豊中倶楽部とたこ焼き屋

豊中倶楽部の建物

豊中倶楽部の正面切妻造りや窓が特徴的だった豊中倶楽部の正面

1990年代のなかばに豊中駅付近の阪急宝塚線が高架になるまで、駅を挟んで南北2箇所に踏切があった。蛍池寄りの踏切があったところは、現在立体交差になっており西側には五叉路の交差点がある。そこから少し西へ入ったところに『豊中倶楽部』という建物がある。この豊中倶楽部は駅の西側にある玉井町の連合自治会が所有し、管理してきた自治会館である。

現在の建物は2013年に建て替えられた2代目で、1階にはコンビニが入っており、2階が豊中倶楽部になっている。初代の建物は老朽化のため取り壊されてしまったが、木造2階建の切妻造りで、南側の市道に面したところが玄関になっていた。
ペパーミント色のペンキが塗られていた外観は、コロニアル風というか、大正モダニズムを彷彿とさせるちょっとしゃれた洋館の雰囲気が漂っていた。

倶楽部の歴史は古く、建物は昔も今も自治会の会合や行事、習い事の教室、催場などに使われている。
1913(大正2)年、現在の阪急豊中駅の前身にあたる豊中停留所ができ、翌年から駅の西側一帯が住宅地として売り出された。それから何年かして、住宅が建ちはじめたのにあわせて、この倶楽部は豊中住宅親睦会の集会所として設置された。当初は住宅地を分譲した阪急電車が建物を親睦会に提供し、のちに連合町内会が阪急から土地と建物を購入したそうである。

建物の建築時期については明確ではないが、この建物の調査をされた豊中市文化財保護審議会の永井規男氏による論文『豊中クラブ自治会館の建築について』には、1917(大正6)年までに建てられた可能性が高いと記されている。また、鹿島友治著『豊中ありし日の景観』には大正末年頃のことだと記されている。

いずれにせよ大正から昭和、平成と百年ちかくに渡って地域の人々に使われてきた建物だった。老朽化がすすんだため建て替えられることになり、2013(平成25)年10月に解体された。

豊中倶楽部での学習塾

初代の豊中倶楽部は、1階に2部屋あり、2階は30畳ぐらいの大広間になっていた。各部屋では会合や催事のほかいろいろな習い事などが開かれていた。2階の大広間を使った学習塾が開かれていて、小6の時にその塾に通っていた。
ネットで晩期の内部写真をみると広間の床はフローリングになっている。うろ覚えで不確かであるが、以前はたしか畳が敷かれていたように思う。

豊中倶楽部の階段2階の大広間にのぼる階段

豊中倶楽部で開かれていた塾は、6年生を対象とした進学塾だった。N中学やR学院といった阪神間にある名門中学をめざす良家の子弟が多く通っていた。塾での指導内容も私立中学の入試にでるような算数の問題の解き方に重点が置かれていた。今では駅前に私立中学をめざす小学生の進学塾があるのは当たり前の風景になったけど、その走りのようなものだった。

私立中学に行く気も学力もまったくなかった自分が、なんでそんな塾に紛れ込んだのかよくわからない。入試には興味はないが算数は好きな科目だった。鶴亀算や和差算、通過算、過不足算の問題だけでなく、それらをひと捻りしたような私立中学の入試問題を解くのは、なかなか楽しかった。

塾での授業は過去の入試問題が中心できわめて実戦的だった。先生がガリ版でプリントにした問題を配り、塾生は畳の上に置かれた低い長机に正座して問題を解く。出来たら挙手して前の先生のところに行って、採点や指導をしてもらう。
先生は添削用に赤インクを入れたモンブランの太い萬年筆を使っておられた。たいへん厳しい先生だったが、算数の教え方はわかりやすかった。

先生は男子の指導には熱心だったが、女子には温度差があった。頭が悪いから教えてもしかたがないというのがその理由らしく、冗談交じりに具体例を説明して男子を笑わせたりしていた。ただし、どこまでが本心だったかはわからない。

線路脇のたこ焼き屋

豊中倶楽部の建物の北側、線路沿いの道の踏切の近くにはたこ焼き屋の屋台がでていた。屋台は中年のご夫婦がやっていて、塾の帰りに時々寄っていた。
この店のたこ焼きは風味があって美味かった。その秘訣は焼いている最中に醤油を1~2滴落として、醤油をこがして隠し味にしていたからだと思う。

たこ焼の鉄板の斜め上にあたる屋台の軒下には、醤油を入れたウヰスキーの角瓶が逆さまにして吊してあった。瓶の口からは細長いゴムチューブが伸びていて、先端近くにはバルブ代わりにアルミの洗濯ばさみがついていた。たこ焼の焼け具合を見計らって、順番に醤油を一滴ずつ落としていくための自作の調理器具である。
やり方は、ゴムチューブの先端を止めていた洗濯ばさみをはずして、2本の指先でチューブを掴み、指先の掴み具合を加減しながら焼いているたこ焼に醤油を一滴ずつ落としていくのである。店のおっちゃんが指先を動かしながら醤油を注いでいく早技は見ものだった。

ある日のこと、塾をさぼって阪急の踏切の線路脇のところに屋台を出しているたこ焼き屋で遊んでいた。焼き上がったたこ焼きを舟に入れてもらって、フーフーさましながら店の前で食べていた時のこと。
屋台は豊中倶楽部のちょうど裏側に位置しており、目の前には豊中倶楽部の建物があった。2階の窓をふと見上げると、そこには怖い顔でにらんでいる塾の先生がいた。

豊中倶楽部の北側たこ焼き屋の屋台があった場所からみた豊中倶楽部の裏側

食べ終わってから遅刻していくと、「やる気がないならもう来なくていい」と言われ、ずいぶん叱られた。

カフエーパウリスタと豊中倶楽部

ところで、何年か前の朝日新聞に『豊中倶楽部』の建物は、日本にコーヒー文化を広めたとされる喫茶店『カフエーパウリスタ』の建物であるかもしれないという記事が載っていた。本稿作成にあたり改めて掲載紙について調べると、2009年10月5日の朝日新聞夕刊だった。

カフエーパウリスタは喫茶店チェーンを展開していた会社名であるが、ポルトガル語で「サンパウロの喫茶店」あるいは「サンパウロっ子」という意味をもつ。明治の末頃の創業され、のちの喫茶業や喫茶店の原型になったともいわれている。

記事によると、それまでは1911(明治44)年12月に開店した銀座6丁目の店が第一号店とされていた。しかし近年、箕面市史の編纂を行なっていた担当者らによって箕面駅前の滝道に開店したパウリスタの絵はがきや新聞広告が発見された。箕面店の開店は銀座店よりも半年早い1911年6月25日で、箕面店が第一号店であったことが判明したという。開店前日の大阪朝日新聞には「生粋のコーヒ店」と銘打った開業広告が掲載されていたことも研究者らの調査によってわかった。

喫茶店の先駆けであったカフエーパウリスタの箕面店は、箕面駅前に建てられた2階建ての洋館にテナントして入っていた。ブラジル式のコーヒー1杯は5銭、ケーキ付きで10銭だったという。
しかし、あまりにも時代を先取りしすぎていて、営業的には芳しくなかったようである。店は1年ほどで閉店を余儀なくされた。その後、建物は箕面郵便局の西側から移転してきた大阪お伽倶楽部の事務所として使われたといわれているが、使われていた時期などの詳細は不明となっている。

この豊中倶楽部の建物は、カフエーパウリスタの箕面店が使っていた建物と酷似しており、大正中期ごろに箕面から豊中に移築したものである可能性がきわめて高いという。
建築の専門家による調査によると、建物の構造や窓などの配置、意匠などに共通点も多く、ほぼ間違いないだろうという見解が示されている。しかし、相違点も数箇所あること、箕面から豊中に移築されたときのいきさつが明らかでないことなどから、100%間違いないと断定するまでには至らなかったようである。

豊中倶楽部の建物は、豊中に残る明治・大正時代の洋館建築として貴重なことから、文化財として登録することも検討されたようである。登録は実現しなかったが、建物が解体された際に部材の一部は豊中市などによって保存されたらしい。ただ、それらの部材が今、どこでどのように保管されているのかは知らない。


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