正蓮寺川の造船所

舟運を支えたさまざまな仕事

かつて大阪が水都だったころ、川や堀川、運河といった川筋や港湾周辺には、小型の貨物船や砂利船、牽船にひかれた艀などが行き交っていた。
大阪には、そうした舟運を支えていたさまざまな職業や商売、事業所があった。

それらを思いつくままに列挙すると、船会社、回漕店、造船所、船大工、櫓や櫂の製造所、船具店、発動機整備業、川砂屋、観光船運航会社、倉庫会社、水門製造会社などである。もちろん船長や船員といった船乗り、荷役に従事した冲仲仕や港湾労働者などの人々は舟運を支える最重要な職業であった。

また、そうした船乗りたちを相手にした商売も多くあった。
例えば、船員や川船の上で暮らす人々などに商品や食料を販売する船食船や船食業である。昭和30年ごろの大阪を描いた『泥の河』で、端建藏橋のへりにあった「やなぎ食堂」(映画では「なには食堂」)も船乗り相手に営まれた店のひとつであった。さらに、水上学級の先生や水上警察署の署員なども舟運に従事する人々を後方で支援をした関係者といえる。

木造船の造船所

木造船の造船所と作業風景【1961年 撮影】
写真を撮ったころは舟運の晩期であり、新造船よりも痛んだ木造船の修繕が
主な仕事だったのだろう、赤の矢印は後述する防潮堤に設けられた陸閘のゲート

川の縁に建っているのは、木造船の造船所である。
父がこの写真を撮ったのは1961(昭和36)年の秋のことである。撮影メモなどは残っていないので正確な日付は不明であるが、同一日に撮影された一連のカットから、おそらく11月23日、勤労感謝の日の祝日だと推定される。国旗が掲揚されている閑散とした国鉄桜島駅が写っていること、帰宅途中に立ち寄った梅田で撮影したカットには阪神百貨店の外壁に吊された屋外広告が写っており、催事の日程が書かれているからである。

写真には祝日にもかかわらず造船所で働く7~8人の人々が写っている。2人がかりで船尾の舵を調整している人、別の船の船首付近の甲板で作業をしている人、建屋の中や前で木材を片付けている人などがみえる。
小振りの伝馬船にのって櫓を漕いでいる人は、通りがかりの近所の人であろうか。小舟を足代わりにしているところからみて、もしかしたら、ご先祖様はこのあたりのムラで漁業を営んでいた人なのかもしれない。

この写真をみたとき、最初はどこの川の風景なのかよく分からなかった。安治川か木津川あたりかなとも思ったが、川に漂っている空気感や背景に写っている建物の様子がちょっと違う。
フィルムはポジだったがスリーブのままだったので、撮影順を追って地図上でその日を足取りをたどり、この場所が正蓮寺川であることをようやく突き止めた。フィルムにフレーム№が記されていないので、もし1コマごと切断されてマウントされていたらお手上げであった。
淀川と安治川河口の間に撮られていたので、地理的には伝法川の可能性もあったが、撮影時点で伝法川は流末部分を残してすでに埋立てられていたので正蓮寺川に確定である。

鴻池組と正蓮寺川

左側に停泊している船の船首には、白地に塗られたところに「北」の漢字の両側が上に伸びて円弧を描いているロゴマークが見える。これはたぶん鴻池組の社章であろう。
同社の沿革によると、1871(明治4)年、鴻池忠治郎が創業した鴻池組は北伝法町が創業の地で、町名の「北」をデザインした社章が制定されている。建設業ならびに運輸業を営み、1898(明治31)年から淀川改良工事にも従事したと記されている。1910(明治43)年には伝法に鴻池本店の洋館も完成している。

戦争中に制定された軍需会社法によって、1945(昭和20)年に鴻池組運輸部から鴻池運輸株式会社が分離独立しているので、この船は鴻池運輸の船かもしれない。

このあたりは鴻池組の揺籃の地である。伝法川跡の北側には旧本店の建物が残っているし、正蓮寺川の恩貴島(おきじま)橋のすぐ近くの旧河道の北側に立派な社員寮が建っている。

かなりの時間をかけて写真が正蓮寺川であることまではわかったが、造船所のあった場所が正蓮寺川のどのあたりで、南北どちら方向を撮ったのかまでは特定できなかった。

原版はモノクロのポジで、小西六から発売されていた “KONIPAN REVERSAL” という銘柄である。おそらくモノクロ映画用につくられていた長尺フィルムから切ったのであろう。紙焼きは反転しないといけないので、密着も大きくしたものも残されていなかった。
そのポジをフィルムスキャナーでスキャンし、ピクセル等倍に拡大してモニター上でゴミ消しをしているとき、場所を特定する決め手となる手がかりが見つかった。

写真の右手に煙突が3本立っている。それらのうち1番奥に見える細い煙突に「ゆたか温泉」という文字がペンキで描かれていた。つまり風呂屋の煙突であり、「ゆたか温泉」という名前の銭湯を捜せば撮影場所が特定できる。
調べた結果、ゆたか温泉は酉島町の東端にあった。この造船所があったのは、正蓮寺川に架かる恩貴島橋の少し下流の右岸だということがわかった。

写真を撮った年代とかなり離れているが、昭和初年に発行されたこのあたりの位置関係を示した地形図を示す。地形図にある恩貴島町は、現在の酉島地区の東部を占めている。

正蓮寺川と造船所のあった付近の地形図
陸測1万部の1「大阪西部」【1932(昭和7)年部分修正】
恩貴島橋の下流右岸の水色に彩色した範囲は造船所、赤丸はゆたか温泉を示す
川の名前の由来となった正蓮寺は恩貴島橋の北側すぐの所にある
なお、地形図の測量された年代は写真撮影時期と大きく異なっている

造船所の立地と高潮対策

恩貴島橋の少し下流で、右岸にあった造船所を写したカットはもう1枚あった。ただし、パノラマ写真のように連続したものではなく、2枚の撮影範囲に少し間が開いていて中間部が十メートルほど欠落している。
画像処理ソフトで距離を調整しながらつないでみたのが下の画像である。恩貴島橋のすぐ下流で1枚目を撮り、数十メートル歩いてもう1枚撮ったのにおそらく間違いはないと思う。

正蓮寺川の河畔に並ぶ造船所の建屋【1961年 撮影】

造船所は、川に向かって開口部のあるいくつかの建屋に分かれている。3棟ずつ2箇所に分かれているようにも思えるが、それぞれが独立した船大工が経営している個人営業の造船所なのか、それともひとつの会社なのかは判別できない。

川に面して造船所の建屋が建っている敷地は、川の水面とそんなに変わらない地盤高である。建屋と川の間には船を出し入れするためのレールが敷かれている。地盤高が低いのは、水面からの高さを小さくして船の移動作業を容易にするためであろう。

堤内地と呼ばれる背後地の家は、川辺にある造船所の地盤よりも一段高い場所に建っている。家の建っている所の地盤高は、普段の水面から2mほど高い場所である。写真を拡大してつぶさにみると、川と堤内地の境界部に「特殊堤」と呼ばれる高さ2m前後のコンクリート製の壁のような堤防が築かれているように見受けられる。堤内地から造船所に出入りする場所の堤防は開口部となっているが、同じ高さの鉄製の扉(陸閘)が設けられている。(一番上の写真の赤色↓の箇所)

この写真を撮影した1961(昭和36)年は、9月16日に第2室戸台風が来襲している。大阪湾岸の各地に大きな被害を出した台風であり、此花区では大半の地区が浸水被害にあっている。
観測記録によると、台風通過時の大阪の気圧は937.0 hPaまで下がり、高潮はOP(大阪湾工事基準面)よりも4.12mも高い潮位に達した。
堤内地の地盤高が普段の水面から2m高く、さらに高さ2mのコンクリート製の堤防があっても、高潮の潮位のほうが高かったわけである。川にそばにある造船所は、もちろん建屋の屋根近くまで水に浸かったはずだ。

造船所のあった場所の現在

撮影場所も特定できたので現状と見比べてみようと思い、昔の写真を携えて現地を訪ねたのは、いまから10年前の2007年のことである。
当時、このあたりでは、阪神高速道路淀川左岸線を通すために川を埋立てる工事が進んでいて、正蓮寺川が姿を消す寸前であった。

造船所のあった川辺【2007年 撮影】

木造船の造船所と作業風景【1961年 撮影】

上の写真がほぼ同じ場所から同じ画角で撮った画像である。ゆたか温泉は、2007年当時、たしかすでに廃業していたと思う。2017年現在、銭湯の跡地には同じ名前のマンションが建っている。高層の建物が増えていて河畔からのマンションへの見通しはきかないが、温泉の跡地が特定できたので撮影地点や撮影方向を決めるうえで役立った。もし、フィルムをスキャンして煙突に描かれていた銭湯の名前が確認できなかったならば、造船所の場所の割り出しはきわめて難しかったであろう。

このあたりを含めた伝法地区は、江戸時代のはじめには漁師のすむ半農半漁のムラであった。江戸中期から明治に入り工業や舟運が発達するにつれて、船乗りや船大工などの舟運を支える職業の人々が住むようになり、回漕店や造船場が立地した。それらに従事した人々は命運を舟運の盛衰とともにし、舟運が廃れたのちは地域の人々の暮らしも川辺の景色も変化してきた。

埋立てられた正蓮寺川の跡地

埋立てられて公園が整備された正蓮寺川の跡地【2018年 撮影】
千鳥橋架橋地点からみた上流方向

現在では高速道路の建設工事も完了し、正蓮寺川は埋立てられて姿を消している。両岸にあったコンクリートの堤防は残っているが、造船所があったころの面影はほとんどない。
川の跡地は、東側から順に公園として整備されつつある。公園内のところどころには地下を通る高速道路の非常口が設けられていて、出口の扉のところには階段が設けられている。出口が地面よりも数メートル高くなっているのは、ちょっと不思議な光景である。その理由は、大雨が降ったときにこの公園内に雨水を貯留して、古いコンクリートの堤防で挟まれた一帯が水没してしまうからである。
ある日、大雨が降って高速道路の地下トンネルを走行中に冠水して動けなくなった。車を捨てて非常口から地上に脱出してきたドライバーたちが、出口の扉を開けて目にしたのは、一面泥色の水でみたされた湖だった。逃げ場がなくなって途方に暮れていると、地元で生まれた爺さんが櫓こぎの小舟で救助にやってきた。阪神高速株式会社は、非常時にも笑いの心を忘れない浪速の企業である。

正蓮寺川の埋め立てを契機として、この地区の風景は変わってしまった。これからもさらに変わっていくだろう。そんななかで、室戸台風のときに高潮が乗り越えた防潮堤や防潮水門だけは健在で、昔日の面影をとどめている。

冒頭の写真と同じ場所から2007年に撮った写真にも、防潮水門の鉄の扉が左隅に写っている。画像が小さくてわかりにくいかもしれないが、川に直交して建つ5階建ての中層住宅のところにある。
近くに行ってみようと思い、恩貴島橋を渡り右岸に行って堤内地側から写したのが下の画像である。

防潮堤のコンクリート壁と陸閘の鉄扉【2007年 撮影】
造船所の背後にあった防潮堤と陸閘は現在も残っている
造船所跡は地盤がかさ上げされ、駐車場として使われている

むかし造船所のあった場所は、地盤が堤防沿いを走る道路と同じ高さにかさ上げされて駐車場になっていた。住宅が建っている堤内地の地盤高は、川沿いの道路よりも1mぐらい低くなっている。もし、高潮に襲われて、防潮水門の扉の隙間から水が漏れると床上浸水になってしまう高さである。
正蓮寺川は埋立てられて姿を消してしまったが、旧河道の跡は高潮や津波が来襲したときには、水の通り道であることには変わりない。この土地に住む以上、忘れてはいけないことだ。

大阪市の無形民俗文化財に指定されている正蓮寺の川施餓鬼は、江戸時代の中頃からはじまったもので、もともとは正蓮寺川で行なわれていた水難者の霊を弔う行事であった。のちに先祖供養の盆行事と結びついた精霊送りの法要に転じた。地盤沈下による橋梁の桁下高の不足や水質汚濁のため、1967(昭和42)年以降は開催場所を淀川に移して行なわれるようになった。

正蓮寺川や伝法川が流れていた酉島地区や恩貴島地区から伝法地区にかけての一帯で、漁業や舟運に係わるかつての生業や文化が残っているのは、流末部が漁港として利用されている旧伝法川の伝法水門付近だけになりつつある。


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