島熊山の山名と位置について(1)

この記事を含む島熊山に関連した4編の記事は、2012年に旧ブログで公開した論考に一部加筆して再公開したものである。
島熊山の一本松【初出:2012/01/07】
島熊山の山名と位置について(1)【初出:2012/01/15】◀ このページ
島熊山の山名と位置について(2)【初出:2012/01/15】
島熊山の山名と位置について(3)【初出:2012/01/18】

島熊山の山名と位置について

春日町から島熊山方向を望む春日町から島熊山方向をのぞむ【2016年 撮影】
西麓の春日町付近からみた島熊山方面
前ページの北摂アーカイブの画像と同じ場所から撮影しているが
大きなマンションに隔てられてピークは見えない

以前開設していたブログに「島熊山の一本松」という記事をアップしたのは、2012年1月のことだった。そのあと、一本松のあったピークのことで少し気になることがあって、島熊山のことを調べてみた。
子どものころ、一本松のあったピークの名は「島熊山」だと教わり、ずっとそうだと思っていた。しかし、半世紀以上経って、それは間違っていたことがわかった。

かつて、島熊山付近には3つのピークが南北に連なっていた。ピークにはそれぞれに名前がついていて、そのひとつが島熊山だった。
1960年代に始まった宅地開発や道路建設にともなって、島熊山の山頂付近は削り取られた。頂をなくした山の名前だけが一人歩きして近くのピークへ移動し、いつしか間違った呼び名が定着してしまったようである。

山名のことを調べているときに、資料として入手した鹿島友治氏の著作『豊中 ありし日の景観』のなかに詳しい解説があった。

郷土史に記された島熊山付近の山名

『豊中 ありし日の景観』の著者、鹿島友治氏は、1912(大正元)年、旧桜井谷村(現在の春日町)でお生まれになった。もし今もご存命なら百歳以上になる。略歴には豊中市内で小学校の教諭をされていたとあり、昭和30年代の前半には上野小学校でも勤務されていたという。

『豊中 ありし日の景観』には、昭和8年に書かれた『桜井谷郷土史』などの郷土史料を引用しながら、次のように書かれている。以下は、鹿島氏の著作にある漢文調の記述を口語文に言い換えた(翻案した)ものである。


桜井谷村の東境にそびゆる山を「千里山」と呼ぶ。千里山には三つの峯があり、北峯から南峯にかけて順に低くなっていて、その姿は三蓋松の紋様に似ているので、総称として「三蓋峯」の呼び名がある。

一番南にあるのは「島熊山」で、熊野田村に属し、陸地測量部地形図には標高112.3メートルと記されている。峯には一本の老松があり、「熊野田村のからかさ松」という名でよく知られている。

一番北の峯は、千里山の最高峰で131.7メートルある。昔、摂津藩主の安部氏の山番小屋があったことから、「番小屋山」と呼ばれていた。

このように北峯と南峯にはそれぞれの呼称があったのに対し、中間の峯は無名だったので、もともと総称だった「三蓋峯」が中間峯の固有名詞となった。

また、三つのピークにはそれぞれ頂上にからかさ松があった。中間峯の松は、「千里山のからかさ松」として摂津銘松のひとつに数えられていたが、明治30年ごろに風流を解せぬ男に伐採されてしまった。

昭和40年代、番小屋山はふもとまで造成が進んでいたが、山頂は残っていた。この峯にも一本のからかさ松があり、市民が遊びに来たりしていた。そして、かつての名高い“からかさ松”の記憶によって、この峯を島熊山だと思い違いをしている人が多かった。

(鹿島友治『豊中 ありし日の景観』pp.69-71、1984)


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