中之島の空と川(その2)

中之島は東西に細長いため、便宜上、中之島を3つのエリアに区分して話をすすめる。

ここでは、御堂筋より東側(中之島一丁目)を「東部」、御堂筋となにわ筋との間(中之島二~四丁目)を「中央部」、なにわ筋よりも西側(中之島五~七丁目)を「西部」と呼ぶ。
奇しくも、淀屋と関連の深い淀屋橋と常安橋がそれぞれの境目となった。但し、このエリア区分や境界は、一般的なものではないことを付記しておく。

1960年代の中之島図書館周辺

1960年代に父が撮った中之島界隈の写真が手元に残っている。
1964年に部分開通した阪神高速1号環状線の工事が始まる前のものもあるので、古い写真は1961年から1963年ごろにかけて撮影したものと思う。

大阪府立中之島図書館
60年代はじめの中之島図書館周辺【撮影:1962年頃】

手前右の建物は大阪府立中之島図書館である。

いまは西側に邪魔な建物が建っているので、このような角度で全貌を見渡すことはできない。

図書館を覆うように建てられた市役所本庁舎駐車場の跡地で建設が進む現庁舎の東半分【撮影:1981年頃】

現在の大阪市役所庁舎を設計したのは、日本で最も優秀な設計会社である。なのに、なぜ先人(先輩でもある)が多大な知と財を投じてつくった建物の正面を覆い隠すような箱モノをつくってしまったのか? せめて、東側に視点場となる中庭のような空間を設けた凹型の平面形にして、図書館の全容を正面から眺められるような配慮ができなかったのであろうか。

まぁ、施主が効率第一主義の「あほんだら」ばかりならば、致し方のない話である。時代や部局は異なるが、のちに無駄の象徴となったWTCビルは、市の「あほんだら」連中による必然の産物でもある。

ところで、金がないと建設を渋っていた府議会に代わって、箱と中身を寄贈したのは、住友家十五代当主、住友吉左衞門友純である。1904(明治37)年に本館が、次いで1922(大正11)には住友家の寄付で本館の南と北に両翼が増築された。

設計は野口孫市と日高胖で、建築を担当したのは住友本店臨時建築部であった。ゆかりの深い住友グループ広報委員会のサイトには、次のような説明文が記されている。
「1904年に建てられたこの図書館は、ギリシャ・ローマの神殿建築様式を忠実に踏襲した新古典主義の代表的建築として知られる。コリント式の巨大な円柱と梁、それに支えられた三角形のペディメント、そしてふんだんに添えられたアカンサスをモチーフにした文様。そのすべてが、ギリシャ以来の建築の伝統にのっとっている。」
つまり、どこを見ても手抜きのない本モノの神殿である。

父の撮った写真をよく見ると、知の殿堂である正面玄関の階段下に、大型のタンクローリーが横付けされている。畏れ多くも神殿の玄関だというのに、場所柄をわきまえない不徳な運転手である。
もしかしたら、緊急用の飲料水を運搬する大阪市の給水車で、公務中なのかもしれないが、いかにも違法駐車のメッカである大阪の象徴ともいえる光景である。

この図書館には、高校時代、北棟2階の自習室にほぼ毎日通って勉学に励んだ。
ロッカーの数で入館者数を管理しており、並んで待つこともあった。席にありつけると勉強に備えてまずは机に伏して体調を整えることも多かった。また、席を確保したあと一時外出して梅田の繁華街で指の運動をしていたこともあった。

図書館の正面玄関の扉は、なぜか常に閉ざされており、階段脇の勝手口から入館時するしきたりであった。
カウンターでロッカーの鍵を受取り、鞄などの所持品はロッカーへ収納し、持ち込み本をみせてから館内の部屋に向かう。退館時には、入館時に持ち込んだ本をみせて、図書館の本をパクッていないことを係員に示して、荷物を置いたロッカールームに戻るのである。

入館と退館時のじつに面倒くさい手続きである。利用者を監視する役割を与えられた係員のおばはんや警備員がカウンターに陣どっているだが、そのえらそうな態度と、利用者を盗人と疑うような陰湿な目つきだけは、半世紀以上たってもよく覚えている。

図書館の西側は、当時、大阪市が公用車の駐車場として利用していた。屋根付の平面駐車場があるだけで、立体的な利用はなく、恒久的な建物も建っていない。

堂島川を挟んで左手奥に塔のある建物が見える。現在の大阪高裁に相当する大阪控訴院である。控訴院の建物は、1916(大正5)年の竣工で、中央部に聳える青銅ドームは高さ36mだった。この建物は60年近く使われ、1974(昭和49)年に現在の新しい庁舎に建て替えられた。

市役所の駐車場があったあたりは、中央公会堂建設の際に山崎の鼻から遷座された豊國神社が鎮座していた場所である。二筋の川と鎮守の森に囲まれて、大都市のど真ん中とは思えないような静かな場所だったのであろう。
ところが、1961(昭和36)年、同社は大阪城の二の丸に遷座されることになった。近くとは言え、二度目の移転である。

豊國神社が二の丸に移転した理由は、1921(大正10)年に江之子島から中之島に移転してきた大阪市役所が、庁舎を増築するために立ち退きを迫ったという。豊國神社は、もともと中之島に人を呼び込むために京都にある豊國神社の別社として創建されたものである。
創建後、二度にわたる遷座というか立ち退きを迫られ、太閤さんも粗末な扱いにさぞ困惑されたことであろう。もっとも、二度目の移転先は古巣の大阪城なので、もしかしたら喜んでおられたのかもしれない。
なお、余談であるが、この地にあった神社の社殿は、豊中の服部住吉神社に移築されているとのこと。

1960年代の中之島東部

中之島東部の剣先方向
60年代はじめの中之島東部、剣先方向【撮影:1962年頃】

この写真は、最初の写真と同じ場所から、カメラを東に振って中之島の剣先方向を撮ったものである。中之島の東端、つまり剣先は写真には写っていないが、難波橋を越えて天神橋へと続いている。
中央公会堂から剣先方向、難波橋へ向かって延びている道路は中之島通で、かつては豊國神社への表参道だった。

左端に中央公会堂、その右にあるのは大阪銀行協会の建物である。
銀行協会の場所には、1881(明治14)年に開業した西洋料理店「自由亭」があった。自由亭は、のちの1896(明治29)年に改装して「大阪ホテル」として営業していた。この大阪ホテルは、大阪で初めての洋風ホテルであった。皇族も宿泊するほど格式も高かったという。

1905(明治38)年、在阪有力銀行の協議会である大阪銀行集会所が、大阪ホテルの建物の東半分を買収して事務所を開設した。しかし、その建物は、何度か火災に遭っている。1924(大正13)、ボイラー室からの火災で西側のホテルともども全焼、焼失した。

ホテル火災による大阪銀行集会所の消失以降、再建に至るまでの間に不明な点はあるが、渋沢社史データベースの『大阪銀行協会史』の年表などから主な関連事項を抜粋すると次のようになる。

  • 1905(明治38)年 銀行倶楽部を集会所の事業として開設。
  • 1907(明治40)年 財団法人大阪銀行集会所設立を申請、8月22日許可。 8月28日集会所創立。
  • 1919(大正8)年1月11日 大阪ホテルより出火し、集会所建物が類焼。ホテルは大事に至らずホテル内に移転。
  • 1922(大正11)年2月11日 大阪銀行集会所建物竣工移転(中之島1丁目29番地、建築費323千円)、手形交換室も移し事務室と合一。
  • 1924(大正13)年11月13日 ホテルボイラー室より出火し、火災により全焼
  • 1961(昭和36)年9月16日 第2室戸台風の高潮被害で協会地下事務室へ浸水。
  • 1964(昭和39)年9月7日 第1回協会建物新築設計会議を開催(竣工までに40回開催)。
  • 1964(昭和39)年 9月25日 台風20号により地下の交換部事務室へ浸水、仮事務所を2階に設置。
  • 1965(昭和40)年10月15日 新築用地買収完了。
  • 1966(昭和41)年1月25日 協会建物新築の定礎式挙行

焼失した大阪ホテルの跡地に建てられたのが、写真に写っている大阪銀行集会所(のちの大阪銀行協会)の建物である。洋館というよりは羊羹のような四角い形で、小振りな2階建ての建物である。建物の西南角に螺旋階段があるのかして、角が曲面になっている。その屋上には、小さな円形ドームがみえる。

護送船団加盟銀行の頭取連中の集会所として使われた建物であったが、度重なる地下への浸水被害や建物の老朽化のため、1966(昭和41)年、銀行協会は中之島を離れて別の場所に移転した。古い建物は解体されて跡形もなく、今は中之島通に面した跡地に小さな石碑が残されている。銀行協会の建物が解体されてから、跡地は10年以上も未利用となっていた。

現在は大阪市立東洋陶磁美術館が建てられているが、美術館誕生に至った経緯は数奇である。

1970年代半ば、大手総合商社のひとつであった安宅産業が経営破綻した。カナダで製油所のプロジェクトを進めていたものの、オイルショックの影響を受けて失敗したからだと言われている。
安宅産業が1977年に伊藤忠に吸収合併されるまでの一連の騒ぎの中で、創業家が社費をつぎ込んで収集していた「安宅コレクション」の散逸が懸念された。
とくに陶磁器の散逸や国外への流出を防ぐため、文化庁の意にかなった異例の措置として、住友銀行の主導によりグループ各社が資金を分担し、寄付を受けた大阪市が安宅コレクションの陶磁器を購入した。と同時に、寄付金の運営利息で誕生したのが、いまの東洋陶磁美術館である。

大阪ホテルも銀行協会も、さらに東洋陶磁美術館も建物の高さは低く抑えられている。建てられた時代、建設技術、建物の目的、施主、設計者は異なるが、いずれも中之島という場をわきまえたみごとな見識である。

こうして中之島東部の空は、むかしも今も変ることなく、大きく開かれている。

■(その3)へつづく


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