・島熊山の一本松【初出:2012/01/07】
・島熊山の山名と位置について(1)【初出:2012/01/15】
・島熊山の山名と位置について(2)【初出:2012/01/15】
・島熊山の山名と位置について(3)【初出:2012/01/18】◀ このページ
開発初期の島熊山周辺
先の「島熊山の山名と位置について(2)」では、1909(明治42)年、1953(昭和28)年、1971(昭和46年)、1990(平成2)年にそれぞれ測量された地形図を参照しながら、島熊山付近の変遷を追ってみた。
開発の初期、島熊山から番小屋山にかけての山稜がまだ残っていた頃に撮影された空中写真があったので以下に掲げておく。

この空中写真が撮影されたのは1961(昭和36)年5月である。牧野組による第一期の宅地造成がほぼ完成した時期である。
島熊山の南斜面にひろがる阪急の東豊中住宅地と比べると、もとの地形や自然環境に対する姿勢、土地利用の度合い、道路のつけかたなど開発の考え方がまったく異なっている。
ちなみに画面左下の隅にみえるのは、1957(昭和32)年ごろに分譲された上野8丁目の府営住宅である。ロータリーを基点に街路が放射状に伸び、コンパクトな住宅が並んでいる。それぞれの住宅地開発について、その時代背景やコンセプトの違いを読み取ることができよう。
空中写真に写っている島熊山付近では、住宅地の道路と宅地造成ができたばかりである。家はまだ一軒も建っていないが、現在の島熊山のバス停がある三叉路がはっきりとわかる。
このころの開発区域は、北側の番小屋山麓には及んでおらず、現在の不動尊付近から奥池あたりまでにとどまっている。
画像中央下の東豊中のバス停から北上し、尾根づたいに北東に伸びる道を辿ると、島熊山のピークの位置を特定することができる。島熊山から三蓋峯付近を経て、番小屋山のピークに至る稜線上の小径もはっきりと確認できる。
島熊山や番小屋山に初めて登ったのもちょうどこのころだった。
この写真を眺めていると、あの一本松が生えていた番小屋山の禿げた山頂付近の景色、上野8丁目のロータリーから羽鷹池の横をとおって番小屋山へ至る小径沿いに生えていたクヌギの木々、アメンボやゲンゴロウがたくさんいた畦畔の様子などが瞼に浮かんでくる。
三つの峯が連なる千里山、麓にひろがる農地やため池などこのあたりの北摂の山野は自然豊かなところだった。
「景観」という言葉は、もともと地理学の専門用語である。昭和の時代には、景観という概念は現在のようにまだ一般化していなかった。けれども、地域のシンボルとなる景色やそれを構成する要素は良識によって守られていた。また、地域を代表する山の頂からの眺望もそこを訪れた万人が享受することができた。
ふりかえってみると昭和期の住宅地開発にはまだ一定の節度があった。
いっぽう、平成以降の住宅地開発は何でもありで、やったもの勝ちである。景観への影響としては、とくに大型マンション建設のような資金力のあるディベロッパーの横暴が顕著である。独占的・排他的と言い換えても良い。
番小屋山や島熊山に限ったことではないが、地域のシンボルとなる景観は地域の共有財産である。したがって、景観を構成する地形や樹木などを含めて地域によって守られるべきである。また、地域を代表する眺望地点も同様である。
このような観点からの思慮が欠落した開発行為は、番小屋山の例だけでなく各地でしばしば見受けられる。そのような開発行為を防止し、景観という共有財産を守り継承していくためには、法的な規制措置が必要である。
番小屋山に即して言えば、景観に関する法律や条例によって山頂付近におけるマンション建設といった独占排他的な土地利用を排除し、眺望を妨げる大規模建築物の造営行為を規制しておくべきだった。しかし、もはや手遅れである。
この4部作の冒頭「島熊山の一本松」の最初のほうでふれた『豊中市歌(作詞:辰己利治)』の歌詞は、1番から3番を通じてすべて「緑の都(みやこ)豊中市」というフレーズで締めくくられている。かつて島熊山周辺にひろがっていた緑の大半を失ってしまった今となっては、もはや市歌に歌われた昔日の良好な風景や環境をみいだすことは困難である。
※ 豊中市歌 MP3ファイル(新編曲 令和版) 豊中市公式サイト
https://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/shoukai/gaiyou/citysong.html
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