「文は人なり」「書は人なり」
「墨跡(ぼくせき)」とは、広義には、筆で書かれた書跡を指す言葉である。
また、狭義には、「禅林墨跡」などといって、禅宗の高僧による書跡のことを示す場合もある。時代として、漢字が生まれた中国大陸においては千年以上もむかしの宋や元の時代、わが国では鎌倉時代から江戸時代にかけての僧侶の書跡をさすことが多い。
「わび茶」は、禅宗の影響を大きくうけながら、村田珠光や千利休などによって完成された日本の伝統文化のひとつである。その茶室の床飾りには、墨跡が重用されてきた。このような墨跡は、単に書としての巧拙に注目するだけでなく、書を著した人の人間性を含めて鑑賞されてきた。
ところで、「文は人なり」という言葉がある。
その意味は、文章を見れば、書き手の人となりがわかるということである。18世紀フランスの博物学者ビュフォンが、アカデミーフランセーズへ入会する際の演説「文体について」の中で述べた一節が有名になったものだという。
よく似た言葉で「書は人なり」という言葉もある。
こちらは、書いた人の人柄や教養を表すという意味で使われることが多いといわれている。
違いの分からない男には、「文は・・・」と「書は・・・」の違いがよく分からないが、いずれも書き手の人柄などが反映されたものという意味であろう。一般的に、書は文よりも短いことから、書は書き手の人柄がより凝縮されたものなのかもしれない。
初代大坂船奉行所
『大坂町中並村々絵図』部分 (国立国会図書館蔵)【1665年頃】
赤丸で囲んだところに初代大坂船奉行所が置かれた
ときは江戸時代に遡る。
西国諸国や北回り航路などから荷を積んで大坂に向かう船は、今のように大坂湾から安治川を通って直接、市内に入ることができなかった。現在の安治川がまだ開かれていなかったことから、船は迂回するような航路を強いられ、伝法川や正蓮寺川、尻無川(現在の六軒屋川)から逆川を経て淀川(大川)に入り、大坂市中の堀割へ向かっていた。
1620(元和6)年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けた。上に掲げた絵図に水色で描かれている一角である。
四貫島は大阪湾と大坂市内を結ぶ航路の要に位置することから、幕府が諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向を監視するには最適の場所であった。この地は、のちに「初代大坂船奉行所」と呼ばれることになる。
その後、1684(貞享元)年、河村瑞賢によって九条島を東西に貫いて直線化した安治川が開削された。このことで大坂市内の舟運の便は飛躍的に高まった。大坂へは安治川を通る最短経路で出入りするようになり、以前のように伝法川を経由する船は減少した。
翌年の1685(貞享2)年、幕府は四貫島と木津川口にあった船番所を廃止し、新たに九条村本田の北端に「川口船手奉行所」を設置した。安治川と木津川が分派する端建藏橋の南詰、現在の西区川口2丁目のあたりになる。
浪速の河畔に名書あり?
どこで耳にしたのか忘れてしまったが、大阪市福島区を流れる六軒屋川のほとりに、素晴らしく威勢のいい墨跡を刻んだ石碑が建てられているという話を聞いた。
禅宗の高僧の手になるものではないが、現世でそれなりの地位を歴任された方の筆である。
巷の噂では、「芸術は爆発だ!」の誉れ高いあの大先生の作品に匹敵するようなパワーがみなぎる素晴らしい書であるらしい。
そんなパワフルな芸術作品が存在するならば、目の見えるうちに是非とも間近で拝観したいと思っていた。しかし、長引くコロナ禍の影響で、彼の地になかなか足を運ぶチャンスがなかった。日々、書跡への思いは募る馬鹿りであった。
先日、帰省した折り、市内滞在中に少し時間ができたので、JR環状線に乗って書跡を拝観してきた。
西九条駅から西に歩くこと数分、流頭部をもぎ取られてしまった六軒屋川を渡る朝日橋の西詰にその書跡を石に刻んだ碑があった。

あいにく六軒屋川の水辺は、耐震対策工事のため雑然としていた。工事看板によると、高潮や大地震の時に来襲する津波から住民の安全を確保するための工事だという。24億円を投下した府の大事業である。
しかし、残念ながら都市河川特有の鋼矢板とコンクリートの直立した護岸に囲まれた水辺には、旧跡の由緒も川らしい風雅もほとんど感じられなかった。
さて、その川というか、大きなドブのような水路のほとりには木立があり、御影石の基壇のうえに立派な碑が設えられていた。高さはゆうに背丈を超えている。碑のシルエットは、遠目に見ると墓石のようにも見えないことはないが、「初代大坂船奉行所之墓」という文字は見当たらない。

川に面した表面には、墨跡をそのまま刻み込んだ『初代 大坂船奉行所跡』の文字があった。碑の裏面には、書をしたためた高名な人の名が刻まれている。
うむ、書には勢いがあって、確かに力強い!
墨入れされているので、力強さは際立っている。
しかし、万博公園にある「芸術は爆発だ!」の人の作品のようなオーラは感じられない。また、美も一切感じられない。但し、美を感じられないのは、見るものの美意識に原因があるからかもしれない。
率直な感想をそのままここに書くことは控えておく。その理由は、書は書き手の人柄がより凝縮されたものなのだから、個人的な所感といえども下手なことを書くと、名誉を毀損することになりかねない。
もし、そうなると侮辱罪で告訴されたり、名誉毀損で損害賠償請求の民事訴訟を起される可能性もある。書をしたためた人は、なんと言ってもその分野の喧嘩のプロである。
「百聞は一見に如かず」というけれども、東風にのってほのかに聞こえてきた「素晴らしい書」という話は、やはり風評であったようだ。
この一文を書くために改めて碑の墨跡の写しを眺めていて、ひとつ気づいたことがある。
それは裏面に刻まれている4つの文字のうち、一番最後の「書」の文字だけが安定感のある筆致であることである。他の文字のように、どこかアンバランスなところは見受けられない。言い換えれば、正しい筆順と筆づかいで書かれた文字のみがもつ漢字としての調和と風格が際立っていることである。
石に刻むということ
史実や土地の由緒を後世の人々に伝えていくことは大切なことである。伝える手法には、紙に書く、木に彫りこむ、石に刻みこむ、などがある。さらに、最近だと電子媒体にアーカイヴするといった新しい方法も普及している。
さまざまな手法のなかで、石に刻むというのは、プリミティブではあるが最も手間がかかる方法である。その代わり、他の方法に比べて永続性も担保されている。三陸沿岸部の各地に建立されている津波被害の履歴を伝える石碑は、その代表例でもある。
さて、この石碑によって、江戸時代、この地に船番所が置かれたことは、多少の天変地異があったしても後世に伝わっていくことであろう。
と同時に、この書家の名と墨跡も残っていくことになる。
記念碑や石碑の建て方には、いろんな手法がある。
跡地の位置さえ示せばよいという考えで、このような無味乾燥な形になった碑もあれば、そうでない碑もある。彫刻などで意匠に工夫を凝らして華美にする必要性は低いが、対象物に対する建てた人の思いが形となって現れ、教養や文化の程度がさりげなく滲みでるモノなのかもしれない。

1時間ほどかけて往復したものの、期待した墨跡は拝観できなかった。うーん、時間と交通費が無駄になってもうたと反省しつつ、西九条から外回りに乗って天満まで戻った。
手ぶらで戻るのもアレなので、商店街を少し歩いたところにある『うまい屋』に立ち寄り、口直しにおやつを食べて帰宅することにした。
とんかつソースやマヨネーズを口にする機会の少なかった幼少のころから親しんだこの素朴な風味は、やっぱし大阪の味。じつにうまかった。
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