大阪空港ターミナルビル完成

当初、ビル屋上の送迎デッキのほかにフィンガー屋上も見物客に開放された
1969年2月1日、大阪空港にターミナルビルが完成した。ビルの完成に合わせて東側には大きな駐車場が整備され、阪神高速空港線も空港まで開通した。ここに掲げた写真は、大勢の見物客で賑わうターミナルビル開業当初の様子を写したもので、来訪者の服装からみておそらく3月か4月の撮影と思われる。
ターミナルビルは管制塔やホテルがある中央ブロックを挟んで、北側に国内線、南側に国際線のターミナルが配置された。ターミナルからエプロンに向かって4本のフィンガーが伸び、フィンガーの屋上は送迎デッキとして開放された。
フィンガーの先端付近にJALのボーイング727が駐機し、搭乗客が前方と尾翼下のタラップに向かっている。当時、フィンガーと機内をつなぐボーディング・ブリッジはまだ架けられておらず、搭乗客は歩いてエプロンを移動し、タラップを昇って機内に入っていた。
ボーイング727はリアに3発のエンジンを搭載しているため、機体側面の後方にはドアがなく、胴体の下部にドアと格納式のタラップが設けられている。

大阪空港へのジェット旅客機の初就航は1964年で、初就航から5年が経ち国際線と国内幹線はほぼジェット化されていた。国際線では旧型に属するコンベア880の姿も見られたが、競争の激しい国内幹線には次々と新鋭のボーイング727が導入されていた。

ボーイング727はそれまでの機材に比べて上昇、下降、旋回の運動性能に優れており、スピードアップの切り札として期待されていた。
当時の時刻表を見ると伊丹と羽田間の所要時間は55分と記されている。この所要時間は出発地のスポットを離れてから到着地のスポットに着くまでの時間であろう。羽田や伊丹の離着陸も今ほど混雑していないので、実際のフライト時間は35~40分前後だっと思われる。
全日空のサイトには、「羽田-伊丹間の最短の所要時間は26分で、現在でもその記録は破られていない」と記されている。たぶんこのスピード記録は、当時、機長の判断で航空路をショートカットした有視界飛行ができたことや最大巡航速度での飛行も認められていたこととも関係しているはずである。今は管制の指示にしたがって航空路を飛ばねばならないし、離着陸時の順番待ちも常態化しているので記録の更新は絶対にむりだろう。
ローカル線に就航していたフレンドシップやYS11
こちらは北側の2本のフィンガーで、主に中国・四国・九州のローカル路線を発着する各便のスポットが並んでいる。ローカル路線の機材はまだプロペラ機ばかりで、YS11やフォッカーF27フレンドシップの姿が見える。

昭和49年の伊丹空港【1974年 国土地理院撮影】
4本のフィンガーを備えたターミナルビル、阪神高速空港線と大きな駐車場、左下には1970年にできた3000m滑走路が見える
大阪空港の基本的な施設整備はB滑走路が増設された1970年にほぼ完成した。以来、半世紀が経過しようとしている。その間、国際線が関空に移管されたり、モノレールができたりしたが、大きな手直しは加えられていない。
建物の老朽化が進み耐震補強も必要となったので、現在、2020年春の完成を目標に大規模改修のプロジェクトがすすめられている。計画では、ビルを拡幅しフィンガーを撤去して動線を見直してスムースに搭乗できるようになるという。
昔の伊丹空港

H形の建物は進駐軍の建物で米軍基地だったころの面影が色濃く残っていた
エプロンには4発と双発のプロペラ機がとまっている
ターミナルビルが建設される前の大阪国際空港には、子どものころによく遊びにでかけた。そのときに撮った写真が少しあるのであわせて紹介しておく。
むかしは「伊丹空港」と呼んでいて、開港からターミナルビル完成までの沿革を簡単に示すと次のようになる。
■大阪国際空港の沿革
- 1939年01月17日 : 大阪第二飛行場として開港
- 1945年09月 : 米軍に接収、空軍伊丹基地 Itami Air Base 設置
- 1951年10月25日 : 米軍と民間航空(JAL)との軍民共用開始
- 1958年03月18日 : 米軍から返還され「大阪空港」と改称
- 1959年07月03日 : 第一種空港に指定され「大阪国際空港」と改称
- 1960年04月01日 : 国際線一番機乗り入れ(CP 大阪 – 香港)
- 1964年06月01日 : ジェット旅客機が就航
- 1969年02月01日 : ターミナルビル完成
- 1970年02月05日 : B滑走路(3000m)供用開始
子どものころ、伊丹空港から東に2~3kmほど離れたところに住んでいた。小学生の高学年から中学生にかけての時期、自転車にのって空港によく遊びに行っていた。家から空港まで子どもが乗る自転車で15分ぐらいだった。
産業道路(国道176号)の蛍池の少し北にある三叉路を西に曲がり阪急のガードをくぐると、空港へ通じる緩やかな坂道が真っ直ぐに伸びていた。
三叉路と空港とのちょうど真ん中あたりにメインゲートがあり、「大阪國際空港」と書かれた大きな表札が掲げられていた。ゲートや詰所の建物は米軍の Itami Air Baseだったころのものがそのまま使われていた。
車で空港内に入るときは許可が必要だったようで、門衛がいる詰所前には一旦止まれの表示があった。ただし、自転車に乗った子どもはノーチェックで通過できた。空港内には航空局職員など関係者の住む官舎があったので、そこに住んでいる職員の家族と思われたのかもしれない。
空港内にはカマボコ形をした兵舎や倉庫など米軍基地だったころの建物がたくさん残っていた。
進駐軍の指令本部や食堂、将校クラブとして使われた建物も残っており、基地返還後はそれぞれ別の用途に転用されていた。空港勤務者用の食堂の近くには、進駐軍の駐留兵士の家族用と思われる円形のプールが残されていた。夏になると空港従業者が利用できるように水が張られていたので、同級生のN君と自転車に乗ってよく泳ぎにいったものである。
空港への一本道の突き当たりにあった建物がJALの旅客ターミナルだった。木造2階建ての建物で、進駐軍時代は指令本部や測候所に使われていたそうだ。まだターミナルビルといったの利いた建物はなく、当然、送迎デッキもなかった。
よく通っていた小学生のときの写真はないので、当時の様子を記録した写真をネットで捜してみた。
このサイトに掲げられている20点ほどの写真は当時の雰囲気をよく伝えていると思う。
■1960年ごろの伊丹空港の写真(外部リンク)
・メインゲート http://warheads.s5.xrea.com/tetsuro/itami/09.html
・旅客ターミナル http://warheads.s5.xrea.com/tetsuro/itami/11.html
中学生になるとカメラを持つようになったが、飛行機見物に厭きてきたのと興味が他のことに移ってしまい、空港に遊びにいく機会も減った。
当時、撮影した写真が少しだけあるので以下に掲げておく。

香港を拠点とするキャセイ・パシフィック機の垂直尾翼にはユニオンジャックが描かれていた
伊丹発着の国際線の運航がはじまったのは、国際空港になった翌年の1960年4月からである。キャセイ・パシフィックの香港便が最初で、当時は国際線といえどもまだプロペラ機だった。
ジェット旅客機の乗り入れ開始は1964年6月からである。滑走路は1828mのA滑走路だけだったので、伊丹発着便には太平洋横断といった長距離路線は運航されていなかった。
ジェット化された当時、一番よく見かけた機材はこのコンベア880である。
このコンベアが離陸する時には、4つのエンジンから黒煙をたなびかせ、急上昇する今のジェット機よりもずっとゆるやかな角度で飛び立っていった。エンジンからの排気音は耳をつんざくような音で、騒音が非常に大きかったのを覚えている。

1967年ごろには国内線に新しく導入されたボーイング727をときどき見かけるようになった。
この写真は手前に1階の屋根が写っているので、JALの旅客ターミナルの木造建物の2階から写したのだと思う。警備が厳重な今の空港と比べると、当時の空港は牧歌的というかじつに開放的であった。ボーイング727がとまっているエプロンと右側の道路との間に高い柵のようなものは見当たらない。

駐機場ではJALのコンベア880「ききょう」号が給油や整備を受けている。滑走路やエプロンとの境には低い木製の柵があって、そこから撮ったのだと思う。少し広角気味のレンズがついたオリンパスペンEEで撮っているので、機体までの距離は50mぐらいしか離れていないと思う。
余談になるがこのJA8028ききょう号は、のちの1969年6月28日、アメリカ合衆国ワシントン州のモーゼスレイクの空港で訓練飛行中に墜落炎上し、搭乗員3人が死亡している。離陸時のエンジントラブルを想定した訓練で、4つのエンジンのうち風下側の1基をカットしたところ、横滑りをおこし滑走路から逸脱し、離陸直後に墜落したという。
ネットで調べてみると、コンベア880はエンジンや電装系を中心にトラブルが多く、低速時の癖が強くて扱いにくい機体だったようだ。エアライン各社の現場での評判はよくなかったらしい。低速時と言えば、最も操縦が難しい着陸時のことなので嫌われたのは当然かもしれない。
日本航空が1960年代に保有していた8機のうち数機は事故で失われ、初就航から10年も経たずして全機が退役して、ボーイング727などに置き換わっていった。
昔の伊丹空港は、滑走路など制限区域との仕切りもゆるやかで、飛行機をすぐ間近で見ることができた。監視態勢も無きに等しい状態で、搭乗時の保安検査もなかったが、不思議と大きな事件や事故は起きなかった。
ともかく現代よりも平和でのどかな時代であったし、子どもにとって伊丹の飛行場は恰好の遊び場だった。
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