本稿のweb公開に際して
蜆川(しみじかわ)は、中之島の大江橋の上流で堂島川から北に分派し、堂島川と並走するように弓形に湾曲して流れ、堂島の西端でふたたび堂島川に注いでいた幅10~15m前後、長さ約2・5㎞ほどの小さな川である。曽根崎川、梅田川などとも呼ばれていた。

『大坂町中並村々絵図』部分(国立国会図書館蔵)
江戸時代初期のころのしじみ川は、島と島の間で網目状に分派と合流を繰り返していた旧淀川(大川)の一部で、上の絵図に描かれているように堂島の北辺を縁取って流れていた。当時、現在の堂島川は淀川の本流であり、中之島を挟んで流れる土佐堀川に比べて川幅もかなり広かったようである。
そのころの堂島は大坂の町はずれであり、現在の梅田あたりはまだ鄙びたところだった。絵図には、堂島の東端ちかくで島に渡る橋がひとつ架けられているが、もしかしたらしじみ橋の原初の形かもしれない。
貞享年間(1684~88年)から元禄年間(1688~1704年)にかけて、河村瑞賢によってしじみ川の改修が行われ、川沿いに堂島新地や曽根崎新地が開発された。

1909(明治42)年、現在の大阪市北区の大半を焼き尽くした「北の大火」のあと、しじみ川は瓦礫の捨て場となって一部が埋立てられた。さらに、残りの区間も1924(大正13)年までに埋められて、姿を消した。
しじみ川の流路の跡は、御堂筋と四つ橋筋の間では、現在の新地本通りと一本南の通りの真ん中あたりである。
大火の焼け跡と埋立てられる直前のしじみ川の様子
https://jaa2100.org/entry/detail/039465.html
しじみ橋は、しじみ川に架かっていた橋のひとつで、上流の分派点近くに架けられていた難波小橋の次の橋になる。架橋位置は現在の御堂筋の梅新南交差点内で、西側から数えて2車線目のあたりに比定される。梅新南交差点の西側歩道に立って回りを眺めても、もはや川が流れていた往時の痕跡はまったく認められないが、御堂筋に面した滋賀銀行ビルの南端の外壁に「史跡 蜆橋跡」と刻まれた石碑が組み込まれているのを見つける人がいるかもしれない。
「しじみ橋のレリーフ碑」と題されたこの小稿は、父高木伸夫が、戦前、父親の猛反対により美術学校への進学を断念し、家業の鶏卵販売の得意先への配達を手伝っていたころの思い出と、40年あまりのちに北新地の一角に建立された橋のレリーフ碑との偶然の再会について書いたものである。
文字原稿と写真原稿は手元にあるが、発表したかどうかを含めて詳細は不明であった。その後、『大阪春秋』第36号、p.100~、1983(昭和58)年、に同じタイトルで掲載されていたことが判明した。
WEBでの公開にあたり、ここでは次のとおり編集・加筆した。
(1)縦書き用原稿の漢数字を、横書き用の算数字に改めた。
(2)元号(西暦)年 の記載を、 西暦(元号)年に改めた。
(3)意味の通じにくい箇所の段落や用語を多少整理した。
(4)時制の一部を現在形から過去形に改めた。
高木伸夫
高橋盛大堂としじみ橋のレリーフ
あの頃は、なんの気もなくそこを通り「しじみ橋」のレリーフを見ていたのであろう。そこを通るのは不規則で三日に一度であったり、十日目に一回とかであった。
そこを通る時は午前中で、自転車に乗り、後部につけたリアカーを引いていた。高麗橋から平野町を抜けて、ガスビル前から御堂筋を北へ。淀屋橋、大江橋を渡ると、「しじみ橋」のレリーフのある高橋盛大堂の前にでた。
店の前を経て、梅田新道の交差点を東に折れる。梅ヶ枝町(西天満)-空心町二(東天満)-東野田町から城東区の家へ帰っていた。
この繰り返しは、現役兵として入隊する前年の年末まで続いた。

除隊後、応召から復員へと、生活は世相とともに変わり「しじみ橋」のレリーフの前を歩く機会も少なくなり、何時しかその付近も通らなくなった。
それから十数年が過ぎ、多くの人達に親しまれてきた市電「蜆橋(堂ビル前)」の停留所が消え、路面電車も1966(昭和41)年7月に廃止された。
しじみ橋のレリーフが見られなくなったのは、この頃であろう。
しじみ橋のレリーフについて

御堂筋に面した高橋盛大堂の壁面に取りつけられていた「しじみ橋」のレリーフについては、次のような文献や資料がある。
- 牧村史陽氏:史陽選集・一『心中天網島』(史陽選集刊行会、昭和37年)
- 高橋敬蔵氏:鶏助なにわ古跡『浄瑠璃に残る川と橋』と題し、観光の大阪(大阪観光協会、昭和51年ほか)
- 由良純氏:なにわの昔がたり『しじみ川跡』をおおさか(大阪PR協会、昭和56年)
「行方知れずになった」と噂された「しじみ橋」のレリーフは、高さ1・3メートル、碑文は文楽研究家の木谷蓬吟の撰である。
小春治兵衛の涙川
そこにかけられた
いたいけな蜆橋も
大近松の霊筆に彩られて
世界的に尽きせぬ
艶名を謳われている
其の蜆橋しじみ川も大火後
地下に埋もれて貝殻の
跡形なきを憾みとしたが
盛大堂主高橋氏の
配剤により
茲に不朽の記念標
誕生を見ること
将に起死回生の快事である。
昭和二年夏越月
木谷蓬吟 識
レリーフには、当時の橋の挿図も描かれていて、その称号を知ることが出来る。

しじみ川は滋賀銀行の看板の手前付近を流れていた【1983年ごろ撮影】
昨年(編者注:おそらく1982年)12月上旬のこと、書肆・青泉社に立ち寄っての帰り道、桜橋交差点の手前、東洋ビル南側の市道・曽根崎新地線の交通信号が青に変ったので、四つ橋筋を横断し、曽根崎新地一丁目から北新地の通りに入ることにした。
書肆・青泉社 https://takaginotamago.com/osaka/osa024_seisensya/
200メートルほど東から大阪駅前第二ビル方向に出るのは、回り道になるが、私はよく寄り道をする。この日もミハラビルの角を左に曲がり、市道・元樋之筋線に入った。そこで「しじみ橋」のレリーフが碑として建てられているのに出会うとは思わなかった。
11月もこのコースを歩いた。これまでにも数回、グリーンベルトに挟まれた「曽根崎蜆川跡」の碑の前を通っている。
曽根崎蜆川跡の碑の南側に新たに「しじみ橋」のレリーフ碑が建てられた経緯について、三人の関係者に聞いた。
話によると、現在の滋賀銀行大阪支店が竣工したのは、1967(昭和42)年12月で、それまで高橋盛大堂はこの一角にあった。
盛大堂は店舗改築のため、仮店に移ったが計画が変り、その跡地を含め、滋賀銀行の増改築工事が行われることになって、建物は取り壊された。
ずうっと後になり、建物の取り壊しをした工務店の倉庫にレリーフが運ばれたままであることがわかった。どうしてかはわからないと云う。
「しじみ橋」のレリーフは、銃弾の貫通したあとを残し、工務店の倉庫に置かれたままで十と幾つかの春秋を数えた。
ふたたび青い空の下に据えられたレリーフに出会えたのは、回り合わせだったというのだろうか。

設置して間もない頃のしじみ川のレリーフ碑【1983年ごろ撮影】
これは、曾根崎蜆川の碑と付帯した緑地を施工した、大阪市土木部道路建設課、竹中工務店技術部、新高橋盛大堂主、地元商店会代表者が話し合った結果であった。
現在の地にレリーフの碑が建てられたのは、その年(編者注:1982年)の12月5日だったという。
高橋盛大堂について(補足説明)

補足説明として、高橋盛大堂についてすこし記しておく。
現在の場所に移設されるまえにしじみ橋のレリーフがあった所は、しじみ橋の南詰である。その場所には、高橋盛大堂という薬局が長年、店を構えていた。レリーフと店とは密接に関係している。なぜなら、このレリーフは、高橋盛大堂の主人が私費で1927(昭和2)年につくったからである。
高橋盛大堂は、大阪で漢方薬や家庭常備薬の製造販売を行っていた製剤薬局で、現在も有限会社盛大堂製薬として大阪市西淀川区で盛業中である。
同社のサイトによると、1858(安政5)年、大阪堂島にて高橋安兵衛により創業している。家庭薬の製造と販売取次を業とし、大阪最初の薬局として開設以来、年中無休、急な疾病に応じるため徹夜営業をなし薬局本来の使命を全うしてきたと記されている。
有限会社盛大堂製薬 https://seidaidou.jimdofree.com/
1875(明治8)年、高橋卯之輔が事業を継ぎ、清快丸、キナピリン、健胃整腸剤のセイカイ、下痢止めの清腸、生薬強心薬のアポセーフなど、家庭用救急薬を製造販売していた。1883(明治16)年、盛大堂の商号を定める。
とくに「アポセーフ」は、現在まで継承され、改良されてきた主力製品で、「ホルモン綜合アポセーフ」と「アポセーフ錠」が現在も販売されている。アポセーフ錠は、ジャコウ、ゴオウなどの特殊動物性生薬を主成分とする生薬強心剤だという。
1967(昭和42)年、淀川区西三国に社屋を移転し、さらに1986(昭和61)年、西淀川区御幣島に社屋を移転し、現在に至っている。

これは高橋盛大堂の主力製品のひとつだった「清快丸(せいかいがん)」という健胃整腸剤の広告である。広告は1904(明治37)年のもので、大阪市北区の大半を焼き尽くした1909(明治42)年の「北の大火」よりも5年前にあたる。
犬をトレードマークにしている点は、冒頭に掲げた広告と同じで、所在地は「大阪市堂島蜆橋南詰」と記されている。
当時の店舗は、しじみ川の左岸、しじみ橋の南詰に立地していたわけで、しじみ川の流路は、現在の新地本通とその一本南側の通りの真ん中あたりに位置していた。
戦前、父がしじみ橋のレリーフをみかけたころ、高橋盛大堂の店舗は新地本通の角から少し南に下がったあたりにあったはずである。店の跡地に建てられた滋賀銀行の入っている梅田滋賀ビルの敷地は、南北が25mほどあるので、かつてレリーフのあった場所をピンポイントで示すのは難しい。
いずれにせよ、年中無休で夜も営業を続けて顧客第一主義を貫いただけでなく、地域の文化や歴史の継承にも尽力した高橋盛大堂の歴代店主は、大阪商人の鏡である。
自己の主義主張ばかりを貫こうとする後世の大阪の政治屋どもは、盛大堂の犬の爪の垢でも煎じて飲むがいいと思う。
1690~1700頃 河村瑞賢がしじみ川を改修、川沿いに堂島新地が成立
1858(安政5) 高橋安兵衛が堂島で薬局を創業
1909(明治43) 「北の大火」発生、瓦礫でしじみ川の一部を埋立て
1924(大正13) この年までにしじみ川が埋立てられる
1927(昭和2) 高橋盛大堂主人が店舗壁にしじみ橋のレリーフを設置
1967(昭和42) 高橋盛大堂の店舗跡に梅田滋賀ビル竣工
1982(昭和57) 北新地にしじみ橋のレリーフ碑が建立
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