淀川の空を飛んだ滑空機

知られざる滑空機のこと

ひとつ前の記事「大阪大空襲と長柄橋の弾痕」で淀川の上空を飛んだ飛行機のことを書いた。
戦争中に淀川上空を飛んだB-29やP-51のことは、昔は多くの人が見聞きして知っていたが、歳月の経過とともに語り部も少なくなり、次第に忘れられてしまった感がある。

ところで、先の記事に書いたP-51は、淀川の上を低空飛行した代表的な航空機だが、このほかにも低空で飛んだ航空機があった。

それは滑空機、つまりグライダーである。その話をこれから書くが、グライダーを飛ばしていた関係者を除くと、おそらくあまり知られていないと思う。

航空法によると、「航空機」とは「人が乗つて航空の用に供することができる飛行機、回転翼航空機、滑空機及び飛行船その他政令で定める航空の用に供することができる機器」とされている。「人が乗って空を飛ぶ機器」というのが、航空機の基本条件である。

「滑空機」とは、本来は自ら動力を持たない航空機のことである。ただし、近年では離陸できる動力を備えたタイプもあり、飛行機との境界部分が素人には分かりにくくなっている。

滑空機は、日本では航空法(施行規則第五条の三)に基づき次の4つのタイプに区分されている。

  1. 初級滑空機
  2. 中級滑空機
  3. 上級滑空機
  4. 動力滑空機

タイプ分けの基準となるのは、動力の有無、発航(離陸)方法、曲技飛行や滑空比などの飛行性能、技能証明(操縦資格)の有無、技術証明(耐空証明)の有無などである。

初級滑空機はプライマリー・グライダーとも呼ばれる。操縦資格や耐空証明がなくとも飛ぶことができるので、以前は滑空練習の入門用として使われていた。
初級滑空機は、中級機や上級機に比べて滑空性能が劣り、機体構造も簡素なので、上位機のような飛行機曳航やウインチ曳航による離陸には適さない。
そのため、通常はゴム索発航という離陸方法が用いられる。これはパチンコのようにV字形(実際にはY字形)に張ったバンジーコードを使って機体に前進力を与え、浮力を得て離陸させる方法である。このほか、ハングライダーのように丘陵の傾斜地や崖の端から離陸する場合もある。

ゴム索発航の準備をする初級滑空機ゴム索発航の準備が整いつつある初級滑空機

中級滑空機は、セカンダリー・グライダーとも呼ばれ、高速回転するウインチでロープを巻き上げて離陸させる。2人乗りの練習機もある。
この中級機や次の上級機の操縦には免許が必要であり、機体にも耐空証明が要求される。

上級滑空機は、ソアラーとも呼ばれる。主翼は細くて左右に長く、胴体も機首から尾翼にかけて流れるようなフォルムをしている。
一般にグライダーと言えば、このタイプをイメージする人が多い。実際、現在の滑空機の主流はこのタイプである。
離陸方法は、ロープをつけて軽飛行機に曳航させたり、高速回転するウインチでロープを巻き上げて行う。このタイプは滑空比が非常に大きく、宙返りなどの高度な曲技飛行にも対応できる機種もある。
上昇気流を生む気象条件と操縦者の技量が揃えば高度6000m以上にも上昇でき、1000㎞以上の長距離飛行も可能である。

最後の動力滑空機は、モーターグライダーとも呼ばれる。プロペラを回す動力を搭載した滑空機なので、他の3タイプと異なり自力で離陸できる。滑空性能に長けた軽飛行機と言ってよいかもしれない。

昔は、初級滑空機で初めて空を飛び、順に上級機へとステップアップしていったそうだ。しかし、現在では初級・中級・上級の区分は形骸化しており、法令上の区分となっている。

現在、実際に飛んでいるグライダーのほとんどは、ソアラーと呼ばれる上級空滑空機と動力滑空機である。初心者の訓練も昔のようにプライマリーではなく、一足飛びにソアラーを用いて行われることが多い。その場合、2人乗りの前席に訓練生が座り、後席に教官が搭乗することで安全性が確保されている。手っ取り早く、スマートにというのが時代の要請なのかもしれない。

実物ではなく模型会社ハセガワの製品カタログになるが、こちらのサイトに初級から上級滑空機の各タイプのわかりやすい絵や写真が載っている。

・ハセガワ http://www.hasegawa-model.co.jp/product/sp349/

プライマリー・グライダー 霧ヶ峰式はとK-14型

淀川を飛ぶ霧ヶ峰式はとK-14型淀川河川敷を飛ぶ初級滑空機 

飛んでいるのは『霧ヶ峰式はとK-14型』という名前の初級滑空機である。
見方によっては手作りのおもちゃのようにも思えるが、主翼や尾翼に記されたJA0136という機体記号は、れっきとした航空機であることの証である。

『霧ヶ峰式はとK-14型』の諸元は次のとおりである。

  • 全長:6.40 m
  • 全幅:10.00 m
  • 全高:2.185 m
  • 主翼面積:12.5 m2
  • 自重:80 kg
  • 全備重量:140 kg
  • 最良滑空速度:45 km/h
  • 翼面荷重:11.2 kg/m2
  • 滑空比:11.4
  • 乗員:1名

主翼の幅は約1.25mだが長さは約10mもあり、面積は12.5㎡とかなり大きい。
こうもり傘を持って高いところから飛ぼうとする人がときどきいるが、傘の面積はせいぜい2㎡ぐらいしかない。やはりあれはマンガの世界である。
この霧ヶ峰式はとK-14型ぐらいの大きな翼がないと、人は飛べないということになる。

着陸態勢をとる霧ヶ峰式はとK-14型着陸態勢をとる霧ヶ峰式はとK-14型
主翼両端のエルロンで機体のバンクを制御しながら
水平尾翼の昇降舵で前後のバランスをとっている

滑空経験者の話や資料によると、ゴム索発航で上昇できる高度は最大約10m前後だという。風向や風力にもよるが、1回の飛行距離は100~150m前後で、飛行時間も10秒前後だろう。それでも操縦者を含めた140㎏の滑空機が風を利用してちゃんと飛ぶことができるのはたいしたものだと思う。

霧ヶ峰式はとK-14型の開発史

この霧ヶ峰式はとK-14型がつくられたのは、今から半世紀以上前のことで、戦後8年ほど経ってからである。ベースになったのは、戦争末期の1944年に日本小型飛行機というメーカーが設計した初級滑空機K-14型である。

このK-14型が開発されるまで、初級滑空機の主流は1940年に文部省によって設計された『文部省式1型』という機材が使われていた。

文部省が滑空機を設計していたことについては、少し補足説明が必要であろう。

戦前において、文部省とグライダーの関係は密接であった。
1938(昭和13)年2月、文部次官から出された通牒(通達)によって中等学校における正式科目として滑空練習が奨励されている。滑空練習には教材となる滑空機が必要で、各校に1機は配備されていたという。その機体の設計は文部省が自ら行っていたのである。

当時の滑空練習には、航空思想を養うことや飛行機操縦の適性を検査することなどが期待されていたという。「航空思想」という言葉は、戦前の軍国主義下の概念である。今となっては理解し難く、荒唐無稽な思想である。

滑空練習が正式科目になっていたのは、軍用機に乗る操縦士を養成するための下地としての役割を担っていたからである。操縦士としての適性を備えた人材の選抜や初期教育が中等学校に求められていたからであろう。

K-14型は、文部省式1型の後継機として開発されたものの、戦局の悪化により量産には至らず、数機の試作機が製作されただけで終戦を迎えた。

戦後、GHQの「航空禁止令」により、敗戦国日本では航空機の製造、購入、所有、飛行が禁止された。
飛行場は進駐軍に接収され、航空機や格納庫、訓練施設、設計図面などはすべて破棄された。また、航空機に関連した研究や実験、教育も禁止され、航空関連の組織も解散が命じられた。
こうした一連の措置により、滑空機や模型飛行機をも含めたいかなる航空機も国内で設計・製造したり、飛行することが一切できなくなった。そんな冬の時代が何年も続いた。

1952(昭和27)年4月、GHQによる航空機の製造禁止令が解除された。進駐軍に接収されていた旧軍需工場も返還され、航空工業の再開への扉が開かれた。

同じ時期に滑空機の設計や製造も再開された。廃棄を免れて設計技師の手元に残されていたK-14の図面を元に、細部改良が施され、1953年に霧ヶ峰式はとK-14型として再生産された。

戦後の再生産に際して、機種名に「霧ヶ峰式」と「はと」の二つの言葉が加えられた。霧ヶ峰式の「霧ヶ峰」は機体製作所の名前でもあるが、グライダー発祥の地である長野県の霧ヶ峰高原のことも意味しているのであろう。霧ヶ峰は気流がよく、日本におけるスポーツとしてのグライダー発祥の地である。戦前から滑空場が整備され、全日本規模のグライダーの競技大会が開催されてきた。
もうひとつの「はと」は、言うまでもなく平和の象徴である。不幸にも戦争や殺戮の道具として使われてきた航空機の平和利用を願ってのことでああろう。

霧ヶ峰式はとK-14型の生産に歩調をあわせて、1952(昭和27)年に各大学の航空部によって構成される日本学生航空連盟が再発足した。学連は、霧ヶ峰式はとK-14型を何機か購入しており、1952年12月にJA0018など数機が登録されている。霧ヶ峰高原でも関東の加盟校を中心に滑空練習が再開された。

このようにして誕生した霧ヶ峰式はとK-14型は、航空機の平和利用と戦後のスカイスポーツの礎となる記念碑的な役割を担った初級滑空機であった。

大工大航空部の霧ヶ峰式はとK-14型 JA0136 淀号

 淀川河川敷を飛ぶ「淀」号 淀川河川敷を飛ぶ「淀」号

大阪工業大学航空部の以前のサイトには、同部が霧ヶ峰式はとK-14型を購入した当時のことが記されていた。

木製の初級滑空機といえども、K-14型の完成機は当時28万円もしたそうである。当時(昭和27年)の大卒の国家公務員の初任給は7千650円だったので、約3年分の給料とほぼ同じ額である。
購入費用を少しでも抑えるために、完成機よりも4万円安い自作キットを買って部員たちが自ら製作したという。
完成までには4年の歳月を要し、1957(昭和32)年5月、淀川河川敷での試験飛行に成功した。同年6月8日にJA0136として登録され、「淀」号と命名された。

部員らが製作に要した年数からみて、キットを購入した時期は、おそらくGHQによる航空機の製造禁止令が解除された直後か、その翌年あたりであろう。
なお、「淀」号の製造番号は、霧ヶ峰式はとK-14型のトップナンバーの「1」である。
ただし、登録番号を検索できる「JA Search」というサイトをみると、製造番号「1」のついた同機種はほかにもあって、別の機体にもトップナンバーが付与されているようだ。また、「1」以外にもダブっている製造番号がある。同じ番号がある理由はよく分からないが、キットと完成機、あるいは組み立てた工場ごとに、独自のシリアルが振られていたのであろうか?

ちなみに、霧ヶ峰式はとK-14型の最初の登録機はJA0018で、1952年12月に日本学生航空連盟によって登録されている。この機の製造番号も「1」である。
いっぽう、登録記号がひとつ若いJA0135は、1957年7月に登録された学習院大学の霧ヶ峰はとK-14型で、こちらは製造番号38の完成機である。
これらの登録時期と製造番号から判断すると、約4年半の間に40機前後の霧ヶ峰はとK-14型が登録されていたことになる。

また、同じ時期に大阪周辺を定置場として登録された同型機として、次の各機がある。
・JA0031 1952年11月 大阪グライダークラブ 製造番号3(重複)
・JA0111 1955年7月 日本学生航空連盟 製造番号32
・JA0116 1955年9月 日本学生航空連盟 製造番号31※霧ヶ峰式はとK-14A
・JA0122 1955年10月 同志社大学航空部 製造番号33

このうち同志社大学のJA0122は「アローヘッド」と命名され、淀川の上流域を流れる木津川の玉水橋付近で滑空練習に使われていた。約25年前に復元整備され、現在は田辺にある航空部の格納庫で保存されているそうだ。

「淀」号はもう一度淀川上空を飛べないだろうか?

発航場所に運ばれる霧ヶ峰式はとK-14型 着陸後、台車に乗せて発航場所に運ばれる淀号

この「淀」号は、約10年間にわたって大阪工業大学北側の淀川河川敷で練習に使用された。ここに掲載した写真は、いずれも淀川の河川敷で練習中の様子を1961年に撮影したものである。
場所は、大工大よりも少し上流側で、現在、豊里大橋が架かっているあたりであろう。

初飛行から60年以上経過した現在でも、「淀」号の機体は同部によって保管されているという。登録番号も抹消されていないようである。同部のサイトによると復元整備して飛ばす計画(構想)があるようだ。

 淀川 平太の渡し付近当時の淀川の様子
現在の豊里大橋付近には橋がなく、平太の渡しが両岸を結んでいた

当時、淀号の操縦桿を握っていた部員の方は、現在(2021年)ご健在なら80歳前後である。復元された機体でもう一度、淀川の空を飛べたら、さぞかし嬉しいだろう。

ネット動画をみていると、国内には90歳を超えても自家用小型機の操縦桿を握っておられる老練なパイロットもおられる。
工業系大学の卒業研究として自作したプライマリーの試験飛行で得られたデータや知見をまとめた論文もネットで公開されている。論文によると、ゴム索発航に必要なバンジーコードの入手は、現在も可能なようである。

豊里大橋付近の淀川河川敷様変わりした淀川の河川敷 【撮影:1999年】
1970年に豊里大橋が架けられ、高水敷にはグラウンドや公園が整備された

ただし、昔と違って淀川の河川敷は、すっかり様変わりしてしまった。河川公園として整備され、グラウンドや遊歩道などを利用する人々で賑わっている。
滑空場や場外離着陸場ではない場所での離着陸や、不特定多数の人が利用する公園での滑空練習は禁止されているはずである。しかし、理解ある管理者による特段の配慮が得られるならば、法令の制約をなんとかクリアできるかもしれない。
チャレンジしてみないと何とも言えないが、淀川での滑空も実現不可能な話ではないと思う。

もし飛ぶことができるならば、一時利用の許可を取得して河川敷の一角を借り切り、同志社大学の「アローヘッド」と大工大の「淀」の2機でプラマリーの滑空大会を開催してみては如何だろうか?

●大阪工業大学体育会航空部
https://oitkoukuubu.wixsite.com/oit-soaringteam

淀川を飛んだ先輩格の初級滑空機がいた

最後になってしまったが、この記事の公開直前に新しい情報が得られたので付け加えておく。
今回、初級滑空機や大工大の淀号のことを調べるうちに、淀号よりもさらに15年ほどまえに淀川の上を飛んでいた先輩格の滑空機があったことがわかった。

「霧ヶ峰式はとK-14型の開発史」の項で少しふれたが、初級滑空機を用いた滑空練習は、戦前の中等学校の正式科目として文部省から推奨され、全国の中等学校で滑空訓練が実施された。

淀川の空を飛んでいたのは、名門北野高校の前身である旧制北野中学校の生徒らによって組織された部の滑空機である。その活動について、北野高校OB会のサイトのなかに「六稜クラブ活動小史 グライダー部」として概要が紹介されている。

同サイトによると、1941(昭和16)年5月に北野中学校報国団国防部滑空班という組織が創設されたとある。6月30日に朝日新聞社から2機の初級滑空機の寄贈を受け、滑空訓練を開始したと記されている。
使用した滑空機は光式三型という機種で、「北中第1号」「北中第2号」と命名され、1941年秋の運動会で練習の成果が披露された。掲載されている飛行中の写真は少し不鮮明だが、大きさやシルエットは霧ヶ峰式はとK-14型とよく似ている。

滑空練習は、学校から約5㎞離れた淀川右岸にあった「豊里滑空場」で行われた。戦後、大工大が淀号を飛ばしていた左岸の河川敷の対岸のあたりであろう。

1942年に大阪市が撮影した空中写真が大阪市の重要文化財として公開されている。その空中写真をみると、平太の渡しの豊里側の乗船場(HR)から堤防に向かって真っ直ぐな小径が延びている。その小径が堤防に突き当たる手前の下流側の高水敷に、滑空場として使われたような、あるいは滑空練習の場に適した細長い裸地ある。裸地の長さは約250mほどである。

地面はおそらく砂地か丈の低い草地になっているのだろう。部員が2組に分れて2機の初級滑空機をそれぞれ飛ばしていたのならば、広さはちょうど一致する。

いっぽう、滑空場の少し下流側の右岸の堤内地の赤い円で示した場所には、格納庫と思われる建物がある。白っぽい屋根で、東西に2棟並んで建っている。間口は約10m、奥行きは15mぐらいで、練習に使っていた滑空機が入る広さである。

格納庫と滑空場の間には堤防の土手があるが、土手の法面には、滑空機を部員らが担いで運んだ際につけられたと推定される踏み跡も認められる。

豊里滑空場
豊里滑空場付近の淀川河川敷 【大阪市撮影:1942年】
豊里滑空場の正確な場所は不明だが、平太の渡し付近の
右岸にある裸地の可能性が高い
H:平太の渡し HR:右岸の船着き場 赤い円:格納庫?

滑空班に在籍した部員数は創設時5年生だった55期生から60期生までの計62人だった。20人ぐらいで左右二手に分れてゴム索を引っ張り発航させた。滑空機の操縦には順番を待たねばならず、2時間に1回操縦できればよい方だったと書かれている。

敗戦とともに報国団国防部滑空班は解散となった。2機の初級滑空機はGHQの命令により豊里滑空場で焼却処分された。炎に包まれていく滑空機を最後の部員となった60期生が見守ったという。戦争中の僅か5年間の活動であり、GHQの廃棄命令などにより活動の記録もほとんど残っていないようである。

詳しいことはわからないが、敗戦後の飛行機の空白期と淀川の流れを挟んで、豊里大橋付近の淀川の両岸の河川敷で、生徒や学生が操縦する初級滑空機が飛んでいたというのは、少し不思議なめぐり合わせでもある。

このほか、戦前、大阪工業大学の前身にあたる摂南高等工業学校(のちに摂南工業専門学校)の滑空部が、文部省1型、アカシア式初級など初級滑空機を保有し活動していた。淀川河川敷で滑空練習を行っていたとみられるが、いまのところ詳細は把握できていない。

●北野高校OB会のサイト(六稜クラブ活動小史 グライダー部)
https://www.rikuryo.or.jp/magazine/no26/34.html


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