梅田貨物駅と蒸気機関車D62

梅田貨物駅

かつて、大阪駅の北側には大きな貨物専用駅があった。

「梅田貨物駅」と呼ばれていたが、国鉄時代の正式名称は『貨物』のつかない「梅田駅」だった。梅田貨物駅と呼ばれた訳は、阪急や地下鉄の梅田駅と区別するためだという。

梅田貨物駅の歴史は古く、旅客と貨物を扱っていた大阪駅から貨物が分離される形で1928(昭和3)年に開業した。そのとき吹田操車場と梅田貨物駅を結ぶ連絡線も開通している。

下に掲げた地図と空中写真は、今から60年ほどまえの梅田貨物駅付近の様子である。
地図は1961年に毎日新聞社から刊行されたもので、空中写真は同じ年に国土地理院によって撮影されたものである。鉄道による貨物輸送が最盛期だったころの梅田貨物駅の規模や状況がよく示されている。

梅田貨物駅付近の地図梅田貨物駅付近の地図
毎日新聞社『’61大近畿名鑑地図』 (大阪市北区の部分)

梅田貨物駅付近の空中写真梅田貨物駅付近の空中写真
国土地理院撮影【1961】 (MKK612-C12-236の部分)

この地に貨物駅が設置されたのは、母体となった大阪駅に隣接しているだけでなく、市内各地への物資輸送に便利な場所であったからである。さらに、桜島への連絡線を経て中央市場への引き込み線と接続できたこと、大阪駅近くに立地していた各新聞社で輪転機にかける新聞用ロール紙の輸送に好立地だったことなどがあげられる。

また、大阪市内にあった湊町駅や都島駅といったほかの貨物駅と同様に、この梅田貨物駅も舟運と鉄道輸送との連携機能が考慮された結節点であった。

堂島川から北に延びる堀割(梅田入堀川)が駅の構内まで通じており、東海道本線の北側と南側の2箇所に大きな船だまりが設けられていた。戦後すぐに撮影された空中写真には、荷物を積んだ船が船だまりに出入りする様子が写っている。堀割の途中に架けられた橋に「出入橋」という名がついたのも、貨物駅に出入りする船が多かったからであろう。

梅田貨物駅に発着する貨物は、吹田操車場から東海道本線の西側を並走してきた貨物列車専用の連絡線によって運ばれていた。この連絡線は、上淀川橋梁で淀川を渡るとすぐに進路を西に変える。連絡線はS字状にゆるやかなカーブを描いて進路を西南に転じ、中津駅付近で阪急の高架をくぐって梅田貨物駅の構内に到着する。

梅田貨物駅は約17ヘクタールに及ぶ広大な面積を有していた。駅の敷地は縦に長い三角形をしており、中津駅のあたりが三角形の頂点に相当する。そこから底辺に相当する大阪駅の北側に向けて、たくさんの線路が分岐した広大な貨物ターミナルが形成されていた。

荷扱いをする引込線やホームの数は時期によって多少異なるが、到着線4本、着発線4本、出発線4本、荷役線10本などがあった。このほか、敷地北東の一角には梅田機関区(支区)や転車台などの施設も設けられていた。
また、分岐した線路の一部は、東海道本線と環状線の高架下を抜けて大阪駅の南側にまで伸びており、コンテナホームや中央郵便局への専用線として使用されていた。

梅田貨物駅は貨物輸送を通じて長年にわたって大阪の発展に貢献してきたが、2013年に廃止された。荷扱いのホームや上屋、線路などの施設はすでに撤去されている。

跡地では、2020年から梅田北ヤード『うめきた』第2期の再開発事業がすすめられている。貨物駅跡地は、中心部のオフィス街からみれば駅の裏側とはいえ大阪の一等地である。キタに残された最後のまとまった面積の土地はもうほかにはない。跡地の利用については、大手デベロッパーや行政がプランを練っているようで、商業施設やオフィス、ホテルの入った高層ビル、タワーマンションなどができるらしい。

似たような施設はすでに市内のあちこちに存在している。
どこにでもあるような箱物を乱立させて、せっかくの地の利を逸してしまうのは愚策である。梅田貨物駅跡地の大きな面積を活かして、これからの大阪にとって有益な、いわば百年の計になるような利用方策を考えて欲しいものだ。

蒸気機関車D62

梅田貨物駅で父が撮った写真は僅かしかない。写っている機関車はD62とC12である。梅田貨物駅で撮られたD62の写真は、本や雑誌、ネットでもほとんど見たことがない。

何らかの目的で写真を撮りに行ったのかもしれないが、貨物駅の横を通りかかった際に構内を走っていた蒸気機関車に向けてシャッターを切ったのかもしれない。蒸気機関車の写真しかなく、駅の施設や荷扱いの様子が写っているカットがないのは残念である。

国鉄D62型蒸気機関車国鉄D62型蒸気機関車 【撮影:1959年】

D62は、D52やC62と並んで国鉄最大級の蒸気機関車のひとつである。自重は87.74トンもあり、貨物牽引機としては最大の重量を有している。

D62のベースになったのはD52である。
D52は国鉄蒸気機関車のなかでも特異な存在である。それは、超大型機であることに加えて、戦争に勝つことを目的につくられたからである。すでに戦況が悪化し、車両製造に必要な資材も乏しくなっていた戦争末期に、産炭地からの石炭輸送などの軍用貨物の輸送力を増強するための大型機関車が必要だったからである。計画では500両近くを製造する予定だったが、敗戦となり無謀な計画はついえた。製造数は戦後につくられた数両を含めて285両である。

D52は巨大な機関車である。大型貨物牽引機のD51の足回りを流用しながら、牽引力を高めるためにさらにひとまわり大きなボイラーを載せている。ボイラーは車両限界いっぱいの太さがあり、出力はD51に比べて2割ほど向上しているという。

城東貨物線で貨物を牽くD52城東貨物線で貨物列車を牽くD5228 【撮影:1967年】

D52は「戦争に勝つまで数年間だけ持てば良い」といういわゆる戦時設計である。各部に材質の劣る代替材料が用いられ、熟練工も少なくなった時期に粗製された。このため、のちにボイラー爆発といった重大事故や故障を招いたり、機関車の耐久性に悪影響を及ぼすことになった。性能を発揮できずにすぐに廃車になった機関車も多い。

きちんとした材料で熟練工がつくれば、違った結果になっていただろう。戦争が招いた不運な機関車と言ってよいかもしれない。
子どものころに城東貨物線や吹田第一機関区でD52を間近に見たことがある。アンバランスなほど巨大なボイラーが印象に残っている。

D52は1-D-1という車輪の配置から軸重が大きく、線路や道床に負担を強いることになった。このため路盤の強固な東海道本線や山陽本線といった幹線だけしか走行できなかった。軍事輸送がなくなった戦後は、大型牽引機として活躍する場は著しく狭められてしまった。

そこで動輪の後にある従輪を2軸に増やして軸重を小さくし、亜幹線にも乗り入れることができるように改造したのがD62である。
1950年から翌51年にかけて、20両のD52が国鉄浜松工場でD62に改造された。

D62のキャブと従輪2軸に改造された従輪と運転台 【撮影:1959年】

写真のD627号機は、1950年にD52344号機から改造されている。改造前のD52344号機は、1944年に汽車製造の大阪工場で製造された大阪生まれの機関車である。。

D62に改造後、米原機関区に配置されたのち、1955年に吹田(のちの吹田第一)機関区に転じている。そのころ、東海道本線は名古屋まで電化されていて、電化工事が京都へと進んでいた時期である。

その後、電化区間は西に延びて山陽本線の姫路まで進んでいった。姫路電化が完成するとD62は持ち場を失い、今度は東北本線へ配置されることになった。
1959年秋に郡山工場で軸重を軽減する改造を受けたD627号機は、東北本線の一ノ関機関区に配置され、長町~盛岡間で貨物輸送にあたった。
その後の東北本線の電化で余剰となり、1963年に廃車となっている。D52として製造されてから20年にも満たない短命の機関車であった。

父がこの写真を撮ったのは1959年の1月ごろだと思われる。
冬の低い日射しを受けて機関車の運転台の外板が輝いている。しかし、光の反射具合が普通とは違っている。表面に凹凸があって、鉄板が紙のように皺くちゃになっているようにも見える。確かめる術はないが、もしかしたらブリキ細工のような外板だったのかもしれない。あるいは、勤労奉仕の学生が不慣れなハンマーを手にして鉄板を叩いた結果かもしれない。

梅田機関区のC12

C12梅田機関区のC12 191号機【撮影:1959年】

梅田貨物駅で父が撮ったもうひとつの機関車はC12という小さな機関車である。先のD62とは対極を成す軽量・小型の機関車で、地方線や簡易線と呼ばれた路線の旅客貨物用に開発されたタンク機関車である。
炭水車が付随しないので後方の視界も良く、行き止まりのローカル線のほかに主要駅での入換用にも使われた。梅田貨物駅構内でも貨車の入替や貨物列車の編成に従事していたのだろう。

吹田第一機関区に配置されたD62が梅田貨物駅まで貨物列車を牽いて来ていたのに対して、C12は貨物駅の一角にあった梅田機関区に配置されていた。
梅田貨物駅には開業直後の1930年代から小さな機関区が設置されていた。詳細はわからないが、その機関区は、宮原機関区の大阪分庫、吹田機関区の梅田支区と名前を変えながら1950年ごろに梅田機関区になった模様である。

梅田機関区に配置されていた機関車はC12と8620だった。いずれも駅構内での入換作業用として合わせて10両程度が在籍していたようである。

スモッグでかすむ梅田貨物駅スモッグにかすむ大阪駅と梅田貨物駅 【撮影:1961年ごろ】

昭和30年代、大阪ではスモッグによる大気汚染が深刻化していた。
そのころ国鉄では、煤煙を排出する蒸気機関車をディーゼル機関車に転換する動力近代化計画を進めていた。入換え作業に適した小型のディーゼル機関車DD13型が開発され、1958年に生産がはじまった。
新鋭機のDD13は吹田第一機関区に配置され、それまでの蒸気機関車に代わり梅田貨物駅の入換作業にも使用されることになった。

父が梅田貨物駅で写真を撮ったのは1959年と推定される。
写っている機関車からは、煙や蒸気が出ていないように見受けられる。もしかしたら、DD13の投入によって使われなくなり、留置された状態だったのかもしれない。
写真の左端には8620の炭水車とみられる一部が写っている。この8620もC12と同じく休車扱いだった可能性が考えられる。

入換用機関車のディーゼル化とともに、C12や8620が在籍していた梅田機関区は1959年に廃止された。
煙を上げながら貨車を運んでいた大小の蒸気機関車がいなくなり、スモッグで霞んでいた梅田の空も次第に青空がもどっていったのであろう。


・次 は▶ 大阪大空襲と長柄橋の弾痕
・目次へ戻る▶大阪のこと【INDEX】
・一覧できる地図へ▶MAPS 大阪のこと

このサイトにあるすべての画像と文には著作権があります。無断転載・複製を禁じます。
Copyright, Shinji TAKAGI, 2021.All Rights Reserved.
広 告

フォローする

error: Content is protected !!