本稿のweb公開に際して
鉾流橋(ほこながしばし)は、中之島にある中央公会堂の北側を流れる堂島川に架かる橋である。天神祭の鉾流しの神事にちなんだ名が付いているが、そんなに古くからある橋ではない。
「鉾流橋」と題されたこの小稿は、父高木伸夫が、生前に郷土誌に寄稿した論考のひとつである。返却された文字原稿と写真原稿は手元にあるが、掲載誌の確認ができないため誌名などの詳細は不明である。
原稿用紙から推測すると、1980年前後に発行されたA誌の可能性が高い。掲載誌がわかり次第、追記することとする。
(1)縦書き用原稿の漢数字を、横書き用の算数字に改めた。
(2)年の記述を 元号(西暦)年 から 西暦(元号)年 へ改めた。
(3)あきらかな誤りを訂正し、意味の通じにくい箇所の段落や用語を校正した。
(4)時制の一部を執筆時の現在形から過去形に改めた。
鉾 流 橋
高木 伸夫
芦屋川のほとりにあった初代「鉾流橋」の親柱
阪神電車(本線)の芦屋駅から、芦屋川の右岸を北へ向かって行くと国道2号線をつなぐ業平橋の西詰に出る。
その手前、芦屋川沿いの通りに面した石積みで囲われた屋敷に、大正時代の堂島川に架けられた「鉾流橋」の親柱が一対、側溝に沿った格子の立垣の後に据えられていた。

1938(昭和13)年7月3日から5日にかけて、阪神地方は未曾有の大水害に襲われた。世相の移り変りいくなかで門口まで敷かれた石畳を、家族に送り迎えされて通った当主はむかし語りの人となった。

親柱は灯籠風の意匠で鉾流橋の文字が見える
その昔、鉾流崎と呼んだのは、今の難波橋のほとりだと云う。天神祭に神鉾を流し、それが流れ着いたところを御旅所と定め、当年はそこへ渡御した。
これは故事に即する作法で、近年は、宵宮祭の7月24日朝に神輿渡御乗船場跡がある河畔で祭典が営まれる。こうした由緒にちなみ、ここに新しく架設された新橋の名を「鉾流橋」としたという。
証券取引場のある北浜は、中之島を挟んで堂島川と土佐堀川の向こう岸にある。その北浜は、天満宮の氏子地域ではない。が、大阪証券所株仲買人たちの北浜株講社(証券協和会内)がある。
かつて、芦屋と北浜を行き来した草川求馬氏は証券会社の社長であった。社家の家筋の夫人とともに天神(天満宮)信仰も厚く、講社の世話人でもあったと云う。
天神祭には、講社の人達やその家族、あるいは得意先などのために、供奉船を仕立てて行事に参加した。
初代と二代目の「鉾流橋」

背後には中之島のシンボル中央公会堂が建つ
初代の「鉾流橋」は、1918(大正7)年に竣工した橋のようである。資料が少ないため詳細がよくわからないが、木と鉄が混用された橋だったとみられている。橋の南側にある中央公会堂も同じ年に完成している。
1921(大正10)年、3月19日、大阪市の第一次都市計画事業は、内閣の認可を得た。しかし、1923年に発生した関東大震災により、この第一次都市計画事業に大更正が加えられたのは、1924(大正13)年11月で、その中には82橋の橋梁改築も含まれていた。
それから5年をおいた1929(昭和4)年、「鉾流橋」はゲルバー式鋼桁橋に架け替えられた。改築当初、親柱や高欄、照明灯なども、鉾流しの神事の場に相応しい和風のデザインであった。しかし、戦争がはじまると石造りの親柱を除いて、金属供出で撤去されてしまった。
戦後になって高欄と照明灯は復旧されたが、1980(昭和55)年に現在の姿に景観整備が施されるまでは、ごく普通のものが設置されていた。
昭和4年に架け替えられた二代目「鉾流橋」の設計図(付近平面図)によると、橋の渡長は318・00尺(96・36m)、全幅員39・30尺(12・12m)である。これに対して、在来橋の渡長は、322・30尺(97・66m)、全幅員24・62尺(7.46m)であった。
当時の中之島一丁目と若松町(西天満一丁目・二丁目境)の間を結び、堂島川に架けられた「鉾流橋」の北詰には、1905(明治38)年、乾物屋仲間の寄進した石灯籠一対があった。橋の架け替えのため、西側の石灯籠と基壇はともに、従来の位置から5mほど東方向に移された。また、1910(明治43)年寄進の石の鳥居も、石灯籠と石灯籠の中心部に移設されている。

手前の階段は鉾流し神事の行われる船着き場へと続く
いっぽう、旧橋の親柱が芦屋川のほとりに運ばれた次第は、推測の他はない。おそらく橋の架け替えと同じ時期のことであろう。
現在(注:1980年ごろの原稿執筆時点)、大阪市土木局土木部橋梁課が管理する「橋梁台帳」によると、鉾流橋は、1929(昭和4)年9月、改築された記載を残している。
また、1920(大正9)年、大阪市役所が作成した1万2千分ノ1の「大阪市図」と、1921(大正10)年測図、1万分ノ1の地形図「大阪首部」には、鉾流橋が架橋されたことを示す記号を見ることが出来る。
その後、鉾流橋は、数度の補修と防潮堤工事などを経て、橋も付近の様相も変化した。
1980(昭和55)年には、高欄や照明の景観整備や橋上にグリーンベルトを設ける工事を終え、装いを新たにした。なお、護岸工事の時に中之島側の遊歩道が拡幅されたので、堂島川の川幅は以前に比べて6mほど狭められている。
【補足説明】
冒頭に玄関口の写真を掲げた芦屋川沿いの邸宅は、2020(令和2)年現在、もはや存在していない。
1975(昭和50)年に国土地理院が撮影した空中写真では、和風の住宅と庭など邸宅の概要を確認することができる。
しかし、1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって、建物はかなり大きな被害を受けたものと推定される。建物の多くが壊滅的な被害を受け、住民に多数の死傷者がでた芦屋市津知町は、この邸宅のある川西町のすぐ西隣である。
震災から2ヶ月後の1995年3月に撮影された空中写真では、敷地内の建物の大半が解体・撤去され、ほぼ更地の状態になっている。
その後、約400坪以上もある広大な宅地は、細切れに分割されることはなく、往時のままである。現在、跡地には、建築時期は不明であるが鉄筋コンクリート造りの洋風住宅が建設されている。その佇まいは、古くからの邸宅が並ぶ芦屋川右岸の一等地に相応しいものである。
旧邸の玄関の両脇にしつらえていた親柱は、おそらく建物の解体時に撤去されたものと思われる。現在の所在などは不明である。
なお、震災後に建てられた住宅の所有者名は把握しているが、旧邸宅の主と同一もしくは親族かどうかを含め、個人情報は不明または非公開とした。
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