淀川改修と河川交通路
淀川改修の記念碑的施設
毛馬閘門の通船
記念碑的施設のその後
河川に設けられた諸施設を管理している国土交通省では「毛馬閘門」という名称が使われている。ここでは、文献などを引用する箇所では「の」の付かない正式名称を使い、その他の場合は『赤川の鉄橋』に倣い、小さいときから慣れ親しんできた地名と施設名の間に「の」を挟んだ呼び方である『毛馬の閘門』を用いている。このため、以下の文中では両方の表記が混在しているが、あえて表記を統一することはしないでおく。
淀川改修と河川交通路
新淀川の開削と通船路の整備

左側から毛馬第二閘門跡(茶色の建物の手前)、毛馬排水機場(白い建物)、
毛馬水門(3門の青色ゲート)、毛馬閘門(煉瓦色のゲート)
毛馬第二閘門はほぼ往時の姿でもとの場所に残されている
1885(明治18)年6月、低気圧にともなう連日の降雨により淀川は増水し、枚方で左岸の堤防が切れて、大阪市内にかけての淀川左岸が水浸しになった大洪水が発生した。この大洪水が契機となって、1896(明治29)年に河川法が制定され、翌1897(明治30)年から淀川改良工事がはじまった。
この改良工事によって、上流では瀬田川に南鄕洗堰が新設され、中流の巨椋池付近では宇治川が付け替えられた。そして下流部では、決壊した枚方付近の河道が拡幅され、洪水時の流れを速やかに大阪湾に流すことができるよう、毛馬から西に新しい放水路として新淀川が開削された。
新淀川の河道計画と旧淀川(大川)
資料:建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』の附図を彩色
中津川は新淀川に吸収合併されたが、毛馬から下流の旧淀川(大川)はそのまま残されたので、新旧の淀川が分岐する毛馬は、洪水から大阪市内を防御する上での要となった。分派地点である大川の流頭部に洗堰を設置し、水門の操作によって大川への流入量を調節した。大川には普段必要な水量だけを流し、洪水時は洗堰を閉めて流れを新淀川に流すことで大阪市内の治水機能の強化が図られた。
いっぽう、当時は川を利用した舟運が盛んだったので、新淀川の開削とあわせて交通路となる河川網の整備もあわせて行う必要があった。
できたばかりの新淀川を航路として使うのが最善の方策ではあるが、それは難しかった。河道を維持したり大川への流量を確保するために、段差のある工作物を新淀川の河床に設置する必要があり、新淀川を使った航路確保と治水機能との両立はできなかった。

E:長柄床固沈床(のちに長柄可動堰)、F:長柄橋、G:毛馬橋
(陸測1万分の1地形図「大阪北部」【1921(大正10)年測図】に彩色・記入)
通船を妨げた原因は、大川との分派点から少し下った長柄橋付近に河道を横断する工作物が設けられたからである。川の水が流れるとき、下方への浸食作用で川底が掘られてしまう。そうした浸食による川底の深掘れを防ぐとともに、毛馬洗堰から大川への流量を安定的に確保するために、1910(明治43)年、3箇所の沈床と床固からなる長柄床固沈床という工作物が設けられた。
沈床とは、木枠や竹を編んだ籠の中に石を詰めて、川底に敷設される工作物である。木枠だと「木工沈床」と呼ばれ、籠の場合は形や大きさによって「布団籠」や「蛇籠」、「達磨籠」などいくつかの種類がある。水流の強さや設置目的に応じて何層かを積み重ねて設置されることも多い。
通常は護岸の根固めとして河岸に沿って川底に敷設されるケースが多いが、ここでは床固として長柄橋の下流に川を横断する形で設置された。沈床は天地方向に3層からなっており、強い水流を受ける両端の河岸付近には、一番上の沈床の上に重しとなる大きな石を敷き並べた強固な構造が採用された。
最下層の沈床は河床に埋め込む形で設置されたので、床固付近の川底の状態は最初はフラットであるが、やがて流れの作用によって小さな段差ができていく。沈床は浸食されにくい石でできているのに対して、上流や下流側の河床は土砂のため流れの浸食作用によって少しずつ削られてしまうからである。長柄床固沈床では、最下層の沈床の上に2層の沈床を重ねて置いているので段数分の段差が生じた。
また、沈床の底にある土砂が流されてしまうと、最初はフラットに置かれていた沈床自体が波打つようにうねることもある。このため、水位が下がったときの流れには、床固付近で小さな落差が生じることもあったはずである。
翌年の1911(明治44)年になると、長柄床固沈床の設置地点には、丸太と堰板で組んだ仮堰が設けられた。水位が低下したときにも一定の分水流量を確保するためには、淀川の流れを堰き止める必要があったからである。但し、木製の仮堰は増水すると流されてしまうため、出水期がくる前に撤去しなければならない不便があった。そこで仮堰をより強固にし、さらに調整機能を高めた永久施設に改築することになり、1914(大正3)年、83枚の木製ゲートを備えた長柄起伏堰が完成した。
このような床固や堰といった川を横断する工作物があるため、新淀川は航路としては利用できず、通船のための航路として毛馬から新淀川の左岸に沿って下流に伸びる長柄運河が開削された。長柄運河は阪神淀川駅の西方で中津川の旧河道につなげられ、さらに六軒屋川から安治川、正蓮寺川から伝法川へと接続させた。
新旧の淀川には地盤高や干満の影響で水位差が生じたので、各河川を通る船の航行がスムーズにできるよう毛馬、六軒屋川(鼠島)、伝法川の3箇所に閘門が設置された。
淀川改良工事に続いて、明治から大正にかけて淀川下流改修工事が進められ、 安治川から楠葉に至る低水工事、毛馬第二閘門の設置などが行なわれた。
このように明治から大正にかけての一連の河川工事によって、治水や利水機能が高められ、淀川の中流域と大阪市内や大阪港方面とを結ぶ舟運の主要航路が形成された。
淀川改修の記念碑的施設
毛馬洗堰
毛馬の洗堰と閘門は、明治時代に行なわれた淀川改修のうち、新淀川の開削を象徴する施設のひとつである。両者は毛馬地点で分派した大川の流頭部に設けられている。毛馬付近の淀川はゆるやかに右にカーブしており、左岸側は出水時に水衝部となるので、洗堰と閘門も強い水流にさらされて流れによる高い圧力を受ける。したがって、施設の基礎を相当しっかりと作らねばならなかった。
しかし建設の際、水流のなかで工事をするのは困難だった。だからといって、市内中心部へと流れる旧淀川の流れを止めて工事するわけにもいかなかった。そこで、旧淀川と中津川に挟まれた剣先の陸域に洗堰と閘門を建設し、施設の完成後に上流と下流に流路をつなぐ方式がとられた。
毛馬でゆるやかな右カーブを描く新淀川の河道に対して、大川の流頭部である洗堰が少し逆戻りするような不自然な鋭角で分派しているのはそのためである。また、分派にこのような角度をもたせることによって、水衝部の左岸に位置する洗堰や閘門に、速い流れが直接ぶつからないように工夫したとされている。

上流と下流の流路を接続する方式が採用された
(資料:建設省近畿地方建設局『淀川百年史』掲載の図をもとに作成)
なお、明治につくられた初代の洗堰は、現在稼働している2代目(毛馬水門)とは異なり、閘門よりも上流側に位置していた。両者の位置が現在と異なるのは、淀川から毛馬の閘門を経由して長柄運河との間を航行する船の航路を確保するためである。
洗堰には、幅約3.6mの水通しが10門設けられていて、両側の堰柱とあわせた全体の幅は約53mになる。
9本ある堰柱は、幅約1.8m、奥行7.6~4.8m、高さ約7mで、側面に刻まれた縦方向の溝に角材を落とし込んで水を堰き止める高さを決め、流水量を調整する「角落し」と呼ばれる仕組みである。
操作に時間を要する点が短所であるが、シンプルで信頼性は高い。角落しの上下には当初、手動式のウインチが使用された。全電源がアウトになった時でも全閉操作を確実に行なうことのできる、よく考えられた水位調節方式である。
洗堰の上部には、写真に写っているように、両岸と各堰柱をつないだ鉄筋コンクリートの橋が設けられている。この橋は、水位調整に使用する角落し材料の搬路として使用された。

毛馬洗堰の堰柱と水通し【1961年 撮影】
洗堰の建設は1904(明治37)年12月に着工したが、堰柱などの基礎を深くとらねばならなかった関係で湧水が多く、かなりの難工事となった。完成したのは着工から5年あまりが経過した1910(明治43)年1月である。
この洗堰では、普段は毎秒80トンから110トンの水を大川に流入させ、洪水時には角落しで堰を全閉にする操作が行なわれてきた。
築造後、大正や昭和になってから魚道の設置や堰柱の継ぎ足し補修が加えられた。1949(昭和24)年のヘスター台風が来襲した時に水位の急上昇があり、角落しの操作に手間取ってゲート閉鎖に遅れが生じたことから、1961(昭和36)年に電動式のゲートに改造された。さらに1964年には電子計算機を組み込んだ自動制御ができるシステムが導入され、要求放水量に応じて毎秒40トン~160トンの範囲で自動制御・自動操作できるように改良された。
毛馬洗堰は築造後65年間にわたって稼働し続けたが、淀川大堰の建設にともなって撤去し、場所を変えて全面的に改築されることになった。淀川大堰の水位変化に対応するとともに、淀川と大川の河床の低下を見通した構造・寸法とする必要があったからである。
現在は「毛馬水門」に名前を改めて上流100mに移動し、排水機場と閘門に挟まれた場所で2代目が稼働している。3門からなる新しい毛馬水門には、水位調節用のローラーゲートに加え、淀川の洪水時に使用される遮水用のローラーゲートも設置されている。
毛馬の閘門
●毛馬第一閘門
毛馬には、現在も初代から数えて3基目の毛馬の閘門が設置され、毎日稼働している。毛馬橋や淀川堤防から毛馬の河川管理施設群を見たときに、淀川の一番上流側にあるのが毛馬の閘門である。遮水ゲートが煉瓦色に塗られているので、他の水門と見分けやすい。淀川側から眺めたときは、遮水ゲートに大きな字で「毛馬こうもん」と名前が書かれているので、閘門がどこにあるのかは小学生でもすぐにわかる。
毛馬橋からみた現在の毛馬閘門【2006年 撮影】
閘門の上流と下流には門型のゲートが建つ
上流側には煉瓦色に塗られた遮水ゲートがあるので識別しやすい
明治時代の淀川改良工事でつくられた最初の閘門は、少し下流にあった毛馬洗堰の西南側に設けられていた。
工事に着手されたのは1902(明治35)年12月のことで、隣接する洗堰より2年早くから建設がはじめられた。工事途中の1904(明治37)年には日露戦争がはじまった。国は多額の戦費を必要としため改良工事の多くは一時中止となったが、閘門は重要な施設であったので戦時下も工事が継続された。
閘門が完成したのは1907(明治40)年8月で、4年半の歳月と総額で約25万8千円の工事費を要した。
なお、のちの1916(大正5)年には下流側に第二閘門が概成し、第二閘門が運用を開始してからは「毛馬第一閘門」と呼ばれるようになった。
下流側の扉室付近からみた毛馬第一閘門【2003年 撮影】
『淀川百年史』によると、閘門の概要や扉の操作方法について次のように記されている。
- 第一閘門の有効長は約82m、幅約11mで、前後の両扉室にはそれぞれ一対の鉄製扉が取り付けられている。
- 扉の開閉操作は、扉につけられた歯棒を側壁上に設けた歯車にかみ合わせ、歯車の軸につらなるレバーを動かして行なう仕組みである。
- 閘室内の水の注入と排出は、側壁に設けられた溝孔を通じて行なう仕組みで、らせん棒の動きに応じて上下するようになっている鉄製円筒栓の開閉で調節するように設計された。
- 本体に使用した煉瓦は、試験施工を行なった結果、手工品よりも品質、耐圧力に優れた機械製の製品が採用された。煉瓦メーカへの発注数量は、隣接する毛馬洗堰用とあわせると1,020万個にも達し、3ケ年間をかけて製造された。
- 完成後の主な改造として、1929(昭和4)年に制水扉の取付け、1964(昭和39)年に制水扉の電動装置・遠隔操作装置の取付が行なわれている。
上流側の扉室に設置された観音開きの鋼製扉【2003年 撮影】
一番上の水色のペンキで塗られたゲートは1964年に追加された制水扉
扉の開閉や閘室の給排水を操作するハンドル【2003年 撮影】
1964年に電動装置がつけられるまではこのハンドルを回して操作した
●毛馬第二閘門
淀川下流の改修工事が進み、旧淀川筋の毛馬洗堰から下流の区間も関連工事として浚渫が実施された。この浚渫によって河床が下がり、閘門付近でも干満差の影響を大きく受けるようになった。浚渫後の水位は、毛馬第一閘門が設計されたときの計画値よりも1.5mも低下しており、閘室床に船底が接触して舟運に支障を来すようになった。とくに干潮時には7時間も通船がストップするなどして、甚だ不便を強いられる事態が生じていた。
この水位低下は長柄運河にも大きな影響を与えた。下流にある伝法川や正蓮寺川に予定の流量を流すことができないばかりか、満潮時には潮水が逆流して伝法川や六軒屋川に設置されている閘門が機能しなくなってしまった。
こうした旧淀川の水位低下に起因する舟運の不通を改善するとともに、長柄運河を経てつながっている伝法川下流部の水不足を解消するために、第一閘門の下流側に毛馬第二閘門が設けられることとなった。位置的には、先の1921年の地形図に示したとおり淀川>>第一閘門>>長柄運河分派点の船溜まり>>第二閘門>>大川という直列の配置になる。
第二閘門は設計段階から将来の水位低下を予測して、閘室床の地盤高をO.P.-1.44mとして建設された。その結果、干潮時の最低水位のときでも約1.4mの水深が確保された。
また、O.P.+3.03mまでの水位に対しては、第一閘門の扉を開放したまま、第二閘門の扉操作だけで通船ができるよう、水位変動に対する対応幅に余裕を待たせた。

第二閘門は淀川大堰や毛馬排水機場などの建設にともない廃止された
現在はほぼ原形のまま保存され、河川管理用船舶の係留場所として使われている
第二閘門の構造は、先に完成している第一閘門とほぼ同じである。全長は約122m、閘室長約106m、幅約11mで、前後に2対の合掌扉が設けられた。
閘門の本体は、切石と約8万個の煉瓦によって構築され、閘室の底にはコンクリートブロックが張られている。
扉は鋼製の合掌扉で、高さは約5m、幅は6.2mで、厚さは0.5mもあった。
閘室の給排水には前後の両側に1箇所ずつ給・排水樋を設けて、扉の開閉操作とともに手巻きの開閉機によって操作する構造になっていた。
この扉は完成後に数次に渡って改造が施されている。主なものとして、1961(昭和36)年に扉電動装置の設置、1964(昭和39)年に後頭部扉の継足、電動および遠隔操作設備の取り付けなどが実施されている。
淀川大堰や毛馬排水機場などの建設にともない、毛馬の閘門も場所を移動して新築されることになった。
1974(昭和49)年に現在使われている毛馬閘門が東側に完成し、第二閘門は1976(昭和51)年に廃止された。毛馬排水機場などの建設の際、大川の法線も変更されたため、当初、第二閘門は取り壊す予定であったが、関係者の尽力によって現地で保存されることとなった。法線に抵触した下流側の扉室を少し上流に移設することで、閘門としての現役当時の佇まいを保った状態のままで、現地にほぼそのままの形で保存されている。
現在は、国土交通省や大阪府の河川管理用船舶の係留場所として使われている。理想的な土木遺産の保存方法と活用例である。
毛馬閘門の通船
毛馬閘門の通船数
1974(昭和49)年に発行された『淀川百年史』には、毛馬閘門を通過した船舶について、船種別の通船数を集計した総括表が掲載されている。次に掲げた図はその総括表の数値に基づいて、1912(大正元)年から1973(昭和48)年までの約60年間を対象に、おおむね5年ごとの第一閘門と第二閘門の通船数を抜き出し、それぞれの推移をグラフに示したものである。
なお、第二閘門は先にも述べたように、護岸などの付帯施設を含めた正式な完成は1918(大正7)年7月であるが、実際には本体が概成した1916(大正5)年の9月から通船を受け入れている。
1912年の第一閘門は4月以降の通船数を示す
1940年の第一閘門は4月以降の通船数を示す
1965年は統計データの記載がないため1966年の統計値を代用した
通船数の概況は、戦時中の低迷期を境にして、戦前と戦後で大きく変化している。
通船数が記録されている1912(大正元)年以降では、昭和の戦前期にかけての期間では舟運が活況を呈している。1930年の約11万隻をピークとして、1920年から1935年にかけては1年間に8万~9万隻前後の通船があったことが記録されている。年間9万隻を単純に365日で除すると1日当たり250隻前後となり、さらに12時間で割ると1時間に約21隻という数値になる。これらはあくまでも計算上の平均値であるが、毛馬の閘門がいかによく利用されていたかがよく分かる。
1930年をピークとした第二閘門の通船数は、1940年には半分以下の約4万6千隻に減少しており、さらに戦争末期の1945年には5千隻を大きく割っている。舟運の衰退だけでなく、戦争の影響が通船数にも如実に反映されている。
戦争が終って通船数も増加したものの、1年間で4万隻を越えることはなく、1950年から1960年代後半にかけては2万隻台を推移している。舟運の衰退とともに毛馬閘門を通過した船舶は戦前の全盛期の約4分の1から3分の1程度に減少している。
第一と第二の二つの閘門は直列に配置され、中間で長柄運河が分岐している。第一閘門と第二閘門の通船数の差分を求めると、1950年が459隻、1955年が7393隻、1960年が5175隻、1966年が420隻となる。これら差分で求められた船数は、淀川から毛馬に入り第一閘門は通過したが第二閘門は通過しなかった船、あるいはその逆の航路をとった船と捉えられる。これらは淀川本川から毛馬第一閘門・長柄運河・六軒屋閘門を経由して六軒屋川や安治川方面へと航行していた船舶、または正蓮寺川から大阪港方面に航行していた船舶、あるいはそれらの逆ルート航行していた船舶だと推定される。
これに該当する具体的な船として思いつくのは、淀川中流域で川砂を採取して、大阪湾沿岸方面に運んでいた砂船やその戻り船などである。
1961年(昭和36)年に六軒屋閘門が廃止され、1973(昭和48)年には長柄運河が埋立てられたので、毛馬の閘門から長柄運河に向かう船やその逆コースをたどる船は、1960年代の終りごろには統計上も見受けられなくなった。
また、1970年代になると、航路は淀川と大川間に限られ、年間で1万2千~1万4千隻前後を推移している。淀川筋を航行する船舶は、昭和初期の最盛期の1~2割程度に激減してしまったことがわかる。
毛馬の閘門を航行する砂船 1961年の様子
毛馬第一および第二閘門の通船数が年間2万数千隻に減少し、淀川舟運の晩期にあたる1961(昭和36)年のある日、淀川から毛馬閘門を通過する砂船の様子を記録した写真が手元に残っている。これらは父が撮影したもので、撮影日は不詳である。写っている人の服装などから判断して、初夏の5月頃か、あるいは秋の10月ごろではないかと思われる。
淀川本川から毛馬閘門に入り、大川あるいは長柄運河に至る砂船の航路を辿りながら、主な地点における利用状況を以下で紹介する。
ちなみに写真を撮った1961年における通船数は、第一閘門が28,561隻、第2閘門が24,374隻で、両者の差分は4,189隻である。単純に365で日割りした数値は、第一閘門が約78隻、第二閘門が約67隻で、差分は11隻となる。多少の誤差が含まれるかもしれないが、毛馬閘門を通過した船の約8割は淀川と大川筋とを行き来しており、淀川と長柄運河方面を行き来する船は全体の2割弱程度であったものと思われる。
なお、以下に掲げた写真の大半は当時購入したばかりの望遠レンズで撮影されており、遠近感が実際よりもかなり圧縮されている。したがって、川幅や閘門の長さは実際よりかなり短く写っている。
取り舵をとって淀川から毛馬閘門に向かう砂船
採取した川砂を満載して淀川を下ってきた砂船が、取り舵をいっぱいとって毛馬閘門のある大川にむけて針路を変えている。旋回時には流れが船腹にあたるので、淀川の流れが強いときは下流に押し流されやすく、高度な操船が要求されたのかもしれない。
砂船には、船長のほかに1~2名の船員が乗っており、川砂を採取する機材類が積まれている。
背後の三連トラスの鉄橋は水道局の水管橋で、右端にわずかに写っているのが赤川の鉄橋である。

淀川から大川に入った砂船が毛馬第一閘門の上流側の扉室付近を通過していく。閘門の側壁はほとんど露出しており、この日の淀川の水位はかなり低くなっているようである。
この当時、第一閘門の扉は通常開放状態で、大川との水位調整は第二閘門で行なっていた。

第一閘門を通り抜けた砂船は第二閘門西側の船だまりへと入っていく。
閘門横にある淀川改修紀功碑のまわりでは、校外授業で訪れたと思われる中学生たちが写生をしている。

第一閘門と第二閘門の間には分岐する長柄運河への転回場を兼ねる船だまりがある。船だまりに先に到着した船から順に第二閘門へ入っていくはずだが、船体を真横に向けて他船の進入を阻止しているような船もみられる。
閘門に入る順番をめぐって何か揉め事が起きているのだろうか? ここで暴力沙汰を起すと正面の川向こうにみえる鉄筋の建物に直行である。

長さ約100m、幅約11mの閘室はたくさんの砂船で満杯状態になっている。
砂船にはサンドポンプなど川底から砂を採取する機材が積まれている。
上流側の扉が閉じられて水位の調節が終るまでに30分ほどかかる。その間、船乗りたちは思い思いの時間をすごす。

水位調節が終ると下流側の扉が開き、船は順番に大川に向かって閘門をあとにする。
船尾の向こう側にみえる閘室の側壁には、水面から高さ約1mほど煉瓦が濡れて黒っぽく写った水位調節の跡(赤色↓)が残っている。

この砂船は大川には向かわず、第二閘門の手前で右に転回して長柄運河に入り、六軒屋川か正蓮寺川方面に向けて下っている。
船の右側にみえる石造りの施設は、長柄運河の水位調整に使われる長柄運河給水樋門である。ただし、この当時はもう使用されていなかったようだ
記念碑的施設のその後
毛馬洗堰と毛馬第一閘門の文化財指定
国の重文指定を受ける以前の第一閘門の扉の状況【2003年 撮影】
予算がないのかして鉄扉も塗装が剥げて錆がすすみご覧のよう有様で
保存されているというより放置されているといったほうが適切だった
1984(昭和59)年に竣工した淀川大堰の建設にともない、新しい毛馬水門と毛馬閘門がつくられ、古い毛馬洗堰と第一・第二の閘門は役割を終えた。洗堰は敷地内に新しい排水機場を建てるため3門を残して解体され撤去された。
解体を免れた閘門は現地に保存されることになったが、適切に管理していくための予算と人手がないのかして、しばらくのあいだは放置されたも同然であった。2006(平成18)年度に大阪市が第一閘門と洗堰1構、淀川改修紀功碑を重要文化財に指定していた。しかし、大阪市の所有物ではないので修復費用や保全していく費用まではおそらく担保できなかったのであろう。
2008(平成20)年6月、毛馬洗堰と毛馬第一閘門(鉄製門扉、扉開閉装置、アーチ橋を含む)は、『淀川旧分流施設』として国の重要文化財に指定された。
文化遺産を紹介した文化庁のサイトによれば、「淀川旧分流施設は、わが国最初期の高水工事であるとともに、初めて大型建設機械を導入して実施された淀川改良工事の代表的遺構として、近代河川史上、高い価値がある。」と記されている。
国の重要文化財指定に際して、きちんと管理できているかどうかを確かめる事前の審査があったのであろうか、前年の2007年ごろから痛んだ鉄扉が塗装され、見学者のための通路や手すりのついた階段なども整備された。
また、毛馬第二閘門と淀川改修紀功碑は、重要文化財の「附(つけたり)」に指定された。
この「附」とは文科省の官僚が考案した専門用語らしく、やや難解であり、曖昧でもある。見方によっては「附録=おまけ」あるいは「ひとつ格下」のようにも受取れるのであるが、決してそうではないらしい。
もしかしたら、重文の申請時に担当者が毛馬第二閘門と淀川改修紀功碑を見落としていたことに後から気づいたのかもしれない。
新たに重要文化財の指定をするのは、作成すべき書類も多いし、手続き的にも面倒である。迅速に追加指定ができるよう、「もともとの重要文化財の指定番号をうまく利用し、手続き上、附録として取扱いました」ということらしい。重要文化財を扱う役人らしいたいへん柔軟な発想である。もし、最初の登録段階で「附」の2件を見落としていたならば、そのずさんな職務態度は重要文化罪で罰金ものである。
ともあれ、これらの記念碑的施設が使われていた状態で、使われていた現地に残せたことはなによりである。来訪者への安全対策上、転落防止柵などの設置はやむを得ないとして、手を入れすぎて過剰にきれいにしたり、へんてこりんなモノを近くに設置したりせずに、現役当時の雰囲気を維持しながら保存・継承していくことを望んでやまない。
淀川改修の記念碑と第一閘門の鉄製門扉(閘頭部)【2007年 撮影】
重要文化財に指定されたのはこの記念碑ではなく、
近くにそびえ立つ淀川改修紀功碑(高い石塔)である。
・建設省近畿地方整備局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
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