京都線は偉いんか? 宝塚線の電車の窓からみた景色
宝塚線の車窓から見上げた京都線の特急
少し高い鉄橋をクロスシートの特急型車両が颯爽と追い抜いていく
阪急電車の梅田から十三の区間は、京都・宝塚・神戸各線が並走する三複線となっている。一度に6本もの電車を走らせることのできる三複線は、私鉄では稀なようである。
阪急電車もこのことをよくわきまえていて、最近では、毎時0分に京都・宝塚・神戸各線の特急が梅田を同時に発車するダイヤが組まれているそうだ。
マルーン色の特急が3列に並ぶ阪急ならではの壮観なさまは、子どもや鉄ちゃんの心をくすぐるに違いない。
小学校に入る1年まえ、大阪市内から豊中に引っ越した。それ以降、梅田や大阪市内への行き帰りに阪急電車に乗るようになった。
靴を脱いで椅子の上に両膝をつき、窓ガラスにへばりついて眺める景色で、いつも不思議に思う光景があった。
宝塚線の電車の車窓からみる京都線の電車は、淀川を渡るとき一段高い鉄橋を走っている。逆に、京都線の車窓から見た宝塚線の電車は、一段低い足もとを走ることになる。
京都線の車窓から見下ろした宝塚線の電車
鉄橋の形も違う。宝塚・神戸の両線が鉄骨で組まれた無骨なトラス橋なのに対し、京都線はスッキリしたガーダー橋である。
おまけに京都線には中津の駅がないので、 梅田や十三を同時に発車しても、京都線の電車はどんどん加速して淀川の鉄橋に向かって進んでいく。自分が乗っている宝塚線の電車は中津に停まるので置いてきぼりにされてしまう。
いっつもスピードだして高い橋を渡っているけど・・・、「京都線は偉いんか?」
京都線は偉くなかった 鉄橋の高さが変わったわけ
子どものころの素朴な疑問が解かれたのは、ずうっと後のこと。その答えは、阪急京都線や千里線の建設の経緯、淀川の治水事業と深く関わっていた。
かいつまんで書くと次のようになる。
現在の京都線や北千里線は、十三から淡路を経て千里山に至る北大阪電気鉄道と、天六から淡路を経て京都の大宮を結んでいた新京阪の路線を母体としている。
1930(昭和5)年に阪急の前身である京阪電気鉄道が新京阪を合併し、阪急の路線となってからも、長い間、京都線は十三を起点としていた。
つまり京都線の十三と梅田間の建設は、阪急電車創業時からの路線である宝塚線や、当初は十三から分岐していた神戸線に比べて新しい。
1959(昭和34)年に梅田と十三駅間が複々線化され、そのときに建設された東側の2線を京都線の電車が使うようになった。
そういえば中学生ぐらいの時に電車で十三を通ると、がんこ寿司の創業店のあった東側寄りにちょっとうらぶれた感じのホームがあり、十三が始発駅の京都線の古い車体の普通列車が発車待ちで停まっていたのをおぼえている。そのころはすでに三複線化されていたが、梅田駅の京都線ホームは2本しか使えないため、特急や急行と千里線の普通列車で手一杯だった。京都方面に向かう各駅停車は、十三の場末のホームが始発という継子のような扱いを受けていた。
ところで、阪急の3つの路線の鉄橋が並んで架けられている淀川は、洪水を流すための放水路で、新淀川として明治時代に掘られた人工の川である。
淀川を管理している国は、明治以降、より大きな洪水にも耐えることができるよう、何回か治水計画を改訂してきた。
よりたくさんの水を流すには、川の断面積を大きくする必要がある。具体的には、次のいずれかの措置が必要である。
(1)流路の幅を広げる
(2)川底を掘るか堤防を高くして水深を深くする
土地には制約があるので、用地を取得して川幅を広げることは簡単にはできない。
川底を掘るやり方は一見簡単なようであるが、水が流れるように勾配を維持しないといけないし、淀川に架かっている橋の基礎を全部作り替えないといけない。
そんなわけで、堤防をかさ上げして高くし、洪水時により多くの水を流すことができるよう計画が改定され、その計画高に基づいて堤防を高くする河川工事が行われてきた。
京都線の車内から見下ろす宝塚線と神戸線の鉄橋
つまり、宝塚線の鉄橋が架けられたころの淀川と、京都線の梅田と十三間に線路が増設された時の淀川では、治水計画で定められた堤防の高さが変っているのである。
京都線の鉄橋は、昔に比べて数メートル高くなった計画堤防高にあわせて架けられており、昔の計画高で架けられた宝塚線よりも高い位置に架かっている。
橋の形も鋼材や架橋技術の進歩ととともに、いかついトラス構造の橋から、建設費用も安くスマートに見えるガーダー橋に変化したという訳である。
子どものころ阪急電車で淀川を渡る時にいつも思っていた「京都線は偉いんか?」という疑問に対して、その答えを自分で見いだすのに何十年もかかってしまった。
記録映画『私鉄最初の三複線工事』
三複線で淀川を渡る京都・宝塚・神戸各線の列車
淀川に京都線の橋梁を架け、高架橋梁を建設して梅田~十三間を三複線化する工事の様子を記録した映画を阪急電車(宝塚映画製作所)が制作していたことを最近になって知った。
映画は約30分ほどの短編だが、昭和34年当時、まだ珍しかった全編総天然色の作品である。
コンクリートの井筒をいくつも積み重ねながら淀川の川底深くに沈めて橋脚の基礎を設置する工事の様子や、淀川や長柄(中津)運河をまたぐ橋桁を船で運んでいる様子、橋桁を吊り上げて設置する様子、高架区間の建設工事の様子などが記録されている。
なかでも、淀川左岸堤防のすぐ横を流れる長柄運河をひと跨ぎにする橋桁は、長さが36m、重さが37トンもある。トラックによる陸上輸送では長大な橋桁を運べないことから、長柄運河を使って船で運ばれた。
長くて重い橋桁の輸送には、「水漬け曳航法」といって秀吉が大阪城を築城した時の石垣の巨石運搬と同じ方法が採用された。重い鉄の橋桁を船の上に載せるのではなく、橋桁を2隻の船の間に吊り下げて、半分ほどを水に浸けて浮力をもたせ、運搬船への荷重を軽減させる方法である。
当時の阪急梅田駅や周辺の様子も分かり、なかなか面白い映画だと思う。
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