猪名川の左岸、戸ノ内橋の東詰付近からみた剣先の先端と豆島です。逆光のため、少し見づらいかもしれません。

戸ノ内橋の東詰から約300m下流のところ、堤内地に児童遊園地があるあたりからみた豆島と剣先です。
豆島内では下流側のほうがヨシの草丈が高く、よく生育しています。土壌の保水率の関係なのか、それとも上流端付近のように河川工事の影響を受けにくかったためなのかはわかりません。
1993年夏の豆島
同じ1993年の7月にもう一度、豆島の写真を撮っていました。

冬とは異なり夏草が生い茂っています。草丈やシルエットから判断して、藻川沿いなど島の外縁部にはヨシが生育しているように見えます。いっぽう、島の中央付近はヨシよりも乾燥に強いオギなどの別の種類の植物が生えているように思えます。
掘削によってできた剣先に面した島の北側の崖もよく見えます。水位は、2月の時に比べて少しだけ高くなっているように見受けられます。

豆島は、日当たりも良く、猪名川が運んできた土壌は肥沃で、水分補給も十分できる場所です。一角を畑にしてスイカの種を蒔いておくと、大きな果実が収穫できるかもしれません。
最後に、同じ地点からみた現在の様子をGoogle ストリートビューで示しておきます。
四半世紀も経つと、島の様子もまちの様相も大きく変化しています。
合流点に架かっていた戸の内橋や藻川橋は、山手幹線の東端部として整備され、橋も架け替えられました。周辺の市街地も随分変貌を遂げています。
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