ラサ・スポーツセンター

ラサ・スポーツセンター

ラサ Rasa

ラサというのは、此花区の淀川べりにあったラサ・スポーツセンターのことで、ふつうは省略して単に「ラサ」と呼んでいた。ラサは、梅田から阪神電車に乗り、淀川駅で降りて堤防沿いに5分ほど歩いたところにあった。
長柄運河が中津川に接続していたところのすぐ西側である。ラサのスケートリンクに通っていた当時は、埋め立て工事がほぼ完了していたと思うがよく憶えていない。

淀川とラサ付近【1975年国土地理院撮影】
右上隅が阪神淀川駅、ラサは駅から堤防沿いに歩いてすぐのところにあった

ラサ・スポーツセンターは、ラサ工業という会社が経営していた。
ラサ工業は東証1部の上場企業で、現在の本業は化成品、機械、電子材料などのメーカーである。

明治や大正に発行された古い地形図をみると、ラサ・スポーツセンターのあったところには大きな工場があり、「硫曹会社」だとか「ラサ島燐礦大阪工場」と記されている。ラサの工場はずいぶん広い敷地面積を有しており、ラサ島から船で運んできた鉱石を釜に入れて焼き、硫黄分を溶出させる精錬所などの施設が建ち並んでいた。昔のことになるが、最盛期には黄色など色の付いたけむりが煙突から絶えず排出されていたという。

大正時代のラサ工場大正時代の地形図に記された「ラサ島燐礦大阪工場」
仮製1万分の1地形図「大阪西部」【1921(大正10)年測図】
のちに、工場跡地の赤い○印のあたりにラサスケートリンクができた

社名の “ラサ” は、1907(明治40)年にラサ島(沖大東島)で肥料の原料となるリン鉱石を採掘したことに由来している。ラサ島は、沖縄の東南約400㎞にある孤島で、大阪からだと約1200㎞も離れている。リン鉱石の採掘はもう行われていないが、今でも島全体をラサ工業が所有しているそうだ。

ラサがこの淀川べりにスポーツセンターをつくったのは、東京オリンピックが開かれる前年の1963(昭和38)年のことである。長柄運河から続く中津川のほとりにあった工場が閉鎖となり、その跡地を有効利用するために新規事業を始めたようだ。
スケートリンクにだけしか行ったことがないが、ほかにプール、ボウリング場、ゴーカート、アーチェリー、バッティングセンター、ゴルフの打ちっ放し練習場などがあった。

ラサの広告ラサ スポーツセンターの広告【1970年代後半】

ラサ・スケートリンク

ラサの屋内スケートリンクはかなり大きくて、中学の運動場の半分ぐらいはあっただろうか。そこを左回りにグルグル回る。
ネット調べてみると、1周250メートルのスピードリンクと、ホッケー・フィギュアのリンクがあったと記されている。できた当時、屋内リンクとしては世界一の規模だったらしい。

それまでやったことのなかったスケートに誘ってくれたのは中学の同級生だったN君で、彼は兄さんと一緒にラサに通っていたようだ。自分のスケート靴も持っていて、かなりうまかった。最初はN君のお古の靴を借りて滑り方を教えてもらった。1~2時間でなんとか滑れるようになったので、靴はそのままいくらかで譲ってもらった。

スケート靴は、スピード、アイスホッケー、フィギアと用途によってタイプが分かれている。N君から譲ってもらった靴は、“ハーフ”といって、スピードとアイスホッケーの中間のタイプだった。そこそこスピードもだせるし、ホッケーやフィギアほどではないけど、急なターンや旋回も、まねごとならば少しはできた。

スケートを始めた最初のシーズン、ラサにはN君と一緒に4~5回通った。専任コーチの指導がよかったので、2回目からはN君の真似をしながら足をクロスさせてカーブを曲がる練習をするようになった。

ラサ帰りの定番コース

スケートをすると腹が減る。ラサの中にあった食堂は値段が高かったので、そこでは食べずに帰り道にある梅田の阪神百貨店の地下にあった食堂街に立ち寄った。
食堂街は2つあって、ホーム横の地下2階がカウンター席の飲食店街、地下1階が屋台のような立ち食いの店になっていた。それぞれ “貧民食堂”、“ど貧民食堂“ と呼んでいた。阪神名物のいか焼き屋は当時から “ど貧民” のほうの繁盛店でいつも人が並んでいた。

N君と行ったのは “貧民” のほうで、和洋中華に喫茶といろいろな店があった。どの店も安くて、たしか100円均一だったと思う。
“チャンメン”という餡かけのチャンポン麺のような中華料理がN君の大好物だった。腹もそこそこ膨らむので、N君につきあって毎回チャンメンを食べていた。

かつて“貧民”とか“ど貧民”と呼んでいた食堂街は、その後“フードテリア”と“スナックパーク”というお洒落な名前に変わり、あいかわらず繁盛していたようだ。現在は入居していた大阪神ビルディングの建て替えのためしばらく休業しているようだ。

中3の夏に別の中学に転校してしまったので、次のシーズンはスケートに行けなかったが、N君からは近況を記した年賀状が届いた。クラスの十数人でラサに通って練習し、冬休みには体育の先生だった担任のI先生も誘ってみんなで滋賀県の栗東にある屋外リンクに遠征したと書いてあった。
そして高校受験が間近に迫っているのにスケートばかりしていたので、どこを受けても滑りそうで、入れる高校がないとも書かれてあった。

スケートと阪神の貧民食堂街を教えてもらったN君とは、転校して以来会っていない。スケートがうまかった彼は、高校にちゃんと滑り込めたのだろうか?

その後、ラサ・スポーツセンターは1984(昭和59)年3月に閉鎖された。現在、ラサの跡地には高見フローラル・タウンの高層住宅群が建っている。


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