中之島の空と川(その1)

東に伸びてきた中之島


堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島

中之島は、堂島川と土佐堀川とに挟まれた東西に細長い島である。
もともとは、淀川によって上流域から運ばれてきた土砂が、流れのゆるやかになった場所に堆積してできた中州もしくは寄州(砂礫堆)だったのであろう。

二つに分れた淀川のうち、北側の流れは堂島川という名であるのに対して、土佐堀川には「堀」という文字が入っている。もしかしたら、中之島の原形は自然がつくった中州ではなく、寄州なのかもしれない。
すなわち、寄州の内湾側にあった流路痕(サイドプール)などの窪みをつなぐように開削して、堀川にしたのが土佐堀川の原形なのかもしれない。そう考える理由のひとつは、中之島付近の堂島川の湾曲の度合いや木津川との連続性である。土佐堀川の河道の平面形も少し不自然なところがある。それらに注目したとき、人工的に掘られた堀川である可能性を否定できないからである。

また、中之島の形は、笹の葉やヨシの葉と似てなくもない。また、「だんだん伸びて大きくなった」という点も、葉っぱと同じである。

中之島の原初の形ができたばかりのころは、水位があがると冠水したり、水没したりしていたのだろう。長い長い歳月にわたる自然の営為によって、規模が大きくなって安定してきた。そこへ、川に挟まれた土地をうまく利用してやろうという絶え間ない人間の働きかけが加わった。堤防や護岸を築いて水災害のリスクを軽減し、大小のビルが林立する現在の姿になった。

江戸時代の中之島

ヨシの生い茂る荒れ地だった中州を開発したのは、淀屋こと岡本三郎右衛門常安(おかもと さぶろうえもん じょうあん)【1560?~1622】である。のちに近世の大坂を代表する豪商として繁栄を極め、今も淀屋橋や常安橋にその名を留めている。

淀屋初代当主の常安は、もとは山城国岡本庄の武家の出身である。
秀吉がすすめた伏見城の造営や淀川の堤防工事において、類い希な才覚を発揮し、土木屋として采配を振った。のちに大坂の十三人町(現在の北浜四丁目)に移り、「淀屋」を名乗って材木商を営んだ。
中之島の開発は常安晩年の大仕事であった。1619(元和5)年にかけて干拓工事が行われ、川沿いに諸藩の蔵屋敷が建ち並ぶ大坂の経済基盤の基礎が築かれた。

淀屋は、中之島に米市を開き、中之島に渡るための橋を自費で築いた。いわゆる「私設橋」である。
公儀橋や他人に頼ることなく、自費でというのが大坂商人の真骨頂でもある。
米市場が発展するにつれて、現物ではなく手形で取引されたが、中之島には全国から集まる米を貯蔵するための各藩の蔵屋敷が建ち並んだ。淀屋も代を重ねながら隆盛を極めていった。

江戸時代初期の中之島江戸時代初期の中之島
『大阪町中並村々絵図(部分)』1665年ごろ出版
(国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代の初期に発行されたこの絵図に描かれている中之島は、現在よりも東西方向が短い。頭に相当する上流側の先端は、栴檀木橋の少し上流のあたりで、現在の中央公会堂付近になる。

南を流れる土佐堀川は、狭い堀割のように描かれている。土佐堀川には、栴檀木橋、淀屋橋、肥後橋、筑前橋、常安橋など6つの橋が架かっている。
いっぽう、堂島川には橋がなく、川幅も中之島の東端付近で70間(約125m)と記されている。現在の2倍以上の川幅がある大きな川として描かれている。堂島の地名の由来となった北側の島は、少しいびつなサツマイモのような形をしている。

江戸時代後期の中之島
江戸時代後期の中之島

『増脩改正攝州大阪地図(部分)』1806年出版
(国立国会図書館デジタルコレクション)

先の絵図から約150年経った1806年に出版された古地図をみると、中之島の東の端は上流側に約150m伸びていて、難波橋よりも少し下流あたりに位置している。但し、この頃の難波橋の架橋地点は、現在の難波橋が架かる天神橋筋よりも一筋西側である。

この当時、中之島の先っぽは、「山崎の鼻」と呼ばれていた。
「山崎」は、中之島の先端付近にあった備中成羽藩(現在の高梁市成羽町)の山崎氏の蔵屋敷が建っていたことに由来している。「鼻」は、天狗の鼻のように突き出た先端部という意味である。

明治の中之島

明治になってしばらくした1879(明治12)年、山崎の鼻のあたりに豊國神社が造営された。太閤秀吉を祀った神社を建立し、それを客寄せパンダにして、中之島に参詣客を呼び込もうという目論見であろう。
むかしのまちは、大なり小なり神社仏閣の恩恵を受けながら、社寺の門前町として発展してきた。大の代表例は、日光や浅草、伊勢である。小の例には、大阪近郊でいえば、箕面(勝尾寺)、石切(石切劔箭神社)、野崎(野崎観音)などがある。

秀吉を祀る豊國廟は、もともと京都の東山、京女坂の東側にある阿弥陀ヶ峰(196m)の山頂にあった。
それを大阪に遷座しようとしたのだが、社寺と観光で飯を食べている京都の人々が猛烈に反対した。そのため遷座を断念し、別社として豊國神社を創立したという経緯がある。遷座といえば聞こえが良いが、実質的には横取りしようとして京都の人達から総スカンをくらったのだろう。

京都と大阪は距離も近く、淀川伝いに繫がっているが、風土も気質も言葉も食事も価値観も異なる。両者の関係は、むかしも今も水と油のようなものである。淀川沿いに水と油を結んで1世紀以上になる「おけいはん」の縁結びの力は、なかなかのものである。

その「おけいはん」は、開通当初のころは、中之島よりも上流側にある天満橋にあった地上駅が大阪側の起終点だった。その後、地下にトンネルを掘り進め、1963(昭和38)年に淀屋橋駅まで延伸し、さらに2008(平成20)年10月には、天満橋駅から分岐して、中之島の西部に立地する大阪国際会議場付近の中之島駅までの約3㎞を地下トンネルで結ぶ中之島線を開通させている。

中之島【1908】明治晩期の中之島
陸測2万分の1地形図「大阪東北部」1908年測図、1911年発行
陸測2万分の1地形図「大阪西北部」1909年測図、1911年発行

これは、明治も終りに近づいた1911(明治44)年に発行された2万分の1地形図である。
中之島の先端は難波橋のところで、その位置は100年前とそんなに変らない。

このころには、毛馬から大阪湾に向けて新淀川が開削されている。毛馬の洗堰で大川への流れの量が制御され、主な流れは新淀川に流されるので、明治中期以前に比べると大川の流量は減っていたはずである。

大正から昭和にかけての中之島

昭和初年の中之島
陸測1万分の1地形図「大阪首部」、1929年修正測量、1932年部分修正

これは、1932(昭和7)年に部分修正された1万分の1地形図である。真ん中にみえるタテの白い筋は、拡幅工事中の御堂筋である。完成は地形図の発行よりもあとの1937(昭和12)年である。
いっぽう、中之島は天神橋のところまで伸びている様子が精緻なタッチで描かれている。
1913(大正2)年には中央公会堂ができており、以前、その場所にあった豊國神社は、府立図書館の西側に移転している。

中之島の伸びた部分は、天満堀川の南側で東西二つに分れているが、これは現在も同じである。

川の流れには、山の表土や川岸の土砂を削り、それを下流に運んで、流れのゆるやかなところに堆積する働きがある。
たった20年の間に、自然の営力だけでこんなに土砂がたまって島が大きくなるわけがない。
つまり、難波橋から天神橋へ伸びた区間は、人間がつくった人工島である。
この人工島は、大正時代の淀川低水工事の際に浚渫した土砂をつかって埋立てられたものである。
低水工事というのは、治水を主な目的とした現在の河川工事とは異なり、舟運路として河川を使いやすくすることを主目的とした河川整備である。川底に溜まった土砂を浚渫したり、流れの位置や速さを航行に適するように制御するためにケレップ水制を設ける工事が行われた。旭区にるワンド群は、低水工事で設けられたケレップ水制の名残である。また、中之島公園は、浚渫した土砂で人工島をつくり、そこを市民の憩いの場として整備したものである。

同じ人工島の利用でも、後世に残る都市公園をつくったのが昔の大阪人であった。賭博場をつくって禍根を残すのが今の贋大阪人である。情けないことだ。

最初の絵図から約350年が経過した現在では、剣先公園の先端は天神橋よりも約90m上流にある。
中之島は、約350年で570mほど伸びたことになる。

現在、中之島の東西方向は頭から尻尾まで約3.3㎞もある。それに対して南北方向の幅は、剣先と呼ばれる東端はともかく、市役所のある御堂筋付近で約120m、最も広いなにわ筋のあたりでも330m前後しかない。

背は伸びたけれども太らない、すらりとしてなかなか理想的な体型を維持しているようである。

■中之島の空と川(その2)へつづく


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