対岸の火事

対岸の火事

対岸の火事
堂島川の右岸で発生した昼火事

父が写した大阪の写真のなかに、ちょっと目を引くカットが何点かある。
そのひとつが、この昼火事の写真である。

堂島川の右岸にある工事現場のプレハブの建物が炎に包まれている。
左奥にみえるレンガづくりの建物は、大阪控訴院の一角、現在の大阪高裁である。右手の白っぽいビルは天満警察署で、いまも同じ敷地にあるが、建物は6階建てのモダンなビルに建て替えられている。

父は、この頃、カメラを2台持ち歩いており、1台にはカラーポジ、もう1台にはモノクロのネガかポジを入れていた。

火事のシーンは、モノクロのフィルムには3カットあるが、カラーにはたった1カットしかない。
たぶん、カラーのポジフィルムが高かった時代なので、連写を控えたのであろう。
それでも、ほぼ一発撮りで撮り損ねていないのは、戦前から戦時中も含め、ずっとカメラを持ち歩いていた経験のなせる技であろう。

火事の直前のカットには、難波橋や鉾流橋、中之島公園の噴水などが写っているので、中之島での撮影を終えて、堂島川の左岸を大江橋方面に向かって歩いている途中で、偶然、火災現場をみかけたものと思われる。

よく燃えるプレハブ
燃え尽きつつあるプレハブの建物

紙のように燃えさかっている建物は、高度成長期にあちこちでよく見かけた淡いグリーンのプレハブである。現場事務所なのか作業員宿舎なのかはわからない。
いずれにしても、内装にはよく燃える薄いベニヤ板が張られているはずである。外側は薄い鉄板なのに、火の勢いが強いのもそのせいかもしれない。出火からあまり時間が経たないうちに、燃え尽きてしまったのだろう。

工事現場付近には台船やクレーンが何台かみえるが、建物の新築工事ではない。堂島川に沿った堤防を嵩上げして、高潮の際に市街地を守るための防潮堤防の建設工事である。
戦前に大阪を襲った室戸台風や1950(昭和25)年のジェーン台風のときのような高潮被害から市街地を守るために、1960年代には大阪市内を流れる河川の堤防の嵩上げ工事が急ピッチで進んでいた。燃えている建物の手前に見えている白い壁のようなものが、嵩上げされたコンクリートの堤防である。

対岸の火事
川があるので火の粉は飛んでこない

火事場につきものの野次馬は市の中心部の割には少ない。
鉾流橋の上に数十人の姿が見えるが、天満警察署の建物には、屋上に人影が一人確認できるだけで、仕事をほったらかしにして窓から火事を眺めているような不届者はいない。さすが警察官である。

父がこの写真を撮ったのは、1964(昭和39)年7月3日のことであった。
むかしはこういったシーンに遭遇しても、対岸の火事として、我が身に火の粉が降りかかる心配もせず、眺めていることができたのである。

この火事から60年近くが経過した現在、堂島川の川幅よりも何千倍も広い日本海を隔てたユーラシア大陸の、しかも日本海に面した海岸線から約7000㎞も奥に入った西の果てで、戦争の火が燃え始めて4ヶ月が経過した。
日本からの距離は8000㎞前後もあるので、対岸の火事には違いがない。しかし、昔と違ってその影響はボディブローのように効き始め、ガソリン価格や電気料金、小麦の価格などで徐々に顕在化しはじめた。

今年の夏は、対岸の火事の影響で、電気の供給量や諸物価の上昇を気にしながら、鉄管ビールとうちわに頼って過ごさなければならない暑い夏になるのかもしれない。

はやく火を消して欲しいものである。


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