書肆 青泉社と木村英造さん

書肆 青泉社

青泉社の入っていたビルジュンク堂付近からみた青泉社のあったビル

青泉社の沿革

書肆青泉社(しょし・せいせんしゃ)は、20世紀の後半、約半世紀にわたって大阪市北区堂島で営業していた書店である。本店の他に中之島の朝日新聞ビルなどに2、3の支店もあった。

現在、四つ橋筋に面して大型書店のジュンク堂大阪本店がある堂島アバンザは、以前は毎日新聞社の大阪本社だった。青泉社は毎日新聞社の筋向かい、四つ橋筋の西側にあった。

書肆青泉社の創業は1948年で、店を経営していたのは大阪市生まれの木村英造さん【1922-2016】だった。1955年前後の一時期は出版事業も手がけていたそうだが、出版からは数年で撤退し、その後はもとの書籍販売業に専念している。

創業時や古いビルに店があったころは、四つ橋筋から路地を少し入った場所にあったそうだ。そのころの店には行ったことがないが、デザインの仕事をしていた父は美術書を買い求めるのに利用していたようだ。木村さんのもとで店を切り盛りしていた支配人の吉川さんのことをよく知っていたし、購入した本を入れてくれる茶封筒や店のPR誌なども実家に残っている。
1981年夏、青泉社は自社ビルを建て替えて、店は四つ橋筋に面した新しいビルに移った。同じころ、後述する木村さんの著作『航海者エンリケ伝』をきっかけに青泉社のことを知り、ときどき足を運ぶようになった。

青泉社の新しいビルは、三角形の屋根をもつ二棟の建物の真ん中に階段を設けたツインビルである。外壁にレンガと花崗岩の切石を使い、ヨーロッパの古い都市の街角で見かけるような外観のおしゃれな建物だ。
表情に乏しい中高層のオフィスビルに囲まれて、青泉社のビルは小さいながらも精彩を放っていた。ビジネス街のなかで「ここにオアシスあり」と合図を送っているかのようだった。

四つ橋筋に面した玄関から3階に向かって真っ直ぐに伸びる広い階段があり、それを昇りきった左側が書店だった。
階段を挟んだ北隣の棟は海外から演奏家を招聘する音楽事務所が使っていて、青泉社側の1階と2階にはレストランや喫茶店が入っていたように思う。

大型書店と青泉社の顧客

書店がいまのように大型店化するまでは、大阪キタの書店といえば、大阪駅前にあった旭屋書店がよく知られていた。ほかには阪急百貨店の書籍売り場も足場がいいのでよく賑わっていた。
1970年、阪急三番街がオープンしたときに、東京から紀伊國屋書店が進出してきた。それと前後して旭屋も曾根崎にビルを建てて迎え撃つ体制を整えていた。ともに広い売り場面積と圧倒的な品揃えを誇っており、いわゆる大型書店の時代の幕開けだった。

当時、ターミナルの近くでは、ふたつの大型書店が覇権を競っていた。そんな状況下において、少し離れた堂島にあった青泉社は、大型店の影響は避けられなかったものの、ただちに大きな打撃を受けるまでには至らなかった。
というのは、青泉社には本好きの良質な顧客が大勢いて、大型店になびかない固定客らによって支えられていたからである。固定客が多かったのは、青泉社の周辺のオフィス街に顧客の勤務先があり、昼休みや仕事帰りに気軽に立ち寄れる立地条件が功を奏していたのかもしれない。また、地の利だけでなく、読書家の期待と要望に耐え得るポリシーと見識とが店と店の人に備わっていたからに違いない。

時代を超えて読み継がれる本を売る

新しいビルに移ってからの店は20坪弱ぐらいの広さだった。必ずしも大きな店ではないが、圧迫感を感じないように余裕を持たせて書棚が配置されていた。店内の一角には腰を下ろしてくつろげるスペースが設けられ、観葉樹の鉢植も置かれていた。大型書店の店内が繁華街の雑踏や満員電車のような人いきれに溢れているのに比べると、青泉社の店内は別世界のオアシスだった。

書棚が限られるので品揃えには制約が大きいが、本をよく知る支配人やベテランの店の人が精選した本が並べられていた。ない本は取り寄せを頼めば快く引き受けてくれた。
店の大きな特徴として、通常の書店では一番いい場所を占めている雑誌は取り扱っていなかった。雑誌と売れ筋の新刊書が幅をきかせる普通の本屋とは違って、あくまで時代を超えて読み継がれる本や店がお薦めの本が並ぶ書肆だったのである。

顧客層には愛書家も多く、そんな顧客のために店のオリジナルの蔵書票をつくって配布していたこともある。青泉社の蔵書票は、紙質もデザインもたいへん凝ったものである。父がもらってきたのが手元に少しあるので画像を掲げておく。

青泉社の蔵書票書肆青泉社の蔵書票
この2種類のほかにもあったかもしれない

このように書肆青泉社は、少し変わったというか、ほかにちょっと類をみない特徴のある本屋だった。

青泉社の終焉

木村さんによると、新しいビルに移って10年が過ぎようとしたころから、青泉社の上空に薄雲がかかり始めたという。長年にわたって店を支えてきた常連の顧客が次第に高齢化してきた。さらに、委託販売という書籍の流通上、優位な立場にある大型店によるボディブローもじわじわ効いてきて、経営環境は年々厳しさを増してきた。

売上げが下がってきたからといって、それを補うために店の書棚に並んだ本を雑誌や売れ筋の新刊書に置き換えることは、消耗品は扱わないという木村さんの経営理念に反することだった。
売上げを第一に置いてしまうと、書肆青泉社としての品格や独自性が保てなくなり、存立し続ける意義も薄れてしまう。そう考えた木村さんは、そろそろ潮時だと判断したようである。

1996年8月、青泉社の本店は48年の歴史にピリオドを打ち閉店した。朝日ビルに出していた支店も2年後の1998年6月に店を閉じた。

青泉社のブックカバー青泉社のブックカバー
イギリスの詩人・文藝評論家 エドマンド・チャールズ・ブランデン Edmunde C.Blunden 【1986-1974】の”BOOKS”と題された詩とその翻訳が記されている

青泉社のPR誌『落丁』

一時期、書肆青泉社では『落丁』と題された小冊子を発行し、顧客に配っていた。冊子はB6判、12~16ページ前後で、書店や書店業界のことを読者層に紹介したPR誌である。
1963年10月に第1号が発行され、以後、年に2~3回のペースで発行されていた。1976年12月に休刊するまで全部で29号を数えた。父が資料を保存していた金属製の書庫には、このPR誌のほぼ全ての号が揃っていた。

岩波の『図書』、創文社の『創文』に代表されるような出版社のPR誌は当時も何点かあったが、小売書店が発行する広報誌として『落丁』は先駆け的な存在だった。

『落丁』初期の各号青泉社の PR誌『落丁』初期の各号

この『落丁』を企画し、大半の記事を執筆していたのは、経営者の木村さんだった。
木村さんは「らくちょう」という言葉が好きだったようで、趣味だった渓流釣りの釣号や自著のペンネームにも同じ読みの「落釣」という名を使われている。

『落丁』の内容は、特集と書店から読者へのおたよりといった時報的なことがらである。版を重ねている書籍の紹介もよく掲載されていた。
内容にもよるが毎号の特集には、全ページの半分を超えるほど十分な紙幅がとられていた。木村さんが見つけ出してきたデータや資料に基づいて、綿密かつ独自の視点からの論考が書かれていた。取材をしたりバックデータを集めたりするだけでもかなりの手間がかかっていただろう。

経済学を修めた経営者として、数値での検証が得意だった木村さんらしく、具体的な数字を掲げた論理展開や主張には説得力がある。また、書店や出版・書籍流通業界が抱える問題点など、普通の同業者なら書きにくいこと、業界のタブーとされている問題にも踏み込んでズバッと意見を書かれている。どの論考も切れ味は鋭い。

主な号の特集として、次のようなテーマが設けられていた。

  • 第1号【1963年10月】出版業界の内部から見た出版社
  • 第2号【1964年2月】文学全集のすすめ
  • 第3号【1964年6月】或る小さな出版社の話(昭森社 森谷均氏)
  • 第4号【1965年4月】ある編集者の歩いた道(未来社 西谷龍雄氏)
  • 第5号【1965年10月】何故関西で出版は育たないか?
  • 第6号【1966年1月】昭和40年の出版界回顧
  • 第7号【1966年6月】本が商品であることのむつかしさについて
  • 第8号【1966年10月】本は買われた後でどうなるか
  • 第9号【1967年2月】昭和41年の出版界回顧
  • 第10号【1967年6月】書店の万引について
  • 第11号【1967年10月】読者より出版社への三つの注文
  • 第13号【1968年6月】本と新聞広告の関係について
  • 第14号【1968年10月】読書週間は誰のためにあるか?
  • 第16号【1969年6月】出版社の後継者問題を論ず
  • 第17号【1969年10月】ブッククラブについて
  • 第18号【1970年2月】大型書店問題を考える
  • 第19号【1970年6月】ポルトガルの話(自著『航海者エンリケ伝』関連)
  • 第20号【1970年10月】限定版について
  • 第22号【1971年7月】アンケート 読者にとって理想的な書店とは何か
  • 第24号【1972年5月】抱負をもつ小出版社のために
  • 第25号【1972年10月】ブック戦争についてなど
  • 第26号【1973年4月】本屋について
  • 第27号【1974年12月】読者が求める再版希望書
  • 第29号【1976年12月】故紙の話など

この記事の作成に際して何冊かざっと再読してみた。一番新しい29号でも42年前、創刊号だと55年も前になる。執筆からかなりの年月が経過しているにもかかわらず、今日でも通用する内容である。著作権の制約があるので、ここに示して内容を紹介できないのはとても残念である。
特集を一冊にまとめて書籍化する価値はあると思う。あるいは、デジタルデータにして電子出版という手もある。機会をみて著作権を継承された方と一度コンタクトをとってみようと思う。

木村さんと最後にお会いしたとき、この『落丁』について少し話す機会があった。古い書き物だと笑っておられたが、そのときにネットで公開してもよいか伺って、許諾を得ておくべきだった。

ところで、木村さんには書店などの経営者としての顔のほかに、いくつかの顔をお持ちだった。よく知られている横顔もあれば、そうでないのもある。

たとえば、航海史を研究しエンリケ伝をまとめられたこと、淡水魚の味方となって保護活動を精力的に推進されたこと、渓流釣りやツチノコ捜しに熱中されたことなどである。木村さんが興味をもたれたことは他にもいろいろあるが、とてもすべてを書き切れない。
ここでは自分が木村さんを知るきっかけとなった航海史研究、淡水魚保護活動、渓流釣りの三つ横顔について、自分が知っている範囲で感想やコメントを交えながら書いておきたい。


「落丁」は、1963年から1976年にかけて発行された1~29号のすべてが、国立国会図書館に所蔵されています。
登録など所定の手続きが必要ですが、複写サービスなどの利用ができるようです。

落丁|書誌詳細|国立国会図書館オンライン (ndl.go.jp)
【2023/04/04 追記】

航海者 エンリケの研究者として

15世紀のポルトガルに “Henry the Navigator” と呼ばれたひとりの王子がいた。
日本語に訳せば『航海者 エンリケ』というふうになる。エンリケ王は、航海事業を指揮したり、援助したりしながら帆船による航海法を確立し、のちの大航海時代への航路を切り開いた人である。

この航海王のことを知ったのは学生のときで、山口平四郎先生【1910-2010】から講義のなかで教わった。山口先生は山地交通路や鉄道、港湾・海洋といった交通地理がご専門である。前年に交通地理の卒論を書いたとき、お願いして北園町のご自宅で指導を受けていた。すでに数年前に定年退官しておられたが、特任教授として交通地理を研究する院生の個別指導や学位の審査のためにときどき顔をだされることがあった。
例年は学部での講義をもたれない先生だが、ある年度、交通史を中心としたヨーロッパの地誌の講義を担当されることになった。受講時のノートを捜しだして確認すると、1981年6月15日の講義では、11世紀から15世紀にかけてのイベリア半島の地理と歴史、ポルトガルから大西洋への進出、バスコダガマによるインド航路の発見、コロンブスによる太西洋横断航海について講ぜられている。余談になるが、コロンブスの業績は「アメリカ発見」ではなく、「太西洋横断航海」あるいは「大西洋航路の発見」と捉えるべきであるということを強調されていた。

講義は、イスラム支配が終焉を向え、Reconquista やポルトガル独立を経て大航海時代へ移行した背景と要因の分析が中心だった。イスラム教徒から示唆を受けて、天文学・測地学・地図学や造船術・航海術が発展し、その成果として羅針盤や三檣(さんしょう)帆船が普及した。それらに加えて優秀なリーダーが出現したことによって、はじめて大航海時代への扉が開かれた。その立役者である航海王エンリケの業績について紹介があり、そのときエンリケを研究された木村さんのことにも言及された。

エンリケの参考文献として第一に掲げられたのが木村さんの著作である。1971年に刊行された『大航海時代の創始者 航海者エンリケ伝』だった。
在野の研究者である木村さんが語学から始めて、約10年を費やしてエンリケ伝をまとめたこと、上梓するに際して実際にポルトガルに赴き、資料を収集したり史実を確認した労作であると評価しておられた。学ぶべき点の多い著作なので、機会があれば是非、読んでおくようにということであった。

『航海者エンリケ伝』木村英造著『大航海時代の創始者 航海者エンリケ伝』
エンリケの没後500年を記念してリスボンのテージョ川河畔に建てられた
「発見のモニュメント」の写真が表紙に掲げられている

1000部の限定本であったためか図書館にはなく、生協書籍部から注文をかけても出版から10年が経過していたので品切れで入手できなかった。

講義のときに発行元のことも聞いていたので、当時、大阪市内に勤めていた現在の身元保証人に頼んで版元の青泉社を直接訪ねてもらい、入手を試みることにした。
あいにく既に完売で、版元にも残っていなかった。その時、木村さんが直接対応してくださり、ご自身の本をしばらくお借りすることができた。

このエンリケ伝の著作がきっかけになって、木村さんとのお付き合いがはじまった。たしか1981年9月のことで、その夏に青泉社が新しいビルに移ってすぐのころだったと思う。

木村さんの著作は、その後も何年か探し続けて、たまたま立ち寄った日本橋筋の古本屋にあったのを見つけ、手に入れることができた。巻末には著作を青泉社から出版するに至った経緯、出版にかかった費用や定価の設定について細かく記されている。そのあたりは、いかにも木村さんらしい。

古書業界でこの本の流通数は多くないが、いまはネットで検索すれば、どこの古書店が在庫しているのか瞬時にわかる。以前に比べれば、ずっと容易に手に入れることができるようになった。価格もそんなに高騰していない。気になった方は入手しておくとよいだろう。
なお、近年、デジタル版として、平凡社から『大航海時代の創始者 航海者エンリケ Kindle版』が再版されている。

木村英造さんという希有な人物を深く知ることができたのは、エンリケ伝を紹介してくださった山口平四郎先生のおかげである。

淡水魚保護活動の旗手として

淡水魚の保護と環境に配慮した川づくりへの流れ

財団法人淡水魚保護協会は、淡水魚の保護とその生息環境の保全を目的として、1971年に木村さんが私財を投じて設立した財団法人である。淡水魚を扱った機関誌を含めて、類似する組織や団体は、あとにも先にもない。それほど独創性と専門性があった。木村さんは協会の設立から解散まで一貫して理事長を勤められた。

木村さんのいくつかの横顔のなかで、この淡水魚保護活動での顔が世間では一番よく知られている。淡水魚保護協会による長良川河口堰の建設反対運動、The New York Timesや英国のThe Timesへの意見広告の掲載を通じて、アメリカやイギリスの自然保護団体も知るところとなり、プレジデントであるMr. Eizou Kimura の名は世界的にも知られることとなった。

青泉社がビルに移ってからの協会の事務局はビルの最上階、急勾配の屋根の屋根裏部屋にあたる木村さんの執務室に置かれていた。
書店の入口で店の人に取り次いでもらい、右手にある狭い階段を昇って部屋にいくと、新聞や資料に目をとおしておられる木村さんの姿があった。部屋にはたくさんの資料が山と積まれてあり、奥にはホルマリン漬けにされた魚の標本も十数本並んでいた。
読み終えた新聞をそのままポトリと床の上に落して、部屋が散らかるのを気にとめず、次の資料を手に取られる一連の仕草が印象に残っている。仕事の切りがいいときは、近くの地下街にある喫茶店にでかけてコーヒーや紅茶をごちそうになったりした。

昭和から平成に変わろうとしていた1988年ごろ、協会の機関誌は学術色の濃くなった『淡水魚』から、保護活動に役立つ実践的な情報に重きを置いた『淡水魚保護』へシフトしていた。ちょうどそのころ、自分はリバーフロント整備センターにいらした関正和さんらの元で愛媛県五十崎(いかざき)町を流れる小田川の仕事をしていた。

当時、小田川では県によってコンクリートの護岸による均質的な河川改修が進められようとしていた。その工事に疑問を抱いていた地元の市民団体「まちづくりシンポの会」の人たちは理想の川づくりを求めてスイスに赴き、クリスチャン・ゲルディさんらが提唱し、実践していた自然環境に配慮した工法を見いだした。
反対運動よりも代替案を示して解決を図ろうという発想だった。新しい工法の国内への導入を図るため、1988年秋にはゲルディさんを招いたシンポジウムも五十崎で開催された。

県と地元住民の間で合意が形成できずに膠着していた小田川の河川改修は、外からの風を得て動き出した。愛媛大学の水野先生(魚類)や鈴木先生(河川工学)、柏谷先生(都市計画)などからご指導を得ながら、スイスの新しい考え方や日本の川にあった河川伝統工法を試験的に取り入れ、県が描いていた元の計画の見直しを図ることになった。
整備計画案の検討作業をしている過程で、渓流釣りで身についた川や魚の知識が河川改修にとても役立つこと、スイスから輸入されたばかりの「近自然工法」と日本各地で継承されてきた「河川伝統工法」との間には多くの共通点があることに気づいた。

淡水魚保護協会の会員ではなかったが、木村さんの事務所には青泉社に本を買いに行った時や、イワナ釣りの話をするためにときどきお邪魔していた。そんな折、五十崎でもらった福留脩文さんらによって翻訳された「近自然工法」の資料を持参して、木村さんにご説明したところ、とても興味を示された。木村さんは、さっそく福留さんらに『淡水魚保護』2号への原稿を依頼しておられた。
福留さんの報文は2号に掲載され、たいへん好評だったと木村さんも嬉しそうに話しておられた。淡水魚のために役立つと判断した時の木村さんの行動は、餌を見つけて全速で泳ぐ渓流魚のように素早いものだった。
福留さんの報文は、その後、終巻の5号まで計4度にわたって掲載された。

今にして思えば、木村さんには「近自然工法」だけでなく、関正和さんをご紹介しておくべきであった。関さんは建設省の官僚だった人だが、自然豊かで美しい川づくりを情熱をもって進めた河川技術者だった。小田川と滋賀県の川での仕事をご一緒したあと、本省に戻られて初代の河川環境対策室長として精力的に動いておられた。しかし、ほどなく病に侵されてしまう。

1994年5月にNHKラジオでオンエアされた川への思いを語った番組「ラジオ談話室-川の流れは国の流れ」や、同年10月に刊行された『大地の川』と『天空の川』がマスコミでも大きく取りあげられた。木村さんもおそらくご存知だったと思うが、関さんがお元気なうちにお知らせしておけばよかった。木村さんとはまったく別の立場だが、川のことをいつも気にかけ、立場や考えが異なる人の話もきちんと聞き、対話や解決策を提案できる方だった。

淡水魚保護協会の活動が残したもの

1993年3月、淡水魚保護協会は活動を終え、翌年2月には登記上の手続きを完了して解散した。
設立から解散までの23年間に淡水魚保護協会が残した成果や業績は枚挙にいとまがない。なかでも、機関誌『淡水魚』・『淡水魚保護』の発行を通じて淡水魚にかかわる情報の共有を図り、所属や立場を越えた人的ネットワークの構築に貢献したのは大きな功績である。
また、農水省による島根県中海の干拓事業を中止に追い込んだことや、建設省が進めていた長良川河口堰建設の反対運動によって大型公共土木事業のありかたを社会的・広域的な問題としてとらえ、事業の拠りどころや是非を問い直したことは正しく評価されるべきである。

河口堰の建設事業そのものは政治や政治家との絡みも強く、反対運動だけでは中止させるまでには至らなかった。しかし、環境問題として捉えた外部からの活動は、明治以降、揺るぎない信念のもとに治水事業を担ってきた頑迷固陋の河川管理者に衝撃を与えた。人命や財産を災害から守るために築いてきた論理が通用しなくなったのである。

1997年には河川法が大きく改正され、「環境」が河川管理の目的のひとつとして位置づけられた。このように河川管理の在り方を見直すことになった背景には、河川管理者自身の反省だけでなく、淡水魚保護協会の活動や河口堰反対の市民運動も関係している。

長良川河口堰は、1995年にゲートが閉じられた。堰の運用が始ってまもなく四半世紀を迎える。事業者・推進派・反対派、それぞれの立場で主張や思いがあったであろう。関係した人々の記憶が確かなうちに、長良川河口堰建設の是非を巡る一連のことがらについて、時間軸からの評価を加えた検証が必要な時期が来ていると思う。

二つの大震災を経験した現在、想定される大きな地震や増大する自然災害に備えるため、政府による「国土強靱化」のかけ声のもと、大型の公共事業が増えている。本当に必要なものはつくらなければならない。しかし、同じ過ちを繰り返すのは愚かなことである。経験に即して言えば、とくに一部の政治家、いわゆる政治屋の利権がらみの公共事業の誘導や私物化には注意する必要がある。河口堰の教訓が人々から忘れ去られるまえにきちんと整理しておくべきであろう。

ところで木村さんは、ご自身の言動によって獲得できた成果に関して、ご自分の果たした役割をはっきりと主張される方であった。そうしておかないと、どこの誰かが横から出てきて、獲物だけかっさらっていく不届きな輩がいるんだ。個人が組織を相手にするときは、手柄を横取りされないよう、とくに注意しないといけないとよく話しておられた。

協会の活動履歴や成果は、木村さんの手によって機関誌の『淡水魚』1~13号、『淡水魚』増刊2冊、『淡水魚』別冊2冊、『淡水魚保護』1~5号、『淡水魚保護協会総合事業報告』などに詳しく取りまとめられている。いずれも資料的価値は非常に高い。

近年、志のある方によって、木村さんの許諾を得て『淡水魚』と『淡水魚保護』の各号がデジタルデータ化された。デジタルデータを公開することに関しても、事前に木村さんから許諾が得られているそうで、一部が試験刊行されている。所定の手続きを踏めば各号をデジタルデータで閲覧することができるようだ。詳しくはこちらのサイトを参照して欲しい。
●『淡水魚』『淡水魚保護』および特集号の電子書籍化に関して
http://dream4ever.air-nifty.com/top/

また、こちらには、デジタル化に際しての木村さんの巻頭言も掲載されている。新しい読者を得て、きっと喜んでおられることだろう。
●『淡水魚』『淡水魚保護』および特集号の電子書籍化に関して 巻頭言
回想-序に代えて 木村英造

イタセンパラ復活への夢

晩年の木村さんが、ひときわ情熱を注いでおられた淡水魚保護に関する活動は、淀川の下流に生息していたイタセンパラを復活させることだった。「イタセンパラのいない川は、淀川ではない」とまで言い切っておられた。

城北ワンドイタセンバラがすみかとしていた城北ワンド【2007年撮影】

淀川下流の毛馬の北側に本流の流れを堰き止める淀川大堰ができた。大堰のことは、この『大阪のこと』の「毛馬の閘門」でも少しふれている。

淀川大堰の設置目的は、治水や利水、旧淀川へ維持流量を流すためである。大堰のゲート操作によって、淀川大堰から枚方(ひらかた)にかけての水域では水位が上昇し、一日のうち約半分がダム湖のような流れのない状態になってしまった。
イタセンバラが絶滅に至った原因のひとつは、すみかであった城北ワンドを含めた一帯の水位や流れなどの生息環境を大きく改変してしまったことである。

淀川の工事実施基本計画が1971年に改訂された時や、1983年にできた淀川大堰の諸元や運用方法を定めた時、河川管理は大改正以前の河川法に則って行なわれていた。ワンドをすみかとする小魚や二枚貝のことなどは、考慮の外に置かれていたはずである。当時の河川管理にとって自然環境の保全は河川法での明確な位置づけもなく、治水や利水に比べて重要度の低い事項と捉えられていた。
水辺の動植物や魚介類への配慮を欠いたまま、改修計画や堰などの工作物をつくってしまったのだから、与えたダメージも大きかった。

治水や利水に関わる事項は、さまざまな制約や歴史的な経緯があり、しかも権利関係などが複雑に入り組んでいる。どれもこれもややこしい話ばかりである。
木村さんの思いを具体化するためには、過去の河川管理によって失われてしまったワンド周辺の生息環境を再構築しなければならない。けれども一度失われた河川環境の復活への道は容易ではない。
治水や利水との調和・調整を図りながらポイントを整理し、道筋をたてて、できることから順に実行していく。言葉にすれば簡単だが、普通の河川管理者なら係わることすら躊躇するやっかいな仕事だと思う。

淡水魚保護協会の解散後、木村さんは長良川河口堰の反対運動から手を引いて、しばらく沈黙を守っておられた。その後、2000年に『淡水魚の窓』と題したサイトを設けて、インターネットをつかった淡水魚保護に関する情報発信を再開された。じっとしておられなかったのだろう。

サイトには木村さんにとって長年、懸案となっていたイタセンパラの復活やアユモドキの保護に関する問題提起、解決の道筋や提案などが記されていた。あいにくサイトが置かれていたISPのサーバーサービスが終了してしまい、現在、サイトにアクセスすることはできない。

『淡水魚の窓』木村さんから郵便でいただいたウェブ『淡水魚の窓』の案内

幸いにも『淡水魚の窓』に掲載されていたことがらの多くは、2007年に刊行された最後の著作『淀川のシンボルフィシュ イタセンパラ』に資料として収録されている。

長らく大阪から離れているので詳しいことは承知していないが、新しい河川法のもとで策定された河川整備計画に基づくワンド周辺の環境管理が順調に進んでいるのならば、現在、淀川ではいくつかの試案を実行する段階にきているはずだと思う。

イタセンパラを復活させ、定着させるためには、マニュアルどおりにやればいいといった、やっつけ仕事ではたぶん失敗する。河川と河川環境をよく知り、自然環境の保全や復元に熱意をもった河川管理者と、木村さんの遺志を継いだ淡水魚の研究者や愛好家の協同作業が不可欠である。

河川行政を担う河川管理者には、優れた能力と識見を備えた人が大勢いる。だが、組織体としての行政機関は、往々にして楽な方、無難な方に流れがちである。
とくに河川管理の現場を担当する出先機関では、職員数に比べて業務量が多い。前例のない案件やマニュアル化できない案件は面倒だし、各種調整にも手間を要するので、そうした傾向が強くなるのかもしれない。

木村さん自身も『淡水魚保護』の最終号や最後の著作のなかで具体例を掲げて書いておられるが、河川管理者にはいろんなタイプの人がいる。優秀な人材も多いので、河川環境に理解があり熱心な人が着任すれば一定のレベルに到達する。だが数年経って軌道に乗ったころ、人事異動があり別の人と交代してしまう。新たに着任した人が前任者の思いや到達点を正しく理解し、きちんと継承しなければ元の木阿弥である。

健全な川には滞りなく水が流れているように、河川管理も遠くのゴールを見通しながら一貫性をもって進めることが重要である。途中で河道閉塞が生じて流れが滞ったり、モグラが堤防に穴をあけて水が漏れたりしないよう、木村さんのような私利私欲のない人の目が必要なのである。

木村さんのご先祖は、江戸時代、京の角倉家と並ぶ淀川奉行の役人だったという。近年の河川環境整備によって見た目は小綺麗になっても、流れるという川の本質が失われてしまったままの淀川が気になって気になって仕方がなかったのだろう。
木村さんが最後の著作のあとがきに書き残された言葉を引用してこの項を終えることとする。
「いるとうるさくて困る。しかしいなくなるともっと困る。そういう人間でありたいと願ってきた。その望みがかなえられるとよいのだが・・・・・・」

渓流釣りを愛する紀村落釣として

『航海者エンリケ伝』を通じて木村さんを知ったちょうどそのころ、沢登りのついでに始めた渓流釣りにはまっていた。南アルプス赤石沢、黒部川上ノ廊下、裾花川本谷など難易度の高い谷の遡行も面白かったが、京大演習林の由良川源流で自己流で始めた渓流釣りは、渓谷遡行とは別の面白さがあった。

2作目の卒論は「イワナの地理的分布域と形態的な特徴」をテーマに選びサンプルを集めていた。平日は琵琶湖に流入する河川のうち、石田川など湖西から湖北にかけての源流部に通い、週末は山岳部の先輩や後輩とイワナやヤマメを追い求めて、滋賀や福井から石川、富山、岐阜、長野、新潟へとあちこちの谷に入っていた。鈍くさいことに黒部川奥の廊下でサンプルのイワナ釣をしていたときに転けてケガをしたため、論文は未完のままに終わったが、尺イワナは頸城と五箇山で2匹釣り上げることができた。
そんなこともあり、木村さんが理事長をしておられた淡水魚保護協会や機関誌『淡水魚』のこと、渓流釣り師としての紀村落釣さんを知ることになった。もちろん『淡水魚』増刊のイワナ特集は、存在を知ってすぐに買い求めた。

経営者として、あるいは淡水魚保護活動の際の木村さんは、時には難しい顔をしたり、あるいは鼻息が荒くなった時があっただろう。いっぽう、渓流釣り師としての紀村落釣さんは、終始にこやかな顔で竿を手にしておられたに違いない。

木村さんが渓流釣りに最ものめり込んでおられたのは、たぶん1960年代から70年代にかけてのことであろう。釣行の実際の様子は、紀村落釣のペンネームで書かれた『愛をもて 渓魚を語れ』にまとめられている。この本は、1972年に淡水魚保護協会から初版が発行され、1977年の改訂版を経て、1996年には平凡ライブラリーから新書判が刊行されている。書肆青泉社を経営されていた木村さんが望んだ息の長い読み継がれる本となった。
また、1963年の釣りの雑誌に掲載された釣行の記録「京大演習林探索紀行(ゆらがわげんりゅうあまごつりきこう)」の復刻版を公開したノータリン倶楽部50周年のサイトもある。

紀村落釣著『愛をもて 渓魚を語れ』紀村落釣 著『愛をもて 渓魚を語れ』淡水魚保護協会、1972年刊
カバーの題字は今西錦司先生

当時は、山も渓魚のいた谷も今ほど荒れてなく、緑も魚影も濃かったであろう。ノータリン倶楽部と称したユニークな同好の士に恵まれ、さぞかし楽しい釣行を満喫されたに違いない。
けれども1970年代に入ると林道建設による源流域の開発や砂防堰堤の工事が進んだ。年々荒れていく山河を目のあたりにして、渓流釣りから保護活動にシフトされていったのかもしれない、

ところで、川釣りの愛好者と一口に言っても、さまざまなタイプの釣り人がいる。下流でコイやフナを狙っている人や中流あたりでアユを追っている釣り人と、山深い渓流に分け入ってヤマメやアマゴ、イワナを追う渓流(たに)師と呼ばれる人々とは、同じ川釣り愛好者でもまったく別の人種である。

最近のアユ釣りは釣果を競うスポーツのような様相を呈していたり、獲物を自分で食べずに飲食店などに売り捌いたりするなど職漁師のまねごとのような状況になっている。勝ち負けや金が絡むので、いきおい釣り人の目も血走ってくる。
それに比べると、渓流釣りには釣果だけでなく、山深い谷の雰囲気や景色を楽しむ情趣や余裕が残っている。クルマで何時間もかけて目星をつけた谷にたどり着き、竿を手に一日沢を詰めても釣果がゼロというケースも多い。自ずと運や諦めも肝心だと思うように鍛えられるし、経済的にも割の合わない趣味の世界のことなので、釣り人もあまり脂ぎっていない。
例外の人もいるだろうが、目当ての魚種と釣り人との相関はおおむねそんな傾向にあると思う。

渓流師をさらに細分すると、源流でイワナを狙う人と、上流のヤマメやアマゴを狙う人にわかれる。両者では釣り場の雰囲気や難易度も異なるが、どちらを選ぶかの多くは好みの問題である。
木村さんは『淡水魚 増刊イワナ特集』のなかで、ご自身はイワナ師だと書いておられた。場所にもよるが、広い谷間で颯爽と竿を振るヤマメ釣りは優美である。ただし、当たりを感じたら俊敏に反応しなければならない。それに比べると、提灯のような仕掛けの竿を手に、草藪や蜘蛛の巣をかいくぐって進むイワナ釣りはあまり格好良くはない。ただし釣るのは比較的簡単で、慌てずに三つ数えて合わせれば獲物を手にすることができる。
このようなヤマメ釣りとイワナ釣りの違いから、ヤマメ師のようにスマートではなく、器用でもないということを自嘲しておられたのではなかろうか。

長良川河口堰の問題が泥沼化する前、1980年代の前半に数回だけだが釣りやキノコ採りをご一緒したことがある。
当時、木村さんは還暦を少し過ぎていたが、鮮やかなブルーのフォルクスワーゲン(甲虫)に乗っておられた。有峰の林道で崖崩れに閉じ込められたとき、ヘリコプターで吊り上げて救出した愛車「ネコバン号」と同じメーカーの車である。内装をジーンズ風の生地で仕立てたお洒落なクルマで、たしか若者をターゲットにした特別仕様車だったはずである。

落釣ワーゲン落釣さんのワーゲン 岡山県にて【1984年撮影】

外観はきれいなクルマだったが、車内、とくにドアのない後席は、なんというかゴミ箱状態!だった。道中の車内ででたゴミはポイッとシートの後に投げ捨てる。なのでリアシートやその足元は、古新聞やらうちわやら中華鍋やら焼酎の瓶やら食料品やら衣類やら胴長やら、釣行で必要な道具や食料品とほんとうのゴミとが混載状態だった。
でも、ある意味合理的で、週末ごとに釣りに出かけるなら、いちいち準備したり掃除したりしなくて済む。「あっ、こういうクルマの使い方もありなんだな」と気づかされた。

3人とガラクタを満載したワーゲンは、中国山地の懐に向かう曲がりくねった坂道を水平対向エンジン独特の排気音をなびかせ快調に走った。木村さんおひとりに運転を任せるのは申し訳ないので、途中から運転を代わった。
落釣ワーゲンは持ち主に似て、見た目以上によく走りタフだった。しかも運転していて楽しいクルマだった。

別の釣行のときだが、うちの身元保証人が木村さんと協会のSさんの3人で鳥取の来見野川にゴギやニジマスを求めて出かけたときのことである。ずっと木村さんひとりに運転させたため、信号を識別できないほど疲れ切ってしまい、まともな運転ができなくなった。そんな落釣さんをワーゲンごと鳥取駅前のホテルに放り込んで、自分たちは国鉄の特急で帰ってきたという。木村さんしか免許を持っていなかったというものの、ずいぶん乱暴なことをしたものだ。

話を元の岡山の釣行に戻すが、そのときの目的地はアマゴのすむ川だった。春先で河畔には残雪が少し残っており、水温もまだ冷たかった。奮発して普段つかわない高価なブドウ虫をつけたが、食いはよくなかった。少し場所を変えたり間を置いても同じだった。
木村さんはといえば、潔く切り上げてワーゲンを停めた林道の地べたに寝ころび、飯盒でお米から白かゆを炊いておられた。炊きあがると持ってきたタラコをおかずにして美味そうに食べておられた。

地べたでくつろぐ落釣さん釣りを切り上げ林道に寝そべってくつろぐ落釣さん【1984年撮影】

秋に泊まりがけで芦生の京大演習林にキノコとりに行った時も、やはり同じような感じだった。山に入って気分転換をしておられたのだろう。
釣り人としての木村さんの印象をひとことで言うと、育ちの良さが漂う「品のいい渓流師」だった。

木村さんの人となりについては、上野敏彦さんが綿密な面談と取材を重ねて著作『木村英造 淡水魚にかける夢』にまとめておられる。普通の人の何倍も波瀾に富んだ半生が、系統立ててわかりやすく書かれている。
上野さんの著作が上梓されたあとで木村さんにお会いしたが、ご本人もたいへん満足しておられた。木村英造という希有な人物に少しでも興味を持たれた方は、一読されることをお勧めする。

『木村英造 淡水魚にかける夢』』上野敏彦 著『木村英造 淡水魚にかける夢』平凡社、2003年刊

大阪からは青泉社のようないい書店もなくなり、木村さんのように独立在野の精神に富み、私利私欲のない大阪人も少なくなってしまった。どちらも、もともと希有な存在であっただけに、もはや絶滅種と絶滅危惧種である。
ゆかりの地である堂島と淀川にレンガと花崗岩で顕彰の碑を建てて、青泉社と木村さんのことを石に刻んででも未来の大阪人に伝えていかねばならない。


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