地形図に描かれた川と島【大正~昭和前期】
陸測1万分の1地形図でみる川と地域の変貌
地図から消えた川と島(2)の冒頭にも書いたように、中津川や鼠島が含まれる1万分の1地形図(旧版)の「大阪西部」は、1921(大正10)年から1952(昭和27)年の間に測量や修正が行なわれたものがあわせて7点発行されている。
ここでは一連の地形図のなかから4点を選び、それらを順に読み解きながら大正時代から昭和の終戦前後までの中津川と鼠島の変遷を追う。
陸測 1万分の1 地形図「大阪西部」 【1921(大正10)年測量】
これは前の(2)【明治時代】にも掲げた大正10年測図、同12年発行の地形図である。同じ測量成果で制作された大正11年発行分は墨1色のモノクロであったが、この地形図は、試行的にであろうか、水域に彩色が施されたカラー刷である。
余談になるが、明治から大正、昭和、平成と制作されてきた歴代の各種地形図のなかで、個人的にはこの時代の1万分の1地形図が最も美しいと思う。文字も含めて図化はすべて手書きであるが、職人技というか手工芸的な精密感だけでなく、バランス感覚や美的なセンスも際だっている。コンピューターが機械的に図化し情報だけが詰め込まれた最近の2万5千分の1地形図と比べると、月とスッポン以上の隔たりを感じる。近年新設されたいくつかの地図記号もデザインのセンスに欠けており、最近の地形図は見るに耐えない。
話を戻して、中津川と鼠島の土地利用などを地形図から読み取り、整理すると次のようになる。
中津川
- 淀川左岸堤防の南側で毛馬から流れてきた長柄運河が中津川旧河道に接続し、南に鼠島に向かって流れている。
- 中津川の川幅(注:必ずしも水域の幅ではない)は、長柄運河との接続部付近で150m前後、最大部は鼠島の北端付近で約300mに広がっている。
- 鼠島を挟んで東西の流路に分流している。それぞれの流路の幅は、東側がやや広く150~200m前後、西側は約80mと狭い。
- 中津川は北区と西区の区界を成しており、鼠島付近では西側流路の中央付近に区界が位置している。
- 東側の流路には鼠島のほぼ中央部付近に締切り堤が設けられている。
- 締切り堤防の上は幅約2mの道で、鼠島寄りには六軒家水門が設置されている。
- 六軒家川を南に分派したのち、東側流路には鼠島の南端部付近にも締切り堤が築かれていて、正蓮寺川への流れは閉塞されている。
- 中津川の両岸は工業用地として利用され、川に面して比較的大きな規模の工場が分布している。業種は、製薬、製紙、化学肥料、リン鉱石、鉛管、製麻、紡績などである。
鼠 島
- 島には「西野田下島町」と「鼠島」の地名表記がある。なお、西野田上島町は、少し上流の左岸一帯である。
- 島の北側約3分の1に鼠島消毒隔離所が設置されている。
- 同所の建物は次の3種に大別できる。ⅰ)敷地内の北側に建てられている東西方向に細長く大きな建屋:約5棟、ⅱ)南側にあるL字形のやや大きな建屋:3棟、ⅲ)敷地内各所に分散する小さな建物:約20棟
- 島の西南部には六軒家閘門が設置されている。
- 閘門の南北、分流した中津川に面して扉室とゲートが設けられている。
- 二つの扉室の間にある閘室は幅約10m、長さ約90mである。
- 北側の扉室の両側に小さな建屋がある。閘門の扉操作員の詰所と思われる。
- 閘門よりも西側の島内3分の1は未利用地となっている。
陸測 1万分の1 地形図「大阪西部」 【1927(昭和2)年 鉄補】
これは上に掲げた1921(大正10)年測図の地形図をベースにして、鉄道を補足して1929(昭和4)年に発行されたものである。前版と同様に水域に彩色が施されたカラー刷である。
前版と比べた場合の主な変化は次の点である。
- 1924(大正13)年に開業した阪神電車の伝法線(のちに西大阪線と改称)が記載されている。なお、同線は当初、千鳥橋~大物間で営業を開始し、1928(昭和3)年に尼崎まで延伸して本線と接続した。
陸測 1万分の1 地形図「大阪西部」 【1929(昭和4)年 修正】
この図は、上に掲げた大正10年測図の地形図をベースにして、その後の変化に対応した修正を1929(昭和4)年に施し、1932(昭和7)年に発行されたものである。刷り色が墨から朱色に変わり、前版とはイメージも大きく変化した。
前版と比べた場合、変化した主な記載内容は次の点である。
中津川
- 中津川から東側流路にかけての左岸側が大きく埋立てられた。背後にあった水路や湿地も埋めらて整地されているが、具体的な土地利用はまだ行なわれていない。
- 埋立てによって中津川の水面幅は大きく狭められ約60~80mになった。また、東側流路の幅も30m前後に狭められた。
- 東側流路の鼠島南端部付近にあった締切り堤が撤去された。
- 西側流路の鼠島南端部付近に締切り堤が築造された。
鼠 島
- 六軒屋第一閘門の東側に第二閘門が増設された。
閘門の増設と航路の変化
大正から昭和初年にかけて、地形図上で確認できる大きな変化は阪神電車の伝法線(のちの西大阪線)ができたことである。いっぽう中津川や鼠島は、地形図上では顕著な変化は見当たらない。
これは、実際に大きな変化がなかったのではなく、大正末期には大きく変貌を遂げているはずである。地形図上に反映されていないのは、改訂作業が次に述べる1929(昭和4)年発行の版まで少し先送りされたためと推定される。
1929(昭和4)年に修正された地形図をみると、川も島も大きく変化している。
一番の変化は航路や潮汐変動に関係する工作物の築造や撤去である。具体的には、東側流路南端における締切り堤防の撤去、西側流路への締切り堤防築造、鼠島への第二閘門増設である。
六軒屋第二閘門は、大阪港方面と長柄運河方面とを航行する船の交通量の増加に対応するために、4年の工期をかけて第一閘門の東側に築造されたもので、1923(大正12)年に竣工した。
また、上の地形図には載っていないが正蓮寺川の河口近くに築かれていた締切堰堤が1923(大正12)年に撤去されている。これらの築造や撤去にともなって伝法川・正蓮寺川・六軒屋川と長柄運河方面との航路が大きく変わった。
すなわち、鼠島の西側流路を航路として伝法川方面と長柄運河方面とを自由に行き来していた船も、第一閘門もしくは第二閘門を通過する経路となった。
正蓮寺川の河口付近にあった締切り堤防の撤去によって、正蓮寺川も航行できるようになった。その結果、大阪港方面と長柄運河や淀川方面を結ぶルートは、伝法川ルート、正蓮寺川ルート、安治川・六軒屋川ルートの3本になり、航路の選択肢が増えた。
六軒屋閘門を利用して六軒屋川・安治川方面と長柄運河方面を航行する船舶については、航路の変更はないが閘門が2箇所に増えたので、閘門通過時の扉開閉の待ち時間が短縮され、スムーズに航行できるようなったものと思われる。
地理調査所 1万分の1 地形図「大阪西部」 【1952(昭和27)年 二修】
先に掲げた1929(昭和4)年修正、1932(昭和7)年発行の地形図のあと、5年後の1932(昭和7)年に部分修正されたものが1934(昭和9)年に発行されている。ここには掲げていないが、中津川と鼠島付近に関しては特筆すべき変化は見られない。
その後、日本は領土を拡大しながら戦争への道を急速に歩み始めた。戦前の地形図は1934(昭和9)年の発行分が最後となった。地形図を制作していた大日本帝国陸軍陸地測量部も戦地に狩り出され、もはや大阪市内で大縮尺の地形図を改訂するだけの余力はなくなっていたのであろう。
戦争が終り、陸地測量部が行なっていた地形図制作は、戦後、内務省地理調査所を経て現在の国土地理院に引き継がれた。戦災による都市部の被害や復興に伴う変貌も著しかったが、「大阪西部」の修正測量が行なわれたのは1952(昭和27)年になってからである。その成果に基づく改訂版が発行されたのは、終戦から10年以上も経過した1956(昭和31)年のことである。この地形図は、1万分の1地形図(旧版)としては最後のものになった。
地形図に描かれた戦後7年を経過した中津川と鼠島周辺を戦前の昭和初年と比べた場合、記載内容の大きな変化は次のとおりである。
中津川
- 西側水路に築かれていた締切り堤防付近の水路が更に埋立てられた。その結果、第一閘門より西側の鼠島は中津川右岸の伝法地区と完全に陸続きになった。
- 東側水路の左岸側も埋立てて陸域が前だしされ、水路幅が更に狭められたように見受けられる。ただし、この変化は図化や印刷時に生じた誤差の可能性もある。
鼠 島
- 鼠島消毒隔離所の建物群は米軍の空襲により消失し、施設は全滅した。
- 隔離所の跡地は、焼け野原の状態で放置されているようにも見受けられるが、小さな建物も描かれている。この詳細は次の(4)【戦後~平成】で述べる。
- 第二閘門の北側閘室が少し埋立てられたように描かれている。しかし、地形図表記は1948年に撮影された空中写真と異なっており、図化時の誤記の可能性もある。この点についても次の(4)で言及する。
戦争が終って中津川と鼠島はかろうじて残ったが、周辺の地区は空襲を受けて焼け野原となった。鼠島にあった大阪市立消毒隔離所も米軍が投下した焼夷弾によって手荒く焼却されてしまった。
・次 は▶中津川と鼠島-地図から消えた川と島(4)
●参考文献
- 大阪市保健部編『大阪市保健施設概要』1932、大阪市役所保健部
- 建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』1966、淀川工事事務所
- 小出 博『日本の河川研究』1972、東京大学出版会
- 建設省近畿地方整備局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
- 三浦行雄『大阪と淀川夜話』1985、大阪春秋社
- 水原 完「大阪桃山病院ができたころ」、『生活衛生』29巻6号、1985、大阪生活衛生協会
- 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」、『大阪春秋』第88号、1997、大阪春秋社
- 大阪歴史博物館『水都大阪と淀川』特別展図録、2010、大阪歴史博物館
●制作メモ
- 2007/07/24:鼠島跡、正蓮寺川、六軒川など現地を確認
- 2017/11/10:コンテンツの制作に着手
- 2017/11/11:【はじめに】を公開
- 2017/11/12:【新淀川と長柄運河の開削】を公開
- 2017/11/13:【絵図や古地図に描かれた川と島】を公開
- 2017/11/14:【地形図に描かれた川と島】の一部を公開
- 2017/11/16:【伝染病対策基地としての鼠島】を公開
- 2017/11/20:【地形図に描かれた川と島】に●鼠島周辺の建物や工作物を追記
- 2017/11/21:【鼠島周辺の河川管理施設】を公開
- 2017/11/23:【地形図に描かれた川と島 大正~昭和前期】を公開
・次 は▶ 中津川と鼠島-地図から消えた川と島(4)
・目次へ戻る▶ 大阪のこと【INDEX】
・一覧できる地図へ▶ MAPS 大阪のこと
Copyright, Shinji TAKAGI, 2017.All Rights Reserved.