父が撮った写真をしまっている紙箱のなかに、開通した直後の名神高速道路の様子を撮影したフィルムがあった。以前、試しに一部をスキャンしてみたが、劣化や傷がひどくて、とても見られたものではなかった。元のネガ袋に戻し、そのままずっと放置していた。
今回、新型コロナの緊急事態宣言下の外出自粛要請によって、少し時間ができた。暇つぶしを兼ねて、再度フィルムスキャンと画像ソフトで傷消しを試みてみた。
いちおうひどい傷は修正したものの、ピンホールや小傷をすべて消すには時間が幾らあっても足りない。お見せするにはまだまだ不十分な代物であるが、半世紀以上前のフィルムを箱のなかにしまい込んでいてもフィルムベースの劣化が進むばかりである。
修正が不完全なことは承知しているが、暫定状態のままで公開することにした。そんなわけで、ここに掲げた画像にお見苦しい点が多々あるのはお許しいただきたい。
なお、写真を撮影した正確な日付は不明であるが、おそらく1963年7~9月ごろだと推定している。
高槻の直線区間

愛知県小牧ICと兵庫県西宮ICを結ぶ名神高速道路は、日本で初めてつくられた高速道路である。1963(昭和38)年7月16日、全区間189.5㎞のうち、栗東IC~尼崎ICの71.7kmが部分開通した。
小牧~栗東間など全線の開通が2年ほど遅くなったのは、建設資金の調達に手間取ったことや、米原や大垣付近の軟弱地盤を通る区間の建設工事が難航したためだとされている。
当時の日本には高速道路のノウハウがなかった。そこで名神の設計や建設は、ドイツのアウトバーンやアメリカのターンパイクを手本にして進められた。そのため名神には、今ではいささか古典的な線形ともいえる長い直線区間が何箇所か見うけられる。
上に掲げたのは高槻付近にある直線区間で、長さは約2.8㎞もある。直線区間の縦断形は、下り坂と上り坂が続く\/形をしている。標高がほぼ同じ高さの両端の丘陵を結ぶと水平な直線だが、高低差のある道路面は「たるみ」となるので、「サグ(sag)」とも呼ばれているようだ。
撮影地点は、芥川の東側に位置する緑ヶ丘という丘の上で、名神をまたいで架けられている人道橋の上から西の茨木方向を向いて撮っている。
この付近の名神は、北から南へ流れる芥川が形成した河岸段丘を東から西へ一直線に横断するルートで建設された。松林のある東側の丘陵地を下り、西側の丘陵地へと続く真っ直ぐに伸びる広い道路は、それまでの日本になかったハイウェイというものを強烈に印象づけた。この景色はハイウェイ時代の幕開けを象徴するものとして話題になったはずである。
次の画像は、レンズを望遠に替えて登坂区間を切り取ったものである。
高槻のサグの西側半分
中央分離帯には植樹され、当時は「グリーンベルト」と呼ばれていた。画像中央の少し先でグリーンベルトの途切れている区間は、芥川をまたぐ橋の上である。
車線幅はお手本のアメリカと同じ12フィート(3.6m)で、片側2車線ずつ、上り線の登り区間には登坂車線(右下)も設けられている。
ちょうど坂の下あたりには路線バスの停留所も設置されている。バス・ストップ近くでボンネットをあけて停車している車が1台みえる。飛ばし過ぎてオーバーヒートしたのだろうか?
父は同じ場所から10カットほど撮影している。どのカットを見ても車の通行量はとても少ない。車が一番多く写ったカットでも、上下線あわせて10台程度である。
半世紀以上経過した現在の様子をGoogle のストリートビューで確認してみる。父が撮影した人道橋上からの画像はないが、下り線の走行車線からみた類似画像を示している。
何十倍にも増えた通行量に対応するために、車線は片側3車線に増えている。1車線の幅を捻出するため中央分離帯と路肩は狭められ、中央分離帯に植えられていた樹木は撤去されている。
なくなったグリーンベルトの代わりに遮光板が付けられ、車線の両側には騒音対策として遮音壁が設置されている。高いチューブ状の遮音壁に囲まれていて、眺望と開放感がなくなり、天井のないトンネル内を走っているかのような退屈な景色に変っている。
天王山トンネルと大山崎橋付近
天王山は大阪と京都の府境にある標高270mの山で、名神高速はこの山腹を1450mのトンネルで抜けている。天王山トンネルは、東の米原トンネルと並んで、名神の工事でも最も難航した箇所のひとつとして工事関係者に語り継がれている。
トンネル工事は1960年の秋から着手された。工法は掘り進んだ区間にアーチ型のコンクリートを巻たてる工法で、掘削が進むにつれて大きな問題が生じた。
トンネル掘削地点の地盤が悪く、湧水を吸って膨らんだ粘板岩が工事を妨げた。大きな地圧が支えの丸太をへし折ったり、鋼製のアーチを押し曲げ、掘ったばかりのトンネルを押しつぶそうとしたという。
工法を検討した結果、強い地圧の影響を緩和するためにコンクリートの巻きたてを二重に施す工法の採用など、当時の技術で可能だったありとあらゆる補助工法が投入された。後の時代、完成から35年後の拡幅工事の際に覆工を掘り返してみたら、コンクリートの厚みが1mを越えていたところも多かったことが判明した。
難工事の末、トンネルが完成したのは開通直前の1963年4月で、3年近い工期と約30億円の工費が投入された。

上り線の京都側のトンネル出口から2台の車が飛びだしてきた。坑口の斜面には、高い石積みが何段も組まれている。
先頭を走るのは、前年に発売されたばかりの二代目のクラウンである。助手席には日除の帽子を被った女性が乗っているので、商用車のバンではなくてステーションワゴンだと思われる。
すぐ後ろを追走しているのは、丸味をおびたボディの初代のダットサン・ブルーバードである。倍ほどある排気量の差をものともせず、ブルーバードが果敢に追い越しをかけはじめている。

次のカットでは2台の後追い姿を撮っている。大山崎橋のアーチを抜けた数百メートル先では、クラウンを追い越したブルーバードが先頭にたっていた。
この初代ブルーバード310型は1959年の発売で、名神が開通した1963年まで生産されていた。310型の当時の価格は、スタンダードでも50万円以上しており、大卒初任給の約40倍に相当する。小型車のブルーバードといえども、庶民にとってマイカーはまだまだ高嶺の花だった。

天王山トンネルのすぐ東側に架けられた大山崎橋は、朱色に塗られた鋼製のランガー橋(アーチ橋)である。上下線の2橋が横並びに架かっている様子は壮観で、たちまち名神のシンボル景観となった。
子どもの頃、観光バスに乗ってこの橋を通ると、必ずガイドから橋の説明や案内があった。車窓から見た景色も斬新でとても印象に残っている。
初期の高速道路では、高速で運転するドライバーへの視覚や心理面への影響に配慮して、橋の骨組みなどの構造物がチラチラと視野に入るアーチ橋やトラス橋を避けてきたという。木曽三川や野洲川、武庫川など大きな河川をまたぐ長い橋梁でも、アーチ橋やトラス橋は存在していない。大山崎橋は例外的な存在で、名神と交差する国鉄東海道本線と阪急京都線の線路をひと跨ぎにする必要からランガー橋が採用された。

いっぽう、こちらは下り線の天王山トンネル入口である。追い越し車線を単独で堂々と走り、トンネルに進入しようとしているのは、アメ車を思わせるデザインの車である。
だが、画像をよくみると右ハンドルの国産車だったので、調べてみて初代スカイラインだとわかった。
プリンスは当時の国産高級車メーカーで、初代スカイラインは1957年に発売されている。当時のカタログのキャッチコピーには、「ハイウェイ時代の高級乗用車」と記されている。ちなみに上位モデルのグロリアは「ハイウェイの王者」である。
写っているのは、たぶん1960年にマイナーチェンジされた後期のタイプであろう。
当時のカタログは、こちらのサイトで見ることができる。
https://s-kuruma.com/2018/12/17/prince-skyline1st/

このカットは、天王山の8合目あたりまで登り、そこから東側を見下ろしたシーンである。現在、第二名神と交差する大山崎JCTがあるあたりの様子が写っている。
バスストップの少し先で、国道171号が名神高速と立体交差している。
画像の上端、木の枝葉に半分隠れているが、名神に並走する白い帯状の構造物は、建設中の東海道新幹線の高架橋梁である。
この区間の名神の開通は1963年7月で、新幹線の開業は翌’64年10月である。新幹線の開業が約1年後に迫っている時期だが、まだ線路や電気工事に先立つ高架橋梁すらできていないのは驚くべきことである。このあと、オリンピック開幕に間に合わせるために、突貫工事が続いたのであろう。
千里山トンネル付近
千里山トンネルは、名神高速道路のトンネルのなかで一番西に位置している。
長さは508mで、関西大学の千里山キャンパスの下を東西に抜けている。
下り線の東半分は、側壁の続く完全なトンネル構造ではなく、雪国の道路で見うけられるスノーシェッドのようなコンクリート柱が並ぶセミオープン構造になっている。

下り線のトンネル入口付近を2台の乗用車が走っている。ヘッドライトが縦型4灯なので初代のセドリックであろう。

こちらは千里山トンネル西側の区間で、最高速度は80㎞に制限されている。
トンネルに向って上り線を行くのはスバル360、下り線をやって来るのはパブリカである。ともに当時の軽自動車や排気量の小さな車に採用されていた空冷エンジンを積んでいる。

こちらは上の写真よりもさらに西側で撮ったもので、千里山トンネル入口の約800m手前でゆるやかなカーブを描く区間の上下線の様子である。
上り線の追い越し車線を「ハイウェイの王者」二代目プリンス・グロリアが駆け抜けていく。その後ろを車間を保ちながら追尾しているのは、大阪府警名神高速道路交通機動警ら隊のパトカーである。まだ赤色灯はついていないようだが、王者に逃げ切られないように監視任務を遂行しているようだ。
パトカーには前年に発売されたばかりの二代目クラウンが採用されている。前方を行くハイウェイの王者とほぼ互角の高速性能を有しているはずだ。このまましばらく追尾して、何キロか先の高槻の直線区間で高性能を競い合うのだろう。
豊中インターチェンジ

最後にインターチェンジの様子として、豊中ICの料金所付近を写したカットを掲げておく。
豊中インターは、大阪市への玄関口として設置されたICで、現在は大阪府道10号と阪神高速池田線に接続している。1963年の名神開通時、阪神高速はまだ未開通だったが、将来の需要増に備えて多くの車の流れをスムーズに処理できる「ダブルトランペット型」という交差方法が採用された。
インターの形や周辺道路の状況は空中写真のほうがわかりやすいので、国土地理院の空中写真をあわせて掲げておく。撮影時期は、名神開通より3年ほど後の1966年である。

名神開通時、料金所の出入口はそれぞれ3レーンずつ設けられているが、まだ高速道路を利用する車は限られるのかして、開いている入口は1レーンのみである。
のちに名神と接続する阪神高速空港線(現在の池田線)は、この時点ではまだ開通していない。豊中ICは、大阪市内からだとちょっと足場の悪い場所にあるインターだった。

通行料金は、利用するIC間の距離に応じた対距離料金制で、車種ごとに定められていた。開通時の豊中IC~京都IC間の通行料は、小型乗用車が300円、普通乗用車が350円だった。開通時の通行券は縦長のパンチカード式で、入口でもらった通行券を出口料金所で係員に渡すと、読み取り機で機械処理をして精算した。パンチカード式の通行券は、1980年に横長の磁気カードが導入されるまで使用されたので、記憶にすみに残っている人もいるだろう。
ご覧いただいたように開通当初の名神高速道路は、のどかなハイウェイであった。交通渋滞もなく、速度違反を取り締まるオービスもなく、鬱陶しいあおり運転もなかった。
こんな閑散とした高速道路なら、高い料金を払ってでも利用する値打ちがあっただろう。
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