高橋和巳と大阪
高橋和巳【1931ー1971】は、1960年代から’70年代にかけての混迷の時代にあって、苦悩教の教祖として一世を風靡した思想家・作家である。
もともとは中国古典文学の研究者であり、吉川幸次郎門下の秘蔵っ子として、将来を嘱望された有能な学究の人だった。早くから頭角を現し、大学院博士課程の在籍中に手がけた中國詩人選集第15巻『李商隠』などの著作が刊行されている。
癌で早世したこと、作家としての活動期間が短かったことに加え、没後、時代や社会状況、価値観などが変わり、今では世間からすっかり忘れ去られてしまった感がある。
高橋和巳は、1931年、大阪市浪速区貝柄町で生まれた。現在は別の町名に変わっているが、新世界や今宮戎に近い下町である。空襲で生家周辺は焼け野原となり、疎開先の香川、大阪、松江、京都、吹田、鎌倉などで暮らしている。没したのは療養先の都内の病院であるが、大阪とは縁の深い人物だった。
長編小説『邪宗門』の最後には、主人公の千葉潔、行徳阿貴ら「ひのもと救霊会」のメンバーが生家に近い西成の釜ヶ﨑(あいりん地区)で活動するシーンの描写がある。『邪宗門』は高橋和巳の最高傑作である。制作過程を間近で目撃し、すべての原稿の清書をした妻の高橋和子がそう言っているので間違いない。
高橋は、岡本和子と結婚後、京大の大学院博士課程に在籍しながら、布施市立日新高校の定時制の講師を勤めていた。そのころは勤務先に近い布施に住んでいた。1955年に日新高校を辞め、京都市北区等持院にある和子夫人の実家に身を寄せて作家としての活動をはじめている。
このころから1959年4月に立命館大学文学部の非常勤講師の職につくまでの数年間、高橋和巳は作家になるという強い信念のもと、働かずに執筆活動に専念している。その間は和子さんが通訳や家庭教師、外国人観光客のガイドなどで生計を支えていた。
1958年の初夏、等持院から大阪府吹田市の垂水に引っ越している。次項でふれる大阪府営の豊津アパートである。
1958(昭和33)年6月、『捨子物語』を足立書房から自費出版したものの、文壇からの反響はほとんどなかったという。それでも高橋は豊津のアパートに籠って執筆活動を続け、和子は生計を支え続けた。
やがて二人の思いは結実する。1962(昭和37)年10月、デビュー作となる『悲の器』で第1回文藝賞を受賞することになる。
高橋はのちに立命館の講師となる。任用は白川静教授の強い推薦によるもので、採用後は豊津のアパートから広小路学舎に通っていた。豊津から広小路へは、淡路や河原町で乗り換えをしなければならず、片道1時間以上もかかる。京都に居を移さなかったのは、高橋がこの豊津のアパートが気に入っていたからに違いない。
住んでいた豊津のアパート

1971年の没後、文芸雑誌に追悼特集が組まれたり、文学界からは早世を悼む追悼論集などが刊行された。
それらのなかで印象に残っている一文がある。
それは、のちに作家となった妻和子、高橋たか子【1932-2013】の『高橋和巳の思い出』(構想社、1977年刊)に収められている「住んでいたアパート」と題されたエッセイである。この構想社という出版社は、河出書房新社で長年、高橋和巳の担当編集者だった坂本一亀氏が独立してつくった出版社である。余談になるが、坂本氏の子息は、世界的に有名なミュージシャンである。
「住んでいたアパート」の内容は、高橋の作品について言及したものではなく、タイトルのとおりまだ無名のころの豊津でのアパート暮らしの思い出をつづったものである。
エッセイは、所用で新大阪から千里中央に向かう地下鉄御堂筋線・北大阪急行の車窓から、千里山丘陵の高台にあるかつて住んでいた鉄筋コンクリートのアパートを見つけたことからはじまる。
北大阪急行の車窓から見た豊津アパート【2020年 撮影】
「住んでいたアパート」の執筆から40年以上が経過した現在、垂水神社の社叢でもある段丘崖付近の樹木が成長し、建物は隠れてしまった。かろうじてアパートの屋上にあるいくつかの塔屋だけが、樹冠のうえに姿をのぞかせている。
豊津アパートに高橋夫妻が住んでいたのは、1958(昭和33)年の初夏から、鎌倉に移り住む1965(昭和40)年9月までの7年あまりだった。このアパートは、二人が一番長く住んでいた場所だという。(注:『文芸』7月号臨時増刊 高橋和己追悼号の年譜では、1956(昭和31)年に入居したと記されているが、たぶん1958年の間違いであろう)
高橋夫妻の住んでいた豊津アパートは、大阪府によって1951(昭和26)年に建てられている。戦後の住宅難を解消するために各地の自治体が建てた比較的、規模の小さい団地のひとつである。建物は鉄筋コンクリートの4階建てで、のちの高度成長期に住宅公団によって各地の大規模団地で建てられた5階建ての集合住宅ほどモダンな外観ではない。しかし、建設当時は最新の住宅設備を取り入れた先進的な集合住宅だったに違いない。

豊津アパートは半世紀以上もの風雨に耐え、いまでも建設当時とあまり変わらぬシルエットで建っている。
アパートは小高い丘のうえに東西方向に2棟並んでいる。まだベランダのない時代の団地だが、南側には遮る建物がなく日当たりも良い。眺望も申し分なく、敷地の一角に佇めば高橋が好んだ生駒の山並みが手に取るように見える。
エッセイによれば、最初は1階に入居し、しばらくしてから大阪平野を見渡せる3階に引っ越したという。調べてみると最初に入ったのは1棟だとわかったが、3階に越してからはどちらの棟に住んでいたのかは、よくわからない。
部屋の間取りは2LDKだった。2LDKといっても現在のマンションのそれよりもずっとコンパクトである。大阪府の資料によれば、専有面積は約32~38平米となっている。和室の6畳と4畳半、3畳ほどの板間と台所がついた当時としては先進的なつくりである。
高橋和巳は北向きの板間を書斎代わりにつかっていたという。年譜からみて、長編小説『邪宗門』の前半はこのアパートの板間で書かれたものであろう。
風呂は、アパートの同じ階段に面した8軒で使用する共同風呂だった。建物の正面から見ると、1階の階段の左側にある住戸だけ窓の配置が他の住戸と異なっている。各階段の1階左側には8戸で利用する共同風呂が設けられていたのだろう。

アパートの建物は古いが、窓のサッシや水回りなどの配管設備は更新されている。幾度か営繕の手が入っている様子が窺える。どうやら室内は間取りを含めて、今風にリノベーションされているようだ。
2018年に再訪した時、階段ごとに設けられていた共同風呂はまだ残っていた。入口には「共同浴場」というプレートが掲げられ、狭い浴室だがきれいに使われていた。今はステンレス製の浴槽だが、高橋夫妻がここに住んでいたころは、木製かタイル張りの浴槽だったはずである。また、リノベーションされた住戸では、普通の団地と同じようにユニットバスがつけられているようだ。

いつの時代でも売れない作家は貧乏である。月末に牛乳屋や酒屋の集金人が来るとよく居留守を使ったこと、いつまでもドアを叩いて帰らないので玄関に出て行って「金がない」と言ったことが書かれている。人前でそのように言っても平気だったのは、「金がないのは少しも恥ではない」と2人が考えていたからだという。
駅に降りる砂地の小径
アパートの周辺は、邸宅が並ぶ高級住宅地である。日常の買い物などは丘の下を東西に通る旧街道に沿いにある市場や豊津駅付近の商店に出かけなければならない。高橋たか子のエッセイによれば、アパートから丘を下って駅へのルートは三つあったという。
ひとつは坂道を下り千里山から降りてきた道路に沿って大回りするルート、もう一つは坂道をくだった所から舗装されていない小径を抜ける近道のルートである。さらに、坂を下って川を横断してクランク状に折れ曲がった細い裏道を抜けて、垂水郵便局の角にでるルートもあった。
この近道のルートを歩くと、「どういうわけか砂地で、一歩ごとに靴が埋まって歩きにくいのである」という描写がある。
このあたりの丘陵は、地形分類上は洪積台地である。通常ならば地質は堆積した砂礫質ではなく、千里の他の丘陵地と同じく粘土質である。ここに砂がたまっているのは、地形や地質からみて明らかに異質である。作家の感性は鋭いというか、高橋たか子は面白い点に気づく人だなと思った。
上の川の旧河道
高橋夫妻が住んでいたアパートから駅に降りる経路を古い地形図で調べてみると、砂地だった理由がすぐわかった。なるほど、ここは足にまとわりつくほどの砂が堆積していても不思議ではない。

A:上の川の新旧河道分派点、B:旧河道(天井川)の川底を抜けるトンネル
これは1952(昭和27)年に修正測量された古い地形図である。前年に完成したばかりの豊津アパートの2棟の建物もはっきりと描かれている。
地形図には、阪急千里山線の旧花壇前駅方面から線路の西側に沿って南へ流れている川が描かれている。この小さな川は「上の川」という名で、阪急千里山駅周辺の丘陵地を源流としている。
上の川に普段、流れはほとんどないが、千里の丘陵地から沖積平野に流れ下る区間であるため勾配は急である。強い雨が降った直後の上の川は、なかなか荒々しい様相をみせる。

阪急の線路に沿って流れてきた上の川は、上に掲げた地形図が測量された昭和27年の時点で、線路の西側にある大きな池(垂水上池)の東側で2筋に分かれていた。ひとつは線路伝いに豊津駅の南へ流れる新しい河道、もうひとつは天井川を形成して池から真っ直ぐに南下する旧河道である。
上の川の新しい河道は、豊津駅の南で山手町方面から流れてきた川と合流して糸田川と名前をかえ、南西に流れて神崎川に注いでいる。
地形図がつくられた当時、川の流れは線路沿いの新しい河道に切り替えられている。旧河道にはすでに水が流れていないようだが、流れによって運ばれてきた砂礫が堆積して、洪積台地と沖積平野との境界である垂水付近で天井川を形成していたことがわかる。
この天井川の区間で上の川は、服部方面と豊津・吹田方面とを結ぶ東西の旧街道と直交している。その交差する箇所には、天井川の川底を抜ける短いトンネルが掘られていた。
さらに古い大正12年測量の古い地形図をみると、上の川は天井川のままで、まだ新しい河道は描かれていない。おそらく天井川だったころに、旧河道から溢れ出た洪水で豊津駅一帯が浸水被害を被ったことがあったのであろう。水害の再発を防ぐために、昭和の初めから昭和20年代半ばまでの間に新しい河道が掘られ、河道の位置がすげ替えられたのだと思う。(改修時期が判明したので文末の補遺に追記した)
水の流れなくなった旧河道は、廃川後もしばらくの間そのまま放置され、エッセイに書かれているように近隣に住む人たちの通路として利用されていたようである。河道付近には運ばれてきた砂礫がたまっていたので、歩くと砂が足に纏わりついたのだと思う。
その後、旧河道の跡は、豊津駅付近の都市化の進展にともなって平坦化され、道路用地になったり、民間に払い下げられて住宅や商店などが建てられている。2010年ごろまでは、天井川の土手の一部や河畔に生育していたエノキが残っていた。現在では、天井川の下を抜けるトンネルがあった所の北側に、かつての川土手の面影がわずかに残るだけである。なお、府道145号の北側に面したマンションの擁壁上部には、上の川の流路跡を模したモニュメントが設置されている。

地形図のB地点付近【2018年 撮影】
現在、府営豊津アパートには2棟あわせて約60戸ほどが入居している。高橋夫妻がここで暮らしていたころから既に半世紀が経過している。賃貸住宅なので住民は流動的である。仮に10年ずつ住んだとして、半世紀の間に5組ほど入れ替わっていることになる。
現在の住民のなかで、かつてこのアパートに無名時代の高橋和巳という作家が住んでいたこと、のちに作家高橋たか子となる妻和子が日々の買い物に出かけるときの近道に、上の川の旧河道にたまった砂に足元をとられながら歩いていたことを知っている人はおそらく何人もいないであろう。
【補 遺】2019/03/06追記
天井川だった上の川の改修について、後日ネットで調べたところ、宮﨑信隆氏の『NOBUSAN BLOG』の記事から次の事項が把握できた。
(http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-341.html)
・洪水は数度に及んだが、とくに昭和15年7月の豪雨による洪水では、垂水地区周辺で450戸が床上浸水する被害が発生した。
・昭和15年の水害を契機に、昭和16~17年度に河道付け替えの改修工事が行なわれた。
・豊津駅前の交番敷地内に改修工事の「記念碑」が建立されている。
■制作メモ
・2018/11/10:現況の写真4点を追加
・2019/01/25:増水時の上の川の写真を追加
・2019/03/06:上の川改修についての補遺を追記
・2020/09/03:北大阪急行の車窓から見た豊津アパートの写真を追加
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