大阪市電の最後

廃止直後の港車庫にて

ようやくわかった撮影場所

大阪市電港車庫1701型

車庫に並ぶ市電1701型と相互信用金庫の看板

中学生のときに撮った写真のフィルムが十数本ある。それらを保管している紙箱のなかに、フィルム1本単位ではなくスリーブの状態でバラけたネガが数片ある。
フルサイズで6カット分、実際にはハーフサイズのカメラを使っていたので倍の12カット分がつながったスリーブのフィルムには、役目を終えて車庫に居並ぶ市電が写っている。
大阪市電が全廃された1969年の前の年に、どこかの車庫で撮ったものであろう。おそらく港車庫か春日出車庫のどちらかのはずだが、どっちの車庫なのかはまったく思い出せなかった。

写っている市電は全ての車庫に配属された1701型で、車輌形式から場所の特定は難しい。場所を特定する唯一の手がかりは、背景に「相互信用金庫」と書かれた看板のある金融機関のビルが写っているカットがあることだ。この看板の金融機関は、大阪に基盤を置いていた信用金庫だが、すでにふた昔ほどまえに経営破綻していた。破綻後は業界お決まりの経営統合で、別の信金に吸収合併されている。当時の店舗展開を調べようにも吸収された金融機関の店舗は整理されていて、簡単にはいかなかった。

神社や寺ならば何百年経とうが、ほぼ同じ場所で存続している。学校も統廃合が多いが数十年なら同じ場所に建っている。しかし金融機関、それも中小の信金となると、本店以外の店舗は数十年で跡形もなく消え去っていることが往々にしてある。変わり身の速さは最近のコンビニ並みであり、うっかり看板を信用して虎の子を預けるとえらい目にあうかもしれない。

フィルムは場所がわからないままずっと放置していた。あるとき、別のことを調べるために検索しながらネットをみていると、同じ車番の車輌が写っている画像をたまたまみつけた。そのサイトのことはのちほど触れるが、同じ配置で同じ背景である。書かれていた撮影年が少しずれているが、記憶違いと言うこともあるので、同じ場所でほぼ間違いないだろう。そんな偶然の発見で、一連のカットは港車庫で撮った写真だということがわかった。

改めて1964年に撮影された空中写真で場所を確認すると、車庫は港通りと中央大通りが合流する三角地にあった。地下鉄中央線の朝潮橋駅の東側にあった地下鉄の港検車場と並んで市電の車庫がみえる。地下鉄の検査場も元は市電の車庫だったようで、最盛期にはずいぶん大きな車庫だった。10線ほどある車庫の北側には、市電を載せて横方向に移動するトラバーサーも設置されている。

いっぽう、看板が写っていた信用金庫の店舗は、みなと通りの三先2丁目交差点の西北角にあった。1964年の空中写真には建物が写っていないので、1965年から67年ごろに新築されたものと思われる。

半世紀が過ぎた現在、支店の建物は信金本体ともども跡形もなく消えている。

解体を待つ市電と解体風景

1960年代後半、大阪市電は年ごとにどこかの路線が廃止になっていた。路線の廃止にともなって、その路線を所管していた車庫も廃止されていた。
港区夕凪町にあった港車庫は、1968(昭和43)年5月1日、築港線の花園橋~港車庫前間の廃止に伴い廃止された。市電全廃の10ヶ月まえのことである。

廃止された車庫内に交通局職員の人影はなく、架線もすでにはずされていた。配属されていた1701型の市電は敷地の東側に集められていた。

車庫の一番南側の留置線に並ぶ1701型

車庫の一番南側には港通りとほぼ平行して長い留置線があった。留置線には1701型の市電が何両か数珠つなぎに停められていて、その先頭は建屋の東側に回り込んでいる留置線の先のほうだった。

トラバーサーの東端付近、建屋の東側が解体の作業場

車内の木製部位を取り外して解体作業がすすむ

線路伝いに建屋の裏側に回り込んでみると、そこは市電の解体作業場になっていた。

長い留置線とトラバーサーで囲まれた一角には、3列で7~8両の市電が並べられ、東側にある車輌から順に解体されていく作業の真っ最中だった。

1701型は約90両が製造された大型車で、大阪市電の代表的な車輌である。戦前につくられた1701~1710号の10両を除いて、1711号以降の各車両は戦後の昭和20年代に新造されている。車体は鋼製であるが内装や窓枠、床は木造で、解体作業は車輌内部の木製の部位を取り外すことからはじめられていた。

壁や床が取り外された車輌の横には、車内から取り外されたガレキの山が積み上げられていた。

解体作業中の車内

木製の窓枠や床が取り外された1701型の車内

木の部位が外されて四隅の柱と屋根だけになった解体車輌

大阪市電1701型 解体作業

支えていた柱も切断されて地面に転がされた屋根

傍らで解体作業を見ていると、車内から木製部位を取り外す数名の人と、ガスを使って車体や台車を切断する数名の人に分かれて、手際よく進められていた。

四隅の柱と屋根だけになった車輌の柱がガスで切断され、ひっくりかえった屋根が地面に転がされている。つり革や車内の広告はついたままである。

検車場横の留置線で解体の順番を待つ1742号と1745号

解体作業場から少し離れた地下鉄の検車場横の留置線にも、解体の順番を待つ6~7両の市電が並べられていた。

1742号と1745号が並んでいるこの写真が撮影場所を特定する決め手となった。

こちらのサイト「解体」と題された同じ場所で撮られた写真が公開されていた。「解体」が撮影されたのは、おそらく自分が港車庫にいった日の1~2週間あとだろう。

上の写真を撮った時点では、この2両の解体作業はまだ手つかずであったが、リンク先の「解体」のほうでは左側の1742号は四隅の柱と屋根だけになっており、右の1745号も車輌前面の部位を切断する作業が進んでいる。

「解体」の画像の左上には次の画像へのリンクがあり、それをクリックすると驚くべきシーンが写っていた。

「港車庫市電焼却」という衝撃的なタイトルのとおり、解体された市電の木製部位がその場で焼却処分されている。当時は高度経済成長たけなわで、工場から排出される煤煙や廃水による公害問題をはじめとして、いささか乱暴なことがまかりとおった時代ではあった。しかしながら、公営の交通事業者の元車庫内という場所を考えると信じがたい光景ではある。

この「解体」と「港車庫市電焼却」を撮った方の他の写真を拝見すると、さらに驚かされる記録写真が公開されていた。
それは「昭和回顧録」と題された一連の写真である。撮影されたのは港車庫の写真よりも5年ほどまえの1963(昭和38)年である。すむ家がなく、やむなく廃校となった大阪此花区の酉島小学校の校舎跡で暮らしていた人々の生活が記録されている。翌年には東京オリンピックが開催され、東京も大阪も戦災からはほぼ完全に復興していたはずである。市電の焼却とは全く別の意味で、こちらも信じがたい光景であるが、写真に記録されたまぎれもない事実なのである。

大阪市電1701型

港車庫で撮った最後のカット 解体を持つ1733号


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