淀川の上空を飛ぶ航空機
昼間、淀川の下流、長柄橋や毛馬あたりの土手に佇んで上空を眺めていると、頻繁に飛行機が淀川の上空を飛んでいることに気づくはずだ。
その訳は西北約8㎞のところに大阪国際空港が立地しているからである。
大阪空港にアプローチするANA23便からみた淀川 【1992年撮影】
着陸機は大阪城付近の上空を通過しながら次第に高度をさげていく
左端に城東貨物線淀川橋梁、中央に菅原城北大橋、右端に豊里大橋が見える
民間の旅客機は、定められた航空路の上を管制官から指定された高度で飛ぶ。着陸時も管制官からの指示に従って段階的に高度を下げていく。
大阪国際空港に着陸する飛行機は、生駒山地の南端にある高安山の上空あたりから滑走路をめざしてほぼ一直線にアプローチする。着陸機は、途中、大阪城付近の上空、新大阪駅付近の上空を通過するので、毛馬から長柄橋あたりの上空で淀川を横断することになる。
機内の窓側の席から地上を眺めていて、ビルや家の一軒一軒が判別できるようになると、飛行高度は1000m前後まで下がっているはずである。機内にはBGMが流れているが、シートベルトを締めた乗客たちには少し緊張感が漂っている。
通常の風向きの場合、淀川を横切った飛行機は、さらに高度を下げながらそのまま直進し、阪神高速空港線の沿道にある建物の屋根をかすめるように飛んで、平行する2本の滑走路32Lか32Rのどちらかに着陸する。
稀に南東寄りの強い風が吹くときだけは、滑走路の少し手前、アプローチの最終段階で西側にそれて、武庫川をかすめるルートで時計回りに旋回し、猪名川の上を低空でかすめて北側から滑走路に着陸する。
毛馬のあたりからは淀川の上空を通過していく飛行機を真下から眺めることができる。国際線が関空に移転し、さらに最近はコロナ禍の影響でかなり減便されているとはいえ、毎日200機前後の航空機が淀川の上空を飛んでいる。
ただし、何百メートルも上空を通過するので、全幅が60m以上もあるB777のような大きな機体といえども、おもちゃのような小さなサイズでしか見えない。
これから書くのは、淀川の上空高度1万メートル付近の高高度を飛んだ飛行機と、地上からパイロットの顔が見えるような超低空で川面の上をかすめていった飛行機の話である。もちろん現代の旅客機の話ではない。
B-29による無差別爆撃と大阪大空襲
今から約80年前、日本はアメリカ合衆国と戦争をしていた。
最近の小学生・中学生のなかには、そのことを知らない児童や生徒もいるという。「ほんまかいな?」と真偽を疑う話であるが、まんざらウソでもないらしい。アベ首相とトランプ大統領がゴルフ場で楽しそうに遊び呆けているニュース映像を見て、日米両国は仲の良い友だち同士だと思ったのかもしれない。
いずれにせよ、文部科学省や教育委員会、義務教育に従事する教師は、子どもに自国の歴史を教えずして一体何を教えているのだろうか?
太平洋戦争の末期、サイパン島やグアム島などマリアナ諸島が米軍の手中に落ちると、日本の空にはアメリカ陸軍航空軍の重爆撃機B-29が編隊を組んで飛来するようになった。B-29は4トンの爆弾を搭載しても6000㎞以上の航続距離をもち、大都市や地方都市への爆撃を遂行できる能力を備えていた。
米軍のB-29による空爆は、二つの段階と方式に大別される。
ひとつは、初期に採用された高高度精密爆撃法である。この方式は、攻撃目標を航空機を製造する軍需工場などに限定し、計算機を搭載した精緻なノルデン照準器を用いて1万m前後の高高度から爆弾を投下する爆撃方式である。しかし、実際にはジェット気流の影響を受けて命中率は低く、戦果は芳しくなかった。
そこで考案されたのが、高高度精密爆撃とは対極の方式ともいえる低空からの無差別爆撃である。日本軍からの対空砲火を受けにくい夜間に、高度2000~3000mから大量の焼夷弾を投下する荒っぽい方式である。
この無差別爆撃方式を考案したのは、陸軍航空軍司令官カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)だった。都市への無差別爆撃によって日本を焼き払い、戦意を喪失させて無条件降伏を促した。
戦後、空襲を成功させた功績によって、航空軍を陸軍から独立させ空軍の創設に寄与した。優秀な軍人であった証拠に、第一次佐藤内閣は彼に勲一等旭日大綬章の授与を閣議決定した。日本人として、名前を脳裏に刻んでおくべき人物である。
ルメイの考案した無差別爆撃は、おおむね次のような手順で実施された。
- 爆撃に先立ち、B-29を改造した偵察機が攻撃計画のある都市の空中写真を撮影する。
- 次に撮影した空中写真をつなぎあわせて「リト・モザイク」と呼ばれた作戦地図を作成する。
- リト・モザイクには縦と横に座標がつけられており、爆撃する照準点は2つの座標の交点で明示される。
- 1枚のリト・モザイクには、通常、3箇所程度の照準点が示されている。
- 爆撃手はB-29の最前端に搭乗し、照準点を中心にして半径約1000mの円のなかをめがけて焼夷弾や爆弾を投下する。
照準点から少し離れて適当にばらまいても、物量作戦の効果も手伝って着弾地点は平準化された。高高度からの精密爆撃に比べると、戦果は著しくあがった。
ルメイの指揮のもと、日本各地のおもだった都市には膨大な量の焼夷弾が投下された。その結果、多くの建物と人々が一気に焼き払われることとなった。
B-29の大編隊による大阪市域への焼夷弾の無差別爆撃が初めて行われたのは、1945年3月13日深夜から翌14日未明にかけての「大阪大空襲」の時である。
これ以降もB-29の大編隊による無差別爆撃は10回近く繰り返された。これらの大編隊による空襲を区別するために、通常「第○回大阪大空襲」と呼んでいる。
第2回大阪大空襲におけるB29の無差別爆撃
【1945年6月1日 米陸軍航空軍撮影】
大阪市上空を東に向かって飛行しながら大淀区や都島区付近を爆撃中のB29
左上に柴島浄水場、中央下に大阪城と大川、中之島が見える
飛行高度は写真の解像度からみて6000~7000m前後と思われる
米軍戦闘機による低空からの機銃掃射
大阪大空襲では、B-29だけでなく、空母艦載機など小型の戦闘機による地上攻撃も行われた。
淀川の上を低空で飛んだ飛行機について述べる場合、この戦闘機の話を外すことはできない。また、このような飛行機がいたことを決して忘れてはならない。
空母艦載機はF6Fへルキャット(グラマン)やF4Uコルセアなどで、いずれも機関銃を装備した戦闘機である。攻撃はこれら艦載機だけでなく、硫黄島に配備されたP-51マスタング(日本ではムスタングと発音されることもある)などが加わることもあった。
P-51マスタングは、第二次大戦における最強の戦闘機といわれている。日本に飛来したP-51には、両翼に6丁の12.7㎜機関銃が装備されていた。さらに、翼下には500ポンドの爆弾やロケットランチャー(バズーカ砲)を吊すことができた。無改造のままで爆撃機の護衛と対地攻撃とを両立できた優れた戦闘機だった。

1944年ヨーロッパ戦線で撮影(The Imperial War Museums 所蔵)
こうした戦闘機の攻撃目標は、列車や船舶であったり、建物や駅、橋梁などの施設だった。また、それらの近くにいる一般の市民も機銃掃射の標的とされた。市民への攻撃は、焼夷弾による無差別爆撃と同様に、国際条約で禁じられていた非戦闘員への攻撃行為である。条約に背いた行為が航空軍司令官の命令で行われたのである。
長柄橋への攻撃
毛馬から約500m下流の新淀川に架かる長柄橋が攻撃を受けたのは、1945(昭和20)年6月7日の「第3回大阪大空襲」のときであった。
この頃になると戦局はかなり悪化しており、日本軍の防空体制はほぼ無力化していた。米軍機は白昼に堂々と大編隊で飛来し、市街地への焼夷弾爆撃や非戦闘員への機銃掃射を行った。
のちの空襲記録によると、6月7日は午前9時ごろに警戒警報が発せられ、午前11時過ぎの空襲警報とともに爆撃が始まった。攻撃目標は次のふたつであった。
(1)大阪城の近くにあった大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)への通常爆撃
(2)大阪市東部への焼夷弾爆撃
爆撃作戦に参加したB-29は400機以上であった。このうち約4分の3は、市街地への焼夷弾爆撃の任務を負っていた。
米軍の記録によれば、この日の焼夷弾爆撃で爆撃手に示されたリト・モザイク上の照準点は、都島区高倉町、国鉄鶴橋駅、天王寺駅だった。
B-29の大編隊は高度5500~7000mで大阪上空に進入した。この日の雲量10で、市街地は雲の下にあった。視界不良のためB-29の爆撃手は照準点を視認することができなかった。
この日は目視ではなくレーダーによる爆撃が行われた。焼夷弾の着弾地点は、照準点から大幅にはずれたものもあり、一部は淀川を越えて右岸の東淀川区にも着弾した。大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)を狙った通常爆撃も同様で、目標からかなり離れた都島区を中心とした大阪市北東部に多数着弾した。
いっぽう、空襲警報が発せられた大阪市では、市民が防空壕などに避難していた。しかし、防空壕にはすべての市民を収容できないため、一部の市民は難を逃れようと淀川の堤防付近や長柄橋の下などに避難していた。
長柄橋の上に直撃弾が落ち、橋桁の下に避難していた市民に多数の死傷者がでた。犠牲者数は定かではないが400人前後だと言われている。
また、この日の攻撃には、B-29の護衛を兼ねて途中の硫黄島から138機のP-51マスタングが飛来した。
B-29は爆弾投下の任務を終えると基地へ引き返した。上空でB-29の護衛についていたP-51は地上近くまで急降下し、淀川両岸の各地で機銃掃射や爆撃を行った。長柄橋付近では、河原に避難した市民やB-29の爆撃で負傷し混乱している市民に向けて、低空からの機銃掃射を繰り返した。
当時、長柄橋の近くの淀川の右岸に居合わせて、城東貨物線付近の堤防から機銃掃射を目撃したSさんの手記には、「南側の大阪市内から飛んできた2機の戦闘機が淀川を渡り、東淡路上空で旋回して長柄橋方向に向かい、河川敷にいる人に向けて機銃掃射をはじめた。」と記されている。戦闘機とは、P-51のことであろう。
また、淀川付近で機銃掃射に遭遇し、生還できた人は「パイロットの顔がわかるほど低空の至近距離から撃たれた」と証言している。
被弾した長柄橋の橋脚
直撃爆弾と機銃掃射を受けた長柄橋は、橋桁が大破し炎上していた。コンクリート製の桁が燃えていたという証言は、すぐには理解しにくい。それは橋桁が破壊されて中に詰められていた木レンガが炎上していたからである。
また、橋脚や橋の近くにあった長柄可動堰のコンクリート構造物の表面にも、機銃掃射によって多くの弾痕が残された。橋脚の弾痕は南側から数えてひとつめの北面と、2つめの南面の損傷がとくにひどい。以前、空襲記録の本に掲載されていた写真で見たひとつ目の北面は、まるでハチの巣のようにたくさんの弾痕がついていた。
橋脚の南北両面に弾痕が残されていたということは、上空で旋回して何度か攻撃を繰り返した証拠でもある。
当時の長柄橋は、1936(昭和11)年に完成した2代目の橋であった。
終戦後、直撃を受けた橋桁の交換や橋の補修工事が行われた。いっぽう、強度に影響するような損壊を受けなかった橋脚には補修の手は加えられなかった。その結果、弾痕がついたままの橋脚が残され、この場所で起きた機銃掃射の悲劇を伝えていた。

長柄橋の南詰西側から撮影、右端がひとつめの橋脚
上流側に新しい長柄橋が開通している
橋を支える橋脚は橋桁の陰になるため、通行していてもあまり目立つ構造物ではない。
しかし、何かの拍子で表面が穴ぼこだらけになった橋脚を目の当たりにした人は、どうしてこうなったかきっと疑問に思うはずである。
後世に伝えるべき歴史と教訓を内包した戦跡や戦争遺産とは、無言のままで人に何かを訴え、考える切っ掛けを与えるモノである。

南詰から撮影した上の写真を部分拡大し反転処理したもの
敗戦から20年ほど経過したころ、淀川の改修計画が改訂された。堤防の嵩上げに合わせて、老朽化した2代目の長柄橋は新しく架け替えられることになった。
1973年から旧橋のすぐ東隣に新しく3代目の長柄橋をつくる工事がはじまり、1983年に現在の長柄橋が完成した。完成後、古い橋は撤去するという段取りだった。
戦争のことを後世に伝える
新しい橋の工事が進むにつれ、弾痕の残された橋脚を現地で保存するように市民から声があがった。当然のことである。戦争遺物であれ、文化財であれ、そのモノがあった元の場所に置かれてこそ初めて生きてくる。
1981(昭和56)年9月に大阪市の教員や市民らによって「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める連絡会」が結成された。連絡会は、橋脚の現状保存と弾痕の由来を記した説明版の設置を求め、大阪市や建設省に陳情を行った。
しかし、長柄橋を管理していた道路管理者は市民の要望を受入れなかった。
河道内に不要となった橋脚を残すと、治水機能を損なうというのがその理由である。橋梁や橋脚といった工作物は、河川区域を占用する物であり、河川管理者の許可なくしては設置することも、残置することもできない。
もしかすると、大阪市や大阪府は市民の意を酌んで残そうと努めたかもしれないが、頑迷固陋とも評された当時の建設省(河川管理者)が容認しなかったのかもしれない。
河川法を杓子定規に解釈すれば、旧橋脚は確かに川の流れを妨げる障害物である。ならば次善の策として、長柄橋付近の堤内地(市街地側)に適当な場所を確保し、穴ぼこだらけの橋脚をできるだけ現状のままで移設すればよかったのである。そうすれば治水機能も保たれるし、歴史の証人でもあった弾痕のついた橋脚も生き長らえることができた。
結局、市民の願いは叶わず、部分保存という別の策が講じられた。
橋脚から弾痕を含む部位を切り出して、1立方メートル弱のサイコロ状の塊で保存することになった。橋脚から切り出されたコンクリートの塊は、犠牲者を供養するために長柄橋南詰に建立されていた明倫観世音菩薩像の傍らに設置された。
また、長柄橋の南西にある大阪市立豊崎中学校に橋脚と可動堰の一部が、東淀川区の柴島高校の正門付近に橋脚の一部が、それぞれ保存された。

風化が進み大小2つの弾痕を示すペンキが塗られている
長柄橋南詰に保存されているコンクリート塊を含め、部分保存された橋脚には、大きさの制約から弾痕は僅かしかない。機銃掃射で穴ぼこだらけになった橋脚の写真と見比べればわかるが、保存された小さな塊からは全容がわからない。一つや二つの弾痕を見ても、米軍機が行った非人道的な攻撃の残虐さはきちんと伝わってこないと思う。
長柄橋から西へ3㎞ほど離れた十三にあった旧制北野中学校にも、米軍機が飛来し機銃掃射や爆撃で生徒が亡くなった。北野中学校は戦後の学制改革で北野高校になったが、関係者の尽力によって敷地内には機銃掃射の弾痕がついた旧校舎の壁が残されている。

三階建て校舎の西壁のそこかしこに28箇所の弾痕が残っている
弾痕の大きさは平均約30㎝もある
北野中学の校舎の壁は、長柄橋のような切り出した細切れの痕跡ではなく、機銃掃射を受けた建物の1階から3階までのレンガ壁一面が、ほぼそのままの状態で当時と同じ位置に保存されている。壁単体だけだと倒壊してしまうので、新校舎の外部階段を利用して壁を支持する形で保存されている。おそらく、保存のための予算措置の関係でこのような構造形式になったのではなかろうか。
また、保存された弾痕の残る壁は、一般の市民が校舎西側の市道から弾痕の残された壁面の全容を眺めることができるよう配慮され、学校の敷地を囲む壁の一部がフェンスになっている。

新校舎建築の際に外部階段を利用して壁全体が保存された
新校舎の設計は竹山 聖氏
長柄橋と北野高校とは、管理者や敷地などの諸条件が異なるとは言え、歴史や戦災遺構に対する考え方と見識の違いは、誰の目にも明らかである。

画面右下、青い柵のなかのコンクリート塊が保存された橋脚の一部
毎年6月7日、長柄橋南詰にある明倫観世音菩薩像の前では、遺族ら関係者と近くの正蓮寺の住職らによって法要が営まれている。
爆撃と機銃掃射で多くの犠牲者がでた旧長柄橋は架け替えられてもはや跡形もない。また、弾痕が残されていた橋脚も解体撤去されて、そのほとんどが廃棄処分された。
空襲から80年近くが経過し、長柄橋の惨状を目のあたりにした戦争体験者たちも年とともに旅立っていく。
近い将来、弾痕のついた橋脚を完全な形で残さなかったことを悔やむときが来るような気がする。しかし、もはやすでに手遅れである。長柄橋の橋脚をきちんとした形で残さなかった河川および道路行政の関係者は、自らの思慮の浅さを反省するとともに、その愚行を恥ずべきである。
■参考:機銃掃射の様子を写した記録映像
太平洋戦争末期に米軍航空軍が日本各地で行った爆撃や機銃掃射に関する史料映像がネットに公開されている。戦時下とはいえ非戦闘員に銃口を向けた米軍航空軍の戦闘行為は許されるものではないが、日本なら廃棄したり封印されてしまうような自国の行った戦闘行為をきちんと史料として保存し、公開するアメリカ合衆国という国は、ある意味、たいへん民主的な国でもある。
米陸軍省提供ドキュメンタリー映画 “The Last Bomb”
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