車に囲まれ綻んでいった市電の路線網
梅田新道から三宝車庫まで
三宝車庫にて
車に囲まれ綻んでいった市電の路線網
全廃に至るまでの負のスパイラル
1903(明治36)年9月に花園橋と築港桟橋間で営業を始めた大阪市電は、66年後の1969(昭和43)年3月31日の運転をもって全廃された。最後まで残っていたのは、阪急東口~守口間と玉船橋~今里車庫間の2路線だった。
最終運行日に守口線に乗りに行ったので、大勢の人に見送られて阪急東口から走り去っていく市電の後ろ姿はよく憶えている。
クルマに囲まれながら走る晩年の市電【1968年 撮影】
かつては聖域だった軌道敷にクルマが進出しだすと
市電は邪魔もの扱いされた、福島西通交差点にて
大阪市電の最盛期は昭和30年代の前半で、一日に97万人が利用したことが記録されている。和製PCカーと呼ばれた高性能車の3001型が一挙に50両も投入され大活躍した。速くて安くて、接続する路線への乗り継ぎができたので、どこに行くにも便利な市電は市民の足として愛された。
そんな市電の春も長くは続かなかった。自動車が急速に普及し、1960(昭和35)年ごろから市内の主要道路では頻繁に交通マヒが発生した。自動車に比べて図体が大きく、軌道の上しか走れない市電は不利だった。軌道敷へのクルマの通行制限が解除されると、前も後ろもクルマに挟まれて身動きがとれなくなり邪魔もの扱いされた。とくに交差点で右折しようとするクルマにとって、市電は目の上のタンコブで邪魔もの以外の何物でもなかった。
大阪人の多くはイラチなので、遅くて待たされるものは次第に利用しなくなる。多少遅くても料金が安い間はまだ我慢できたが、1962年に料金が値上げされると客は加速度的に離れていった。利用者数が減ると収入面でも赤字に転落し、’66年にまた値上げして客はさらに減った。値上げと客離れ、営業路線の縮小、そうした負のスパイラルが’67年にも繰り返された。
結局、市内の基幹公共交通は、市電から渋滞の影響を受けない地下鉄へと転換が図られることになった。
最初の選手交代は1960年で、地下鉄4号線の弁天町~大阪港間の完成によって、並走する市電の大阪港~港車庫間が廃止された。まだ全盛期だったが路線の一番端で目立たなかったのと、東西方向を結ぶ初の地下鉄の開通が話題になっただけで済んだ。
1963年には、四つ橋筋を走っていた路線が地下鉄工事のために廃止された。1965年になると、渋滞の激しかった本町通りを走る川口と馬場町を結ぶ路線が廃止された。そのあとも堺筋や土佐堀通などの路線がなくなり、かつて市内各地に張り巡らされていた路線網が次から次へと削られていくことになった。
1966(昭和41)年3月に策定された大阪市の『新交通事業基本計画』で、市電の全面廃止が決定された。いわば市電への死刑宣告だった。
梅田新道から三宝車庫まで
16系統 島屋橋行き2608号
市電全廃を翌年春に控えた1968(昭和43)年の初夏、ハーフサイズのカメラを持って市電に乗ってきた。その年の3月末までは、毎週、福知山線の蒸気機関車を撮りに行っていたが、ディーゼル機関車に置換えられたので撮るものがなくなった。代わりにちょっと市電でも写してみようと思ったのだろう。
今は「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかいった鉄道ファンが大勢いるようだが、当時は趣味で鉄道に乗ったり、写真を撮ったりする人は少なく、現在のように社会的にも認知されてなかった。市電廃止までまだ半年以上もあったので、わざわざカメラを持って市電に乗る人はあまりいなかった。
乗った区間は、梅田新道から福島西通を経由して堺の三宝車庫までである。距離にすれば15㎞前後であろうか。途中で何回か下車したり、停留所間を歩いたり、車庫内を見学したりして半日楽しめた。旅行費用は乗車1回につき25円だったので、あわせて100円ほどですんだ。
全廃前年の大阪市電の路線図【1968年 7月時点】
市電16系統は、城東区の今福と桜島の島屋橋を結んでいた東西方向の路線である。当時、4本残っていた東西方向の路線のうちの1本である。今福をでた市電は、蒲生町四丁目から天下の国道1号と国道2号をまたいで走り、福島西通の少し西で国道2号を離れて環状線と並走し、西九条から四貫島大通(現在の北港通)を一路西に向かっていた。車輌と乗務員は、此花区にあった春日出車庫が担当していた。
梅田新道の交差点にあった停留所で待っていると、島屋橋行きの電車がやってきた。車輌は最新鋭の3001型によく似た2601型である。この型は3001型のような新造車ではなく、戦前から走っていた古い木造車輌のボディを3001型によく似た鋼鉄製ボディに載せ替えた「なんちゃって新型車」である。
梅新停留所にやってきた島屋橋行きの市電
梅新の電停は現在の梅新東の交差点の西端付近に設けられていた
背後の国道北側にマルビルと新宇治電ビルがみえる
市電は信号と交差点の多い国道を少し走っては停まり、また少し走ってのろのろと西へ進む。
桜橋や出入橋を過ぎて福島西通の電停近づいてきたが、電停がすぐ近くにあっても、信号待ちのクルマが進路を塞いでいると前進も乗降客の扱いもできない。前進・後退の切り替え機器に左手を置いたままの前を見つめる運転士さんもいささか疲れ気味の表情にみえる。
福島西通の電停を前に渋滞で停車中
出入橋から福島西通りにかけての一帯はクルマの販売店や自動車部品の会社が集まったいわば敵の牙城である。
渋滞でストップした市電の窓越しに自動車部品の卸問屋の「自動車外装部品は信和へ」の看板がみえる。他の同業他社とともに自動車の時代を築き、半世紀近く経過した現在も同社は同じ場所で盛業中である。
福島西通交差点
三宝車庫へは福島西通の電停で降りて、あみだ池筋を南に向かって走るくだら行きに乗り換える必要があった。降りたついでに福島西通の交差点を行き来する市電を何枚か撮っている。
福島西通の電停で停車中の島屋橋行き
乗ってきた市電から降りて最初にとったのがこのカットである。
市電の扉はまだ前も中央部も開いており、この交差点は長い信号待ちだったのかもしれない。
大きな封筒を左手にもって横断歩道を渡る若い女性は、夏用の事務服を着ていていかにも昭和のBGである。手前の運搬用自転車に乗ったおっちゃんも誠実な昭和の商売人の顔をしたおっちゃんである。我ながらいいタイミングを収めた写真だと思う。
背後にみえるのは市電の商売敵の本丸、大阪トヨペットの本社の社屋である。屋上の看板には『キャッスル』(注:純正オイルの銘柄)と書かれているので、トヨタの大阪城のような役割を果たした建物である。
トヨタの販売店は、大阪ではメーカーであるトヨタが100%出資した大阪トヨペットと、販売会社の大阪トヨタに分かれていた。この場所には現在も大阪トヨタの立派な本社ビルが建っている。
ちょっとややこしい話だが、2006年に2つの販社の社名が入れ替わったため、現在の大阪トヨタは以前の大阪トヨペットであり、現在の大阪トヨペットは以前の大阪トヨタである。詳しいことは知らないが、どちらがどうかといえば、もちろんクラウンやセンチュリーを扱うこのビルの販売系列のほうが歴史も古く格上なのであろう。
トヨペットの社屋の手前に上部が少しだけ見える古式ゆかしいビルは協和銀行の福島支店である。このビルは、1934(昭和9)年に旧川崎貯蓄銀行福島出張所として建てられたもので、不動貯金銀行、日本貯蓄銀行を経て協和銀行の福島支店となった。当時、同行は福島西通交差点の西北角に新しいビルを建設中だった。
この古いほうのビルは、1999年に国登録有形文化財に指定され、今でも現存している。
福島西通の電停で客扱い中の市電と交通整理の警察管
交差点の東南角に陣どって待ち受けていると、国道2号を行き来する市電が次々にやって来た。
東行きの市電が福島西通の交差点手前にある電停に停まって客扱いをしている。行く先はわからないが、車番は2027号で、戦後に製造された2001型である。
市電の後ろ側の軌道上には自動車が列をなして並んでいる。たぶん交差点を右折してあみだ池筋に入るクルマであろう。交差点の中央では警察管が手を掲げて交通整理をしている。
福島西通の交差点をいく市電2501型と信号所
軽トラと小型トラックをお供に西に向かうこの市電は、2501型の初号機2501号である。
2501型は戦前の古い車輌を試作的に改造したもので、評判が芳しくなく僅か4両で改造は中断されてしまった。これはそのうちの1両で見かけは古めかしいが、性能面では梅新から乗ってきた2601型と同じであった。
右端に半分だけ写っているのは、交差点で市電が方向を変える際にポイントを操作した信号所だと思う。当時は、2号線からあみだ池筋に入る系統は運行されていなかったので、信号所も使われていなかったと思う。
向こう側にあるシートの内側は、当時、建設中だった協和銀行の新しい福島支店である。どんな建物が建ったのか知らないが、栄枯盛衰の激しい業界で銀行もこの支店も今はなく、跡地にはコンビニとマンションが建っている。銀行の地下にあった金庫と中身の現金は何処にいってしまったのだろうか?
なにわ筋を南下して
福島西通の交差点で東西方向に行き交う市電の写真をひとしきり撮ったのち、交差点南側にあるあみだ池筋の電停に向かう。あみだ池筋を通る南北系の路線は、福島西通交差点の手前で折り返し運転をしていたからである。
福島西通の電停にくだらからの市電が到着し客が降りている
ちょうどくだらからやって来た7系統福島西通行きの市電が到着して客を降ろしていた。市電の通るあみだ池筋に面していろんな商店が並んでいて、向こう側の歩道には運搬用自転車とリヤカーが置かれている。市電の後方に小さく写っている信号のあたりには、戦災で焼かれてしまったが作家田辺聖子が生まれ育った田辺写真館もあったという。
あみだ池筋にある福島西通の降車場は、通常の電停のような安全施設がなく、道路面に白線で細長い区画が描かれているだけである。降りているお客は慣れたもので後方を確認しているが、不案内なクルマが速いスピードで飛び込んできたら事故を招きそうな場所である。道幅が狭いせいか、あみだ池筋の電停のいくつかは、一段高くなった安全地帯のないこの手の停留所だった。
折り返してくだら行きとして停留所に進入する2008号
南行きの乗車場にはちゃんとした安全施設がある
客を降ろした2008号は、ほどなくして渡り線を通って折り返し、7系統くだら行きとして発車する。
このくだら行きに乗り込み、運転士の後ろに陣どって運転の様子を見物する。
クルマの隙間を縫って運転するのは神経を使う
この場所は軌道がクロスしているので土佐堀通との交差点だと思う
あみだ池筋は道幅が狭い。軌道敷の石畳の上を大きさも制動距離も異なるクルマと市電が共存するのは、かなり無理がある。右折しようとするクルマが軌道敷内で停車するので対向する市電は前に進めない。
本来は聖域であった軌道敷を車に開放してしまったのが災いとなったようだ。安全運転と定時運行の間で、運転士さんは胃の痛い思いをしながら乗務していたに違いない。
白髪橋で長堀川を渡る

白髪橋に着いたところで一旦、途中下車する。降りてすぐに撮ったのがこの写真。
市電の窓は全開で車内もよく見える。座席は乗客でほぼ埋まっている。
市電の横に並んでいるのはマツダの軽のライトバンだろうか。「京」ナンバーがついている。

白髪橋は今は地名だけになってしまったが、もともとは長堀川に架かっていた橋の名前である。上の写真は白髪橋を渡っている市電の様子を西隣に架かっていたなにわ筋の新鰹座橋からみたものである。
橋の向こう側の水面にはたくさんの丸太が浮かんでいる。このあたりの長堀川の河畔は水運を活かした大阪の木材市場発祥の地である。1960年代の終りに長堀川が埋立てられるまでは、この地で商いをしていた材木問屋も多かった。
あみだ池から桜川二丁目交差点を経て芦原橋へ

白髪橋からあみだ池筋を300mほど南に歩いたところにあるあみだ池の電停で撮ったのがこの写真である。何というクルマか知らないが、先頭の軽四のライトバンは、ほとんど隙間のないくらい市電にくっついて停車している。その後ろに停まっているのはカーブでたまにひっくり返っていたマツダの三輪トラックだ。
後の1990年代のはじめ、この場所から100mほど離れた西長堀のビルの一室を借りて事務所を置き、2年間ほど毎日通勤していた。子どものころにここで写真を撮ったことは最近この写真をみるまですっかり忘れていた。

あみだ池の交差点からさらに300mほど南下すると道頓堀川を渡る。橋は道沿いに建つビルのちょうど2階ぐらいの高さに架かっていて、橋の前後は少し急な坂道になっていた。
上の写真は道頓堀川を渡った先にあった桜川二丁目の電停から北側を振り返ったもので、福島西通行きの2039号車が坂を登っていく途中である。このあたりは、鋼材や建材を扱う商社や商店が多く、新建材を扱う店の店先にある天井板の大きな看板が目にとまる。
千日前通りの桜川二丁目交差点で停車中の5系統玉船橋行き
Google Mapsでみた桜川二丁目交差点の現況【2017年8月】
桜川二丁目の交差点では、あみだ池筋を走る南北の路線と千日前通りを走る東西の路線とが交差していた。
上の写真は、千日前通りを西に向かう5系統玉船橋行きの1822号車である。道の向こう側に建物がなく、まちの雰囲気が少し雑然としているのは、千日前通りの道路を広げているのと、1970年の開通をめざして阪神高速道路15号堺線の建設工事が行なわれているからである。万博を間近に控えて大阪中が大改造されている真っ最中で、万博を見ることのできなかった市電の側面にも、EXPO’70と万博のロゴマークが入った協賛広告が掲げられていた。
下に並べたカラー画像は、同じ場所の現況である。自分で撮りに行けないのでGoogle Mapsのストリートビューの画像を借りている。間違いなく同じ場所ではあるが、同じ場所だとはとうてい思えない。もし大阪で万博をもう一度やることになったら、道路は作らなくてもいいから、お盆のときに還ってくるご先祖さまが迷わないよう案内標識を市内のそこら中に立てたほうが良いだろう。
トラックやライトバンに囲まれるように芦原橋駅前のガードをくぐる出島行き
千日前通りとの交差点からさらに南下を続けると1㎞ほどであみだ池筋は新なにわ筋と合流し、環状線の芦原橋駅前に達する。この写真は、クルマに包囲された出島行きの2604号が駅の南側でガードをくぐる直前の様子である。
新なにわ筋を挟んだ駅前にはパチンコ屋の芦原会館があり、お客の自転車が店先に整然と並べられている。
三宝車庫にて
車庫の位置と概要
三宝車庫は、芦原橋から新なにわ筋をさらに南下し、津守や加賀屋を抜け、大和川を渡った堺市海山町にあった。大阪市電では最南端の車庫であり、市電の路線はさらに南の堺市出島にまで延びていた。
大阪市電が大和川を越えて堺にまで足を伸ばしていたのには訳があり、先の太平洋戦争と関係する特殊な事情があった。もともと芦原橋と浜寺間は、民間の阪堺電鉄株式会社が軌道事業などを行なっていた。しかし、戦況の悪化とともにお国のお達しにより民間企業を合法的に強制買収し、営業路線のうち採算性が見込める芦原橋から湊ノ浜間を1944年(昭和19)年4月に大阪市電の路線として開業させたからである。同時に、阪堺電鉄の工場兼車庫であった三宝車庫も大阪市電に移管された。
悪法と云えども法令に則っていた。非常時であったとはいえ、戦時下のどさくさに紛れて全財産をかすめ取られた阪堺電鉄経営陣の思いは、いかばかりであったろう。
芦原橋から市電にのってたどり着いた三宝車庫は、自分の知っていた都島車庫などとは少し違った造りだった。車庫裏の線路脇には草も茂っていて、雰囲気も違っていた。きちんとしたメモを録ったわけでもなく、写真と記憶をたよりにおおよその配置図を書くと次のようになる。線路の分岐などの詳細は正確ではないと思う。
三宝車庫の配置概要
車庫は新なにわ筋が府道29号大阪臨海線に名をかえた道路の西側にあった。道路とは板塀で隔てられていたように思う。ゆるやかなカーブが終るあたりに三宝車庫前の電停があり、その西側に道路に面して事務所が建っていた。車庫に入る線路は、車庫の北側と事務所の横の2箇所にあり、事務所横の進入路はかなり急なカーブを描いていた。
車庫内には、点検や整備をする4線の大きな建屋と、1線の小さな建屋が並んでいて、その西側に4本ほど市電を留置する線路が並んでいたように思う。
トラバーサーなどの施設はなく、車庫の周囲も工場だったので、なんとなく場末の工場っぽい雰囲気だったように思う。
車庫内の様子
車庫の見学といっても、職員の人に案内してもらったわけではない。
事務所で挨拶して「ちょっと車庫を見せてください」と頼むと、「あっ、ええよ。ひとりかい? 電車に気をつけてな」ぐらいのやりとりで当時はOKだった。国鉄の機関区でも同じで、せいぜい住所と氏名をわら半紙の見学者名簿に記入する程度ですんだ。
車庫前で停車中の南津守行き1750号
三宝車庫に着いて最初に撮ったのは、電停を少しはずれた本線上で停車していた南津守行きの1750号だった。1750号は、戦後の1947年から1948年にかけて40両製造された1711型の最後の車両である。製造当初は前後と中央の三箇所に扉をもち、運転士1人、車掌2人で運行された大型車だった。1956年以降は車掌が一人だけに減り2人乗務になったので、後方の扉は塞がれて窓に改造された。
路線上で停車している1750号では、すべての窓と扉が開けっ放しになっている。この日は暑かったのであろう
建屋内で点検整備をうけている2711号
車庫内にある大きな建屋の③と④の両線は、出庫前の点検や整備に使われていて、足まわりを下から点検できるようにピットが設けられていた。点検を終えた車輌は順次、事務所の横の急カーブを曲がって本線に出庫していく。
車庫の北側から建屋をみた様子
大きな建屋には4線が設けられていたが、そのうち道路寄りの①と②の2線は、北側だけに線路がつながっていた。①線には2037号が修理中なのかして留め置かれていた。
車庫の西側にある留置線
建屋を通り抜けて車庫の北側に回ると建屋の西にある4本の留置線が一望できる。
留置線の東側には比較的新しい2601型、西側には古い1701型が棲み分けるように置かれていた。
留置線に停められた新旧の車輌
交通事故で大破した1720号
留置線に停められた車輌のなかには、交通事故で大破して無残な姿になった1720号があった。1964(昭和39)年の12月に三宝線走行中にダンプカーと正面衝突し、その後、裁判の証拠物件としてそのままの状態で保管されていたという。死傷者が出るような大きな事故だったのであろう。裁判が決着したのは市電が全廃された後になってからである。この車輌は、三宝車庫がなくなってからも別の場所で保管され、1972年にようやく解体された。
出庫車輌で賑わう車庫前の三宝線
陰が長くなり夕方の通勤時間帯が近づいてくると、それまで車庫で休んでいた車輌が次々と出庫していく。三宝車庫前の電停は発車時刻待ちの市電で賑わいをみせる。
扉を開けて発車時刻をまつ桜川二 行きの2604号
この日は夕方近くまで車庫にいて、たぶんこの電車のあとの福島西通行きにのってもとの経路を辿り、桜橋か梅田新道に戻ったのだと思う。帰路のメモを録ったかどうか憶えていないし、録ったとしても行方が知れずいったいどのような経路で帰ったのかよくわからない。
市電の旅をしたのはずいぶん昔のことだが、写真を見ながら説明の文を書いていると、忘れていたこともだいぶ思い出してきた。
三宝線と三宝車庫は、その年の9月30日をもって廃止された。車庫の跡地は昭和電工に払い下げられ、同社の堺工場が建っている。
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