・島熊山の一本松【初出:2012/01/07】
・島熊山の山名と位置について(1)【初出:2012/01/15】
・島熊山の山名と位置について(2)【初出:2012/01/15】◀ このページ
・島熊山の山名と位置について(3)【初出:2012/01/18】

桜井谷や千里川の河谷を挟んで西に対峙する刀根山丘陵からは千里山の稜線が見える
南北に並んでいた三つのピーク、番小屋山・三蓋峯・島熊山の位置がわかるだろうか?
稜線の向こうに突き出たひときわ高いタワーは千里中央のザ・千里タワー
地形図にみる島熊山付近の変遷
ここでは、先の(1)に示した鹿島氏の著作を念頭に置き、明治末から平成初期に作成された地形図4枚を読み解きながら、島熊山とその周辺地区の変貌を追っていく。
1909年(明治42年)

この地図は1909(明治42)年に測量されたもので、今から110年ほど前、まだ農村だったころの豊中市北部の様子が示されている。
三ツ池の北方に112.3メートルの独立標高点があり、その少し上に島熊山の山名が示されている。ピークから北に延びる尾根を境にして、東側は三島郡新田村、西側は豊能郡桜井谷村で、島熊山をほぼ頂点とした南側は熊野田村に属している。このように島熊山一帯は、三国境ならぬ三つの村の村ざかいをなしていた。
「千里山」を構成する三つのピークのうち、一番南の島熊山にのみ山名が記されていて、一番北にある最高地点の番小屋山は標高値のみとなっている。
番小屋山と島熊山の中間に位置する三蓋峯の位置は、独立標高点もなく比定がやや難しいところである。稜線上の微地形を読むと、「島」の字のすぐ左上にある主稜線上の小ピーク、もしくは、小ピ-クから西に派生した尾根上でジャンクションを成す小起伏のいずれかだと思う。
島熊山へは、三ツ池の北側から尾根伝いに小径が通じている。小径は島熊山から北へ村境を形成する主稜線に沿って箕面方面へと続いている。
番小屋山へは桜井谷村の小路から羽鷹池まで荷車が通れる道が伸びている。荷車道は上池の先で小径にかわり、尾根に登ってそのまま番小屋山のピークへ達している。また、途中の羽鷹池のところで、上池と下池の間をとおり、竹谷を渡って東側の村界尾根に登り、村界尾根伝いに島熊山へ通じる道もある。
番小屋山ピークの南面の谷(井戸が谷)、島熊山西側の谷(乳母が懐)、それに番小屋山東側の新田村側の谷(地獄谷?)は、それぞれ源頭部が浸食されて急な崖となり、深く刻まれた谷になっている。とくに番小屋山南面の谷は、尾根と谷底の高低差が30メートル近くもあった。
深い谷が刻まれていた番小屋山の南麓は、現在、ゆるい傾斜地になっていて大きな凹凸はない。大規模に山が削られ、その土で谷が埋められるという、よくある手法で宅地造成が行われたものと思われる。谷を埋めたところの地盤は安定しているのだろうか。
1953年(昭和28年)

モノクロで印刷された地形図の池を彩色している
この地形図は1953(昭和28)年に修正測量されたものである。戦前から戦後にかけて豊中市の北部が郊外の住宅地として開発されたころの様子が示されている。
梅花学園から豊中高校にかけての一帯は、すでに住宅地区となっている。豊中駅にほど近いこのあたりは、大正の末期に住宅地として売り出されたという。その先の青池付近にはまだ家がなく、上野小学校もまだできていない。
いっぽう、豊中駅からかなり離れた東豊中には、ポツリポツリと住宅が点在している。別荘地のようないわゆる“お屋敷町”として開発された東豊中の当初の状況である。この奥地を住宅地として開発したのは阪急電車で、昭和8年のことだという。豊中駅から離れた東豊中へはバスが運行されていた。
阪急による住宅地開発にともない、三ツ池の周囲や池の北側から深谷池にかけての東豊中一帯に道路がつけられている。
また、東豊中のバス停から北西にもゆるい坂道が延び、尾根に突きあたったところで北東に転じて、稜線沿いに島熊山まで達している。この道は車1台と半分ぐらいの幅であまり広くはないが、道の両脇にサクラが植えられたきれいな並木道だった。鹿島氏の著作によれば、道沿いのサクラは東豊中の最初の住民が話し合って植えたということが記されている。島熊山に至る後半の稜線沿いの区間は、明治42年の地形図に記されていた羽鷹池からの小径をほぼ踏襲している。
住宅地開発の波は東豊中までで、島熊山付近から北にはまだ及んでいない。
島熊山から三蓋峯を経て番小屋山、さらに北の箕面方面にかけて、尾根上に1本の小径が通じており、江戸時代とほぼ同じ状態のままの「千里山」が広がっていた。
1971年(昭和46年)

この地図には、豊中市北部の住宅地開発が島熊山周辺に及んだ昭和40年代前期の様子が示されている。測量年次は昭和46年修正となっている。ちょうど千里の開発が急速に進んだ時代である。毎日、通っていたのでよく知っているが、地形図に示されている島熊山や千里NT付近の様子は、修正年よりも数年前の1968年ごろの状況だと思う。中央環状線や新御堂筋は万博開催までに開通していたが、この地形図にはまだ記載されていない。
上野坂から北に向けていまの「ロマンチック街道」、当時は「新箕面街道」と呼んでいた府道43号バイパスが開通し、上野坂の東麓から島熊山・緑丘を経て野畑に通じる幹線道路もできている。
島熊山の東側では千里ニュータウンの一部が完成している。千里中央から中央環状線の建設が西に延び、造成によって島熊山付近が削られて、もとの地形が変わりつつある。
三蓋峯付近は、稜線西側の宅地造成が完了して、住宅が建ち並びつつある。稜線の東側では、一部でニュータウンの建設が始まっており、新千里西町の北側ブロックでは中層住宅が完成しているが、南側はまだ造成が始まっておらず、元の地形が残されている。
現在の豊中不動尊の東側に小さなピークが残っており、これまではなかった120.5メートルの三角点が設置されている。国土地理院の『点の記』によれば、この三角点は「四等三角点島熊山」である。選点と埋標は1966(昭和41)年9月21日となっている。つまり、1966年の秋に新たに三角点が設置され、その点名は島熊山、標高値は120.5メートルということである。
いっぽう、北側にある番小屋山付近では、西側と南側に住宅街路ができているが、崖にふちどられてピ-クはまだ残されている。
この頃、この番小屋山のピークには傘形の一本松があったので、『島熊山の一本松』と呼ばれていた。しかし、正確には『番小屋山の一本松』と呼ぶべきであった。
3本の唐傘松のうち、最後まで残った番小屋山の一本松に呼び寄せられる形で、かつて名松のあった島熊山の名だけが一人歩きしてしまい、番小屋山のピークにあった松を誤った名前で呼ぶことが定着してしまったようである。
1990年(平成2年)
国土地理院 2万5千分の1「伊丹」【1990修正】
さて、最後に1990(平成2)年に修正測量された地形図を掲げておく。一番上の明治の地図からは80年ほど経過している。
番小屋山、三蓋峯、島熊山のピークの位置は、造成前の古い地形図をもとに位置を割り出している。真ん中に位置した三蓋峯は、もともとの位置の特定が難しかったが、他の2つのピークとの相対的な位置から比定すると、図上の115.8メートルの三角点(点名「島熊山」)の少し西側と推定される。なお、修正測量された三角点の標高は、以前の120.5メートルよりも低くなっている。宅地造成によって5メートルほど削られたものと思われる。

灌木と笹藪の中に三角点の標石(赤丸)が埋設されている
展望は効かず、造成によって削られる以前の面影はない
この地形図がつくられた1990年の時点では、番小屋山のピークは宅地化されずに不動会館の建物の北に残されていた。その後、番小屋山の場所には大きなマンションが建てられた。千里川を隔てた春日町や刀根山丘陵から眺めれば、番小屋山のピークだった場所は要塞のような建物によって覆い隠されている。
かつて番小屋山は展望に富み、八幡山、生駒山、金剛山、葛城山、大阪湾、淡路島、六甲を一望することができた。真偽の程は定かではないが、古い郷土史料には山城の愛宕山も見えたとある。
いまはなきその山頂に建つマンションの上層階からの眺めは、さぞかし素晴らしいものに違いない。
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