心斎橋

「心斎橋」は何処へ

「心斎橋」はかつて長堀川に架かっていた橋の名前である。

しかし、最近では心斎橋といえば、地下鉄御堂筋線の心斎橋駅の近くにある心斎橋筋商店街やその周辺部を含めた繁華街をイメージする人が多いようだ。

試しにGoogle で「心斎橋」をキーワードにして、画像検索をしてみると、上位はこんな風になる。

「心斎橋」をキーワードにしたGoogleでの画像検索結果

検索結果の上位に表示された画像のほとんどは、賑やかな繁華街の光景であったり、店舗の外観や店内の様子であったりする。繁華街の画像のなかには心斎橋筋だけでなく、戎橋や道頓堀川の派手な電飾看板などもたくさんある。必ずしも心斎橋や心斎橋筋と直接関係するものばかりではない。

なかには通天閣が写っている画像も混じっている。大阪人以外の人、とくに観光客にとっては、心斎橋筋も戎橋筋も道頓堀も新世界も全部一緒くたにして、大阪の観光地「ミナミ」なのかも知れない。

いっぽう、検索結果で上位に表示された画像のなかで、心斎橋の画像はほんの数点しかない。本末転倒というか、Googleの画像検索の精度はこの程度というか。
このような結果になるのは、心斎橋も長堀川も半世紀以上もまえになくなっていて、もう存在していないからかもしれない。デジカメやスマホで画像を撮ろうとしても、現存していないものは撮れないからネットにもアップできない。

橋の名前が繁華街の呼び名へと転じた経緯を簡単に整理すれば次のようになる。

  1. 開削された堀川に橋が架けられ「心斎橋」と名付けられた。
  2. 「心斎橋」の架かっていた南北方向の道筋が橋の名前から「心斎橋筋」と呼ばれるようになった。
  3. やがて道沿いに商店が集積して商店街が形成され「心斎橋筋商店街」と名付けられた。
  4. 「心斎橋」は商店街のある区域の呼び名として使われるようになり、さらに周辺部を含めた商業集積が進み大阪を代表する繁華街の名や地区名としてつかわれるようになった。
  5. 堀川が埋立てられ、橋が撤去されて半世紀、「心斎橋」があったことは次第に人々から忘れられてしまった。

以下、心斎橋の行方を追って市内の堀川沿いを辿ってみることにする。

大阪の堀川と長堀川

大阪の川と堀川【明治中期】
橋は主要なもののみを表示した

●東横堀川と道頓堀川

東横堀川は土佐堀川の中之島の東端付近から南に分かれて、船場と島之内の東端を流れる堀川である。
1585(天正13)年に秀吉の命により、大阪城の西惣構堀として開削されたもので、大阪にある堀川のなかでは最も古い。当初は土佐堀川から南に約3㎞で行き止まりの堀であった。その後、掘止から西に道頓堀川が開削され1615(元和元)年に完成、土佐堀川と木津川を逆L字形に結ぶ経路の堀川が形成された。

現在、東横堀川の上には、全区間に渡って阪神高速環状線の高架橋梁が続いている。空はよく見えないが西横堀川のように埋め立てられなかっただけでもよしとしなければならない。

道頓堀川はご承知のとおり外国人に人気の観光地となって健在である。だたし、両岸に競いあう原色だらけの「けばけばしい広告」は浪速の川の風情を台無しにしてしまっている。名前を売ることしか考えていない吉本のしょーもない若手芸人がほんとうの大阪弁を壊してしまったのとよく似ている。共通のキーワードは「けばけばしい」や「どぎつい」といったもので、まあ根っこは同じである。

●長堀川

長堀川は、東横堀川の末吉橋下流から西に分派し、そのまま西に流れて伯楽橋付近で木津川に合流する長さ約2.5㎞の堀川である。幅は30~40mで、元から流れていた小さな川を拡幅して堀川にしたものと推定されている。
途中で西横堀川と十字形に直交していたことから、交差部より下流は西長堀川とも呼ばれる。

開削された時期は、道頓堀と同時期の1622(元和8)年とされるが、西半分の西長堀川はそれ以前に完成していたともいわれている。

●堀川の埋め立て

江戸から明治にかけて舟運が盛んだったころは、堀川は物資の輸送を担う重要な交通路として機能したが、昭和に入り自動車交通が発達するにつれて、交通路の主役は堀川から道路へと移っていった。
戦後、堀川のいくつかは戦災のがれき処理場として埋立てられた。高度成長期になると、交通機能を失った堀川にはゴミが投棄されたり水質が悪化して都市の発展を阻害する邪魔な存在となっていった。

昭和30年代にはいると、長堀川も他の多くの堀川と同様に埋立てる計画が持ち上がった。使われなくなったドブ川を埋立てて、広い道路や地下駐車場に利用しようとしたのである。

現在、長堀川は埋立てられて残っていない。西横堀川交差部から東側は道路と地下街、地下駐車場になり、西長堀川の区間は中央部に駐車場や緑地帯のある広い道路となっている。

1585(天正13)年 ・秀吉の命により東横堀が開削
1615(元和元)年 ・東横堀の南端の掘止から西に開削し道頓堀川が完成
1622(元和8)年 ・東横堀川と木津川を結ぶ経路に長堀川を開削
1960(昭和35)年 ・西横堀川との交差点から上流区間の埋め立てが開始
1964(昭和39)年 ・長堀川の上流区間の埋め立てが完了
・長堀駐車場(地上・地下2階)が開業
1967(昭和42)年 ・西横堀川との交差点から下流区間の埋め立てが開始
1971(昭和46)年 ・長堀川の埋め立てが完了
1997(平成9)年 ・長堀川跡の堺筋~四つ橋筋間にクリスタ長堀が完成  

長堀川の橋

●長堀川に架かっていた橋

長堀川の開削によって市内中心部への舟運の便は向上した。いっぽう、堀川の存在は右岸と左岸の各地区を分かつ形となった。右岸の船場、下船場と左岸の島之内、堀江といった南北方向での人々や物資の往来に不便が生じないよう、長堀川には江戸時代からたくさんの橋が架けられていた。

心斎橋も長堀川に架けられた橋のひとつであった。


長堀川の東横堀川~西横堀川間に架かる橋
(資料:毎日新聞社『大近畿名鑑地図』1961)

上の地図には埋め立てが始まる前、1960年ごろの長堀川周辺の状況が示されている。
東横堀川から西へ分派してすぐに安棉橋があり、その下流にはのちに可動堰が設けられている。西に下っていくと板屋橋、長堀橋(堺筋)とつづき、西横堀川との交差部までの間に心斎橋、新橋(御堂筋)、佐野屋橋、炭屋橋などあわせて10の橋が架けられていた。
また、下流側の西長堀川の区間では、吉野屋橋、西長堀橋(四つ橋筋)、白髪橋(あみだ池筋)、鰹座橋(新なにわ筋)など11もの橋が架かっていた。

心斎橋の変遷

心斎橋は幾度か架け替えられている。歴代の心斎橋について簡単に整理しておく。

●江戸時代の心斎橋

最初の心斎橋は、1622(元和8)年に長堀川が開削されたのとほぼ同時期に架けられたとされている。

江戸時代、大阪の橋のほとんどは私設橋であり、財力のあった商人が費用を負担して橋を架け、維持していた。お上に頼らない大阪商人の面目躍如といったところである。
私財を投じて心斎橋を架けたのは、長堀川を開削した4人のうちの一人、長堀川の河畔に住んでいた岡田心斎といわれ、その名前から心斎橋と呼ばれるようになった。
江戸期の橋の詳細はよくわからないが、長さ約35m、幅4mの木橋だったとされている。木製だったので数十年に一度は新しい橋に架け替えられていたと思われる。

●明治の心斎橋

南側から見た心斎橋と船場の家並み 【1890年頃? 撮影】

明治になってしばらくした1873(明治6)年、心斎橋は弓形トラスの鉄橋に架け替えられた。長堀川をひと跨ぎする橋脚のない構造で、板敷きの床版は幅6~7mぐらいであろうか。橋の中央と四隅にはガス灯が設置されている。
橋の設計は日本人だが、橋の部材はドイツから輸入されたもので、当時、鉄橋はまだ珍しく、日本で5番目、大阪では2番目の鉄橋だった。

この鉄橋は、のちに石造のアーチ橋に架け替えられたが、心斎橋での勤めを終えて撤去されてからも、 市内の別の川で橋として何度も利用された。

最初は、安治川と尻無川を結んでいた境川運河の境橋として利用され、次いで、1928(昭和3)年には西淀川区を流れる大和田川の新千船橋に使われた。鉄の部材でできた橋なので、分解して組み立てる再利用が容易だったのかもしれない。


新千船橋に流用された旧心斎橋の鉄橋【1969年頃 撮影】

この写真は、新千船橋に使われていた1960年代の末に父が撮ったもので、通過するワーゲンの横で近くの悪ガキが弓形トラスによじ登って遊んでいる。ドイツ製の鉄橋にドイツの車は良く似合っており、背景には農家の藏もあってなかなか面白い光景である。

この頃、大和田川はすでに埋立てられていたが、新千船橋はしばらくその場に残されていた。1973年になって鶴見緑地に移設され、すずかけ橋として利用されたのち、さらに1989年に鶴見緑地公園内の緑地西橋として保存されている。日本に現存している最古の鉄橋とされている。

●大正から昭和の心斎橋

絵はがきにも使われた石造アーチの心斎橋

1909(明治42)年、心斎橋は新しく石造の橋に架け替えられた。愛媛県大島産の花崗岩を使った2連のアーチ橋である。高級な舶来品を商っていた心斎橋商店街のハイカラなイメージにあわせてか、西欧の橋のようなデザインが施されている。設計者は建築家の野口孫市、石工棟梁は南区東神田町の野田寅次郎である。

野口孫市は住友家に招かれて住友営繕に入り、住友家の別邸や住友銀行の各支店などを手がけたほか、中之島の大阪府立図書館も設計している。

●心斎橋の終焉

埋め立てが決まったころの長堀川と心斎橋【1961年頃撮影】
眼鏡橋の架かる川は汚れ、ゴミが漂っている
高々と掲げられた道路公団の工事看板がこの川の命運を示している

1960(昭和35)年、長堀川のうち西横堀川との交差点から上流区間の埋め立てが開始された。

急速に発展しつつあったモータリゼーションに対応するために、長堀通の道路を拡幅するとともに、 川の跡地を地下式の立体駐車場として利用するためである。

長堀川の埋め立ては心斎橋の終焉でもあった。

心斎橋は解体され撤去されたが、花崗岩の高欄など一部の部材は広くなった長堀通りを跨ぐ歩道橋の一部に転用された。歩道橋が完成したのは1964(昭和39)年のことである。

心斎橋歩道橋

長堀駐車場と心斎橋歩道橋【1969年頃 撮影】
歩道橋の少し向こう(東側)に心斎橋が架かっていた
手前は御堂筋で万博開催前はまだ一方通行になっていなかった

1970年代のはじめごろ、当時、心斎橋筋にあったヤマハと長堀通を隔てた心斎橋北商店街にあった坂根楽器店に輸入盤のレコードを見に行くことがときどきあった。その道すがら心斎橋跡の交差点を通るのであるが、御堂筋との間にあった歩道橋はいつも閑散としていて通る人も稀だった。
近くに心斎橋筋の交差点があるので、わざわざ遠回りをしてさらに階段を上り下りして歩道橋を通る人はほとんどいないからである。

ごく稀に気が向いたときだけ歩道橋を渡ったこともあるが、違和感というか「けったいなデザインの歩道橋やな」という印象だった。考えてみれば当然で、古い石橋の高欄など一部の部材を鉄製の歩道橋の水平な部分の両側にだけとってつけたのだから、デザインもへったくれもない。例えてみれば、西洋人から青い目と尖った鼻を切り取って部分移植した整形美人のようなものである。
野口孫市の設計した優れた橋のデザインは、川を前景や背景にして橋の下部を構成する石造アーチの部分の美しいラインがベースになり、それと上部の親柱や高欄、ガス灯などが一体的になって醸し出されていた。諸般の事情があるとはいえ、それをバラしてしまうとどうなるのか? 少し考えればわかる筈だ。

けったいなあの歩道橋は地元要望を受け入れた結果だとも伝えられている。もうなくなってしまったことだが、あれは部分移植にかかわったお役人の素晴らしい知性とデザインセンスが窺える負の遺産だった。もし残すのならば全体像を残さないと意味がない。

再び「心斎橋」は何処へ

最近の心斎橋跡

最近の心斎橋跡【2017年 撮影】
埋立て前の写真と同じ場所から同じアングルで撮ってみた

大阪を離れてまもなく四半世紀になる。

その間に長堀駐車場や心斎橋のあった一帯は再開発され、1997年に「クリスタ長堀」という名の地下街と地下駐車場が完成した。単独の地下街としては日本一の規模だという。しかし、開発時点でバブルの病に冒されていたのかして、地下街などを運営していた三セクはほどなく破綻。金銭感覚に欠け経営の才覚のないお役人のやることは、いつもこうである。

再開発の折に心斎橋筋が長堀通を渡る交差点には、石畳の横断歩道がつくられた。その両脇には横断歩道橋から持ってきた橋の部材で、欄干のようなモニュメントのようなものが設置された。ご丁寧に両側には川をイメージした水景施設もつくられた。
大阪市によると、横断歩道を橋のようにみせる工夫だという。

大阪市のサイトには次のように書かれている。

「大阪市では、心斎橋の歴史を尊重し、
この「道路の一部」を「橋」とみなしています。」

何度か通っているが目が悪くなったのかして、橋には見えない。ことの善し悪しについて詳しく書くのは控えるが、二度も同じ過ちをするヤツはボケである。

田舎住まいになってからは、心斎橋筋商店街に行く機会も年に1回あるかないかといったところである。買い物がてらひさしぶりに訪ねてみれば、田舎から出てきたおのぼりさんは、商店街を行き交う圧倒的な人の波に驚くばかり。舶来の観光客が群れをなして通りや店を占拠しており、聞こえる言葉も舶来の言葉ばかり。まるで外国旅行に行ったような錯覚に陥ってしまう。

ドラッグストアばかりがやたら増え、角地に店を構えている大手チェーン店の前では客引きの外国人のおね~さんが並び、マイクとスピーカーをつかって頭に響く外国語でがなりたてている。

「ハッキリ言ってうるさいねん!」と思いつつ、足早に目当ての店に寄って手短に買い物を済ませ、さっさと退散する。

ワシの知ってた心斎橋は何処にいったんや?


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