宮原は新大阪駅の南側にある機関区と操車場。国鉄の人は「みやはら」ではなく、「みはら」と言っていたような気がする。
大阪駅を通らずに吹田と尼崎を結ぶ北方貨物線が東海道本線の支線として大正時代に開通し、その南側に機関区と操車場が設けられた。
宮原機関区は、東海道本線の名古屋以西が電化されるまで特急「つばめ」などを牽引したC62などの花形機関車を擁した伝統ある機関区だった。
昭和29年ごろの宮原機関区の様子
事務所本屋(上)とC62が並ぶ機関庫(下)。
国鉄広報映画『つばめを動かす人々』昭和29年制作 より
昭和29年に製作された国鉄の広報映画『つばめを動かす人々』のなかにも宮原機関区のシーンが数分間登場する。当時、操車場の南側にはターンテーブルがあったが、梅小路のような扇形機関庫は蒸気全盛時代にもなかったようだ。
ターンテーブルの西側には工場のような外観の機関庫があり、C62などの大型蒸気機関車が並列に入っている様子が映画には記録されている。
その後の東海道線の電化とともに、機関区も蒸気機関車から電気機関車へ模様替えされた。それと前後してターンテーブルも現在の場所に移動したようである。 ’60年代の末には、地形図に描かれているようにターンテーブル(赤印)の西側に屋根のない3本の留置線があった。
宮原周辺の地形図
【国土地理院1/25000「大阪西北部」昭和44年3月発行 】
福知山線のC57は、東海道線の電化によって煙が消えて久しい宮原機関区に、いわば客人としてやって来ていた。ターンテーブルの横には3階部分が張り出したコンクリートの建物があり、その南側の日当たりのよい留置線がC57のいつもの休憩場所だった。
「みはら」への行き方は実に簡単だった。大阪駅に着いた福知山線の列車は、すべて宮原操車場に回送される。なので、回送列車にそのまま乗っていれば、宮原に連れていってもらえた。回送に便乗するこの方法は、宮原で働く国鉄職員の人も通勤に使っていた。
もし車掌さんが来ても「みはらまで」と言えば咎められることはなかった。なんでもかんでも規則でがんじがらめに管理し、防犯カメラで監視する社会となった今では考えられないかもしれないが、当時はそんなゆるさが残っていたよき時代であった。
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