中津川と鼠島-地図から消えた川と島(5)

中津川と鼠島の変遷

中津川と鼠島の350年

少し駆け足だったけれども、中津川と鼠島の江戸時代初期から現在までの約350年をみてきた。変遷の要点を手短にまとめると次のようになる。

中州から流作へ

淀川や中津川によって運ばれてきた砂礫が六軒屋川との分派点に堆積し、江戸時代のなかごろには小さな中州が形成された。その中州は、大水や歳月の経過とともに成長しては消え、再び姿を現しては少しずつ規模を広げていった。
そんな消長を何度も繰り返しながらいつしか小さな島に成長した。大水がでて水位が高くなると島はときどき冠水したが、江戸時代の終わりごろには「流作」として利用する福島の農民も現れた。

鼠島こと官有地 西野田下島町

いつのころからか島は「鼠島」と呼ばれたが、明治に入って「西野田下島町」の住所が与えられ、河川敷の一部として国が管理することとなった。

地の利を活かして設置された公衆衛生の拠点・河川管理の基地

明治から大正にかけて、コレラの流行、新淀川と長柄運河の開削、河川舟運の隆盛といったことなどを背景に、鼠島には「消毒隔離所」と「六軒屋閘門」などの施設がつくられた。伝染病を予防する公衆衛生の拠点として、あるいは通船路の確保を中心にした河川管理の基地としての役割を担うこととなった。鼠島が選ばれたのは、ともに中津川や分派する六軒屋川などに囲まれた地の利を活かしてのことである。
いっぽう中津川の川沿いには、舟運による河川交通の利便性を活かして大きな工場が立地し、中津川一帯は『大大阪』を支える工業地区のひとつになった。

戦災などによる土地利用の変化

空襲によって消毒隔離所は消失した。鼠島は四方を川で囲まれていたので、周辺の市街地から飛び火した可能性は低い。無差別爆撃が医療施設を焼き払ったのである。この非人道的行為は、戦後、米空軍を創設した米軍航空部隊の上層部が手柄を立てようとして、焼夷弾による無差別爆撃を部下に命じたからである。このことは記憶しておかねばならない。
戦争が終ると鼠島には最初の転機が訪れた。消毒隔離所の跡地には戦災や災害などで家を失った人々が仮の住まいを設けた。中津川周辺にあった工場のいくつかは戦災で焼け、跡地には住宅が建てられた。

埋立てによる中津川と鼠島の終焉

2回目の転機は、自動車交通の発達にともなう舟運の衰退、高潮対策など治水・利水事業にともなう河川の再編による変化である。
役割を失った中津川は埋立てられ、鼠島は両岸の福島や此花と陸続きになった。中津川と鼠島の実質的な終焉はこの時期である。

総合開発事業と都市環境の再整備

その後、川と島があった広大な土地を活用すべく都市再開発の計画が立てられた。従来、縦割りだった行政部局や公団が連携し、河川・都市環境・高速道路などを一体的に整備する総合開発事業によって中津川と鼠島のあった場所の一部は、広い公園が整備され高層住宅が建ち並ぶニュータウンに生まれ変わった。また、中津川から正蓮寺川にかけての河道跡には、地下式の高速道路や地下河川、その上部区間を活かした公園などが整備された。

かつて福島や此花の住民を悩ませた水害や大気汚染を気にすることなく、快適で便利な都市環境を享受できるようになった。

正蓮寺川の跡に整備された公園正蓮寺川の跡に整備された公園と高速道路の非常出口
埋立てられた正蓮寺川跡は公園として整備されている
しかし大雨が降ると以前の堤防の高さまで雨水を一時貯留する池になる
地下を通る高速道路の非常出口は地上から数メートル高くなっている

交通路の位置の持続性

世の中には変化するものばかりではなく、時代を超えて持続したり継承されるものもある。交通路の位置はそのひとつである。
例えば、かつて徒歩や馬背で越えた峠道があり、その真下に何百年も経過してからトンネルが掘られ自動車交通路となっているケースである。その典型的な例は、東山道の難所だった神坂峠と中央道の恵那山トンネルで、両者の位置はほぼ一致している。現在、建設中のリニア中央新幹線も、3つルートのなかから東山道に近い位置が採用された。

大阪西部での物資輸送の交通手段は、船や艀から自動車へと変わったが、交通路の位置はほぼ同じである。舟運を目的に開削された堀川や運河を埋めて道路にした場合なら、交通手段と交通路が連関するので交通路の位置も当然継承される。
しかし、中津川や正蓮寺川の場合は堀割が道路に置換えられたケースと違って、自然河川の河道だった場所が姿を変えて道路になった。ほかに適当な用地がなかったので、川を埋めるなどして旧河道に(高速)道路をつくったのだから同じ位置になって当然だと言われれば、それまでであるが・・・・・・

中津川と鼠島が残したもの

かつて鼠島のあった場所には、現在、新家西公園など3つの公園が整備されている。公園の西隣には阪神高速淀川左岸線の大開出入口と料金所できている。料金所横のコンクリート壁に設置されているプレートには、このあたりの地盤の高さが海抜1mであることが示されている。一時期は地盤沈下に苦しめられたが、現在は盛土が施されて海面よりも高くなったので、まずはひと安心である。

ニュータウンに平穏な時が流れ、歳月の経過とともに世代交代もすすむ。この地に中津川が流れ、分流する川に挟まれた小さな島があったことは人々の記憶から消えていくであろう。
しかし、いつの日かわからないが、天が牙を剥くときが来る。大地を揺るがし、大水が押し寄せたとき、そこにはかつて中津川が流れ、しばしば冠水した土地柄であることを知らしめることになるかもしれない。

話が少し飛躍するが、明治時代に洪水を排除するために開かれた新淀川は、津波の襲来には無防備であるばかりか、津波が遡上する恰好のルートを提供している。当時の淀川改良工事や淀川下流改修工事の計画がつくられたとき、「大津波は想定外」だったはずである。また、立派な防潮水門や堤防がいかなる場合もちゃんと役立つかどうかは、阪神淡路大震災や東日本大震災を思い出せばよい。数年前の鬼怒川水害で本堤が決壊したくさんの家が流されていったことを思えば自ずと答えはでてくるであろう。

最悪の場合、高層住宅が陸の孤島となるかもしれないし、高速道路の地下トンネル内で洪水の氾濫流に車ごと吞まれるかもしれない。

水は必ず低きに流れる。しかしときには高きに向かって逆流することもありうる。忘れてはいけないことは、石に刻んでも後世に伝えていくべきである。

今後の課題

本稿の第1回目の冒頭に記したように、今回は手持ちの資料を中心に、入手できた資料の範囲でとりあえず頭の中に散らばっていたことがらを整理してみた。もう少し精査が必要な事項、大阪で捜さないといけない史料や資料、現地の再確認など、やるべき作業や課題はたくさんある。
とりあえず、忘れないうちに列挙しておく。

  • 市立図書館などが所蔵している江戸時代中期の古地図や絵図の内容確認
  • 鼠島の名前の由来、命名の時期などの調査
  • 市立消毒隔離所に関する各種資料の調査、内容確認
  • 六軒屋第一および第二閘門の運用状況や航行船舶に関する資料の調査、聴き取り
  • 六軒屋水門の運用状況や操作規則などに関する資料の調査、聴き取り
  • 戦後の不法占用問題に関する資料の調査、聴き取り
  • 正蓮寺川総合開発事業で実施された各種施設の整備状況
  • 長柄運河の現況確認【2021/10 一部実施】
  • 四貫島初代大坂船奉行所跡訪問、大阪市長揮毫碑文文字拝観【2022/06 実施済】
  • 森巣橋筋商店街・四貫島中央通商店街探索、優良居酒屋・立ち飲み屋開拓【コロナ禍のため順延】

【追記:2022/06/16】

六軒屋洗堰(下島水門)での水難事故

大開延命地蔵尊と魔の水門

鼠島のあった場所から東に延びる道が北港通りに突き当たる吉野5丁目西交差点の歩道の脇に、木立に囲まれた祠が建てられている。祠のなかには「大開延命地蔵尊」という地蔵が祀られている。この地蔵は、もとは中津川の六軒屋洗堰の近くに祀られていたものだが、鼠島に住んでいた人たちが転居する際この場所に移されたという。

北港通りの近くにある延命地蔵尊

地蔵の由来が記された板書

祠の内壁には、次のような地蔵尊の由来が記された板書が掲げられている。

この地蔵尊は昭和26年8月に下島水門に建てられた。
現在の福山通運の建物のある裏側は、幅50mほどの川で荷物を積んだ船や艀が通っていた。
現在、浪速通運の正門がある場所には下島水門があって、水門のところの流れは激しい渦をまいていた。
毎年5月ごろになると稚あゆが川を遡ってくるので、ここで釣り糸を垂れるとたくさんの稚あゆが釣れた。

昭和26年5月のある日、水門のところで9歳と13歳の兄弟が流されて死亡する水難事故が起きた。
最初に川に落ちておぼれたのは弟のほうで、それを見つけた兄は「助けたるぜ!」と叫んで川に飛び込んだ。
2人は速い流れに流されてしまい、兄は弟を助けることができず、結局2人とも亡くなった。
川岸には近くの人たちが20~30人ほどいたが、流れが速くどうすることもできなかった。

その他にもこの水門のところではたくさんの人が渦に巻かれて亡くなっていて、地元では「魔の水門」と呼ばれるようになった。
水禍がないよう願いを込めて、たくさんの人の助力で延命地蔵尊と名付けた地蔵を水門のことろに建立した。

この「下島水門」というのは東側の流路にあった六軒屋洗堰のことである。地元の人たちはこの名前で呼んでいたであろう。

事故の起きた1951(昭和26)年の状況に近い1948年に撮影された事故現場の空中写真を再掲する。

六軒屋洗堰 下島水門

鼠島と六軒屋洗堰付近【1948(昭和23)年 米軍撮影】
洗堰を流下している速い水流の立てる白波が捉えられている。

『淀川百年史』に記された六軒屋洗堰の諸元をみると、全開状態にすると併設されている2本のサイフォンとともに毎秒22.24トンの水を流す能力がある。この洗堰を通過する流路の幅は狭いので、全開にして毎秒20トン前後の水が流れたとき、川の中央付近の流れは相当速くなる。速い流れの両脇にはあちこちに渦が生じ、複雑で危険な流れであったものと思われる。
兄弟が流される事故が起きたときの流量は不明であるが、地蔵尊に掲げられた板書の「川の中央を子どもの頭が浮き沈みしながら流されていった」「アレヨアレヨと叫ぶだけでどうすることもできなかった」という記述からみて、おそらく全開時に近い水量が流れていたのであろう。

川での水難事故の特徴と教訓

水が温むころや初夏になると、川遊びをしていた子どもが水難事故にあうというニュースが毎年のように報道される。
なかにはこの事故のように、一緒に遊んでいた兄や友だちが、おぼれた弟や妹を助けようとして川に入り、助けることができないだけなく、二次災害を招いてしまうケースもしばしば見受けられる。

じつはこの事故は、次の二つの点で典型的な川の事故である。

ⅰ)危険な場所で子どもが川遊びをしていて事故にあうケース
ⅱ)助けようとして二次災害を招いたケース

水門の設置されたような場所は、川の流れが速くなったり、人を川底に引き込む危険な渦が生じて水難事故が起きやすい危険な場所である。
川の水というのは、広い川幅の河道を流れているときはゆっくりと流れていても、水門や岩場などで川幅が急に狭められると水の挙動に大きな変化が起きる。狭い箇所を同じ量の水が流れるためには流速が速くなる。
水門を通過したあとも、速い流れの勢いはしばらく衰えない。さらに、速い流れと周囲のゆるやかな流れとの間に水圧差が生じて危険な渦ができたり、水中に見えない壁ができたりする。そういう不規則な流れのあるところでは、泳ぎの得意な人でも意のままに泳ぐことは難しい。さらに、溺れた人に抱きつかれて共倒れになる危険も高い。

川での水難救助はたいへん難しく、しかもかなりの危険を伴う。訓練を重ねた消防のレスキュー隊員でさえ、実際に溺れている人を訓練どおりに救える確率は高くない。

川の水難事故では、救助しようとした人も事故に巻きこまれる二次災害の発生頻度が高いという特徴ある。
手元に過去14年間に全国の川で起きた2420件の水難事故事例を集めたデータがある。それらのデータの解析を通じて得られた結果を示すと次のようになる。

2420件のうち、現場に居合わせた同行者などによる水難救助行動があったのは約4割の942件である。その942件のうち約15%に相当する136件で二次災害が発生している。
また、この二次災害が起きた136件の事故について、最初に溺れた人の同行者の種別をみると、家族連れのケースが約4割、友だち同士など子どもだけのケースが約2割である。最初に溺れた人の同行者というのは、回りくどい言い方であるが、救助行動中に二次災害にあった人のことである。

家族や兄弟、友だちを助けたいという一心で、自分自身の危険を顧みずに飛び込むケースが多いが、その先には高い確率で悲惨な結果が待っている。
目の前で誰かが溺れた、もし、そのようなシーンに遭遇した場合は、飛び込むのではなく、棒やロープ、クーラーボックス、ペットボトルなど浮力を持った容器を投げ入れるなどして二次災害のリスクを冒さないことが重要である。救助するためにいきなり川に入らないのが救助の鉄則である。

川での水難事故を防ぐためにはいくつかの要諦がある。君子に倣い「川の危険なところには近づかない」というのもそのひとつであるし、流されたときに備えて予めライフジャケットを着用しておくというのも有効である。

ライフジャケットを着ていれば流されても大丈夫
慌てずにライフジャケットで浮いて時間を稼ぎ、
岸から投げられたロープを落ち着いてしっかり掴めば助かる

10年前の2007年に中津川と鼠島の跡を訪ねた時に、この延命地蔵尊にも立ち寄っていた。小稿を終えるにあたって、この下島水門の話を付記しておく。

 中津川と鼠島-地図から消えた川と島 <完>


●参考文献

  • 大阪市保健部編『大阪市保健施設概要』1932、大阪市役所保健部
  • 建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』1966、淀川工事事務所
  • 小出 博『日本の河川研究』1972、東京大学出版会
  • 建設省近畿地方整備局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
  • 三浦行雄『大阪と淀川夜話』1985、大阪春秋社
  • 水原 完「大阪桃山病院ができたころ」、『生活衛生』29巻6号、1985、大阪生活衛生協会
  • 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」、『大阪春秋』第88号、1997、大阪春秋社
  • 大阪歴史博物館『水都大阪と淀川』特別展図録、2010、大阪歴史博物館

●制作メモ

  • 2007/07/24:鼠島跡、正蓮寺川、六軒屋川など川など現地を確認
  • 2017/11/10:コンテンツの制作に着手
  • 2017/11/11:【はじめに】を公開
  • 2017/11/12:【新淀川と長柄運河の開削】を公開
  • 2017/11/13:【絵図や古地図に描かれた川と島】を公開
  • 2017/11/14:【地形図に描かれた川と島】の一部を公開
  • 2017/11/16:【伝染病対策基地としての鼠島】を公開
  • 2017/11/20:【地形図に描かれた川と島】に●鼠島周辺の建物や工作物を追記
  • 2017/11/21:【鼠島周辺の河川管理施設】を公開
  • 2017/11/22:【地形図に描かれた川と島 大正~昭和前期】の一部を公開
  • 2017/11/26:【地形図に描かれた川と島 戦後~平成】を公開
  • 2017/11/26:【中津川と鼠島の変遷】【六軒屋洗堰での水難事故】を公開

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