中之島は東西に細長いため、便宜上、中之島を3つのエリアに区分して話をすすめる。ここでは、御堂筋より東側(中之島一丁目)を「東部」、御堂筋となにわ筋との間(中之島二~四丁目)を「中央部」、なにわ筋よりも西側(中之島五~七丁目)を「西部」と呼ぶ。
奇しくも、淀屋と関連の深い淀屋橋と常安橋がそれぞれの境目となった。但し、このエリア区分や境界は、一般的なものではないことを付記しておく。
肥後橋と朝日新聞社
肥後橋といえば、朝日新聞社である。
朝日新聞は、1879(明治12)年1月25日、大阪で産声をあげた。朝日新聞小史によると、創刊当時の社屋は、江戸堀にある棟割り長屋の1軒だった。紙面は僅か4ページ、発行部数は約3,000部だったという。
その後、1885(明治18)年、中之島にあった宇和島藩の蔵屋敷を購入して社屋に改装し、現在に至る地盤を整えた。江戸堀から肥後橋に移転した当初の社屋は、旧藩時代の木造の建物であった。

肥後橋と初代朝日新聞ビル【撮影:1962年頃】
時計塔の上に縦書きのネオンサインのある建物は、初代の朝日新聞ビルである。竣工は、1916(大正5)年で、父が撮影した時点で竣工から約45年が経過していた。
この初代朝日新聞ビルは、それまで使っていた蔵屋敷の建物が手狭になったため、鉄筋コンクリートの新社屋として建設された。屋上には時計塔を設置し、時計を持たない自由人にも時刻を知らしめた。塔の先端の高さは地上約40mであった。
右端に少しだけ写っているのは、初代朝日新聞ビルの北隣に建設された大阪朝日ビルで、1931(昭和6)年の竣工である。当時としては特例の10階建てで、屋上には航空灯台が設置されていた。航空灯台は、大阪市上空を飛ぶ航空機へ位置を知らせるための航法支援設備である。
正確で信頼できる報道と、読みやすい紙面が評価されたのであろう。発行部数は、右肩上がりでグングン伸び、社業も隆盛を極めた。北隣には大阪朝日ビルができているが、社屋が手狭になったのかして、時計塔を挟んだ屋上には1フロア分の部屋が増築されている。
初代の朝日新聞ビルは4階建てであった。地上13階・地下5階建てに拡大した2代目、2代目の跡地を再開発して高さ約200mの超高層タワーに生まれ変わった中之島フェスティバルタワー・ウエストと違って、じつにこじんまりとしている。
輪転機を回して朝夕2回、地道に新聞を発行していれば、購読料と広告収入で飯がくえたのであろう。昔、全国紙に勤務している知人が話してくれたが、新聞社勤務は時間に追われ、昼夜逆転の生活を強いられる過酷な労働とのことである。世間よりも多少高い賃金をもらったとしても、後々体を壊してしまうことも多く、割に合わない稼業とのことである。
ビルの玄関脇にはタクシーが並び、出番を待っている。記者が取材先に駆けつけるための車であろうか? それとも接待をうける役員連中がキタやミナミの高級料亭に出向くときに使う足であろうか?
旧社屋の古いビルは、1965年まで使用された。その後、1962~1968年にかけて2代目の朝日新聞ビルに建て替えられた。

肥後橋と2代目の朝日新聞ビル【1993年 撮影】
こちらは、今から約30年まえの肥後橋と朝日新聞ビルである。
この2代目のビルは、北隣の朝日ビルと同様に丸味を帯びた美しいラインを描いており、土佐堀川の風景ともよくマッチしていた。S字にカーブしながら土佐堀川を渡る高速道路の上には、広い空が残されている。
このころの朝日新聞は、今よりも数段読み応えがあった。左に傾いていたのは否めないが、それはそれとしてひとつの見識であり、今のようにネットで「アカヒ」などと揶揄されることもなかったように思う。

肥後橋と中之島タワー・ウエスト【2022年 撮影】
さて、こちらが現在の肥後橋と朝日新聞ビル跡地に建てられた中之島タワー・ウエストの偉容である。画像には片方のタワーの下から3分の1程度しか写っていないが、川沿いには四つ橋筋を挟んで、高さ200mの巨大なタワーがふたつ並んでいる。
足で取材して記事を書き、踵をすり減らして広告主を訪ね、インクにまみれながら輪転機を回して新聞を売るよりも、不動産賃貸業でテナントから賃料を取った方がずっと儲かるらしい。
なので、社屋もそのビジネルモデルに最適化した生産性の高い建物にしたのであろう。
でもね、「おたくの本業は不動産屋さん?」と訊ねてみたくなる。
近頃の紙面は面白くないし、掲載されている広告も品位にかけ、見苦しいこと著しい。
天下のアサヒがこんな立派なタワーを2棟も建てたものだから、まわりもそれに追随し、雨後のタケノコのように超高層が林立している。
右側の低いビルは、この大阪を代表する老舗企業グループの不動産屋さんである。そんなに古いビルではないが、ガラス張りの超高層に囲まれると、なぜかみすぼらしく見えてしまう。
土佐堀川の対岸から眺めたフェスティバルタワーは、かつてのフェスティバルホール壁面を飾った彫刻が、下層階の壁面に再現された美しい建物である。
もし、建物をホールとその上にある5層前後の大阪本社だけにして、テナントオフィスの中高層階を上に積まなければ、もっと美しく、落ち着いた佇まいになったはずである。
そして、営利に走らず、中之島の空を守った朝日不動産の見識も称賛されたはずである。
中之島の中央部から空を奪い、水都大阪の水辺空間をこんな風情にしてしまった朝日新聞社の功績は大きいと思う。
紙価をたかめるよりも地価を高め、社名を改めてどうぞ金儲けにしっかりと邁進してください。

大阪を代表する老舗企業グループの不動産会社をも凌駕する
不動産屋のツインタワー【2022年 撮影】
中之島の空は誰のもの?

中之島は水都大阪の象徴でもある。
可能なかぎり、水都の象徴空間としての歴史や文化などの地域個性を活かした形で適切に維持・管理され、利活用がなされるべきであろう。
現実はといえば、中之島公園に指定されている中之島の東部を除いて、その土地利用や景観は、水都としての理想型とは隔たってしまった。中之島だけでなく二つの川の対岸を含めて、土地所有者のそれぞれの意向に基づいて、新旧大小の建物が建ち並んでいるからである。
それらの建物が醸し出す景色は、統一感を著しく欠いており、中之島と調和したものであるとは到底思えない。
土地利用には、都市計画法などに基づく一定の法的な制約があるものの、基本的には所有者の意向に基づいた土地利用が行なわれている。それらをひと言でいうならば「目立ったもん勝ち」であろう。
なかには中之島の環境や景観形成に配慮して、抑制された意匠や形態の建物もあるが、今やそれは少数派である。
私有地なんだから法令の枠内でどう使おうが、何を建てようが、それは地主の自由であると言ってしまえばそれまでのことである。法の特例を利用すれば、さらに自由度は高まる。
ところで、「土地所有権」の基本的な考え方は、民法で次のように言及されている。
「土地の所有権は、法令の制限内において、その土地の上下に及ぶ。」(第 207 条)と規定されている。
そして、その所有権が及ぶ土地上の空間の範囲は、一般に、当該土地を所有する者の「利益の存する限度」とされている。
この場合の土地所有者の「利益の存する限度」の具体的範囲は、一律に設定することは困難であり、当該土地上の建築物や工作物の設置状況など具体的な使用態様に照らして、事案ごとに判断されることになる。というのが、民法での一般的な考え方とのことである。
しかし、考えてみるまでもなく、所有しているのは地べたの皮一枚である。容積率の枠内だからといって、上空何十メートルの空間までは土地所有者が好き勝手に占用できる権利はないはずだ。
こよなく自分を愛する土地所有者がいて、変な形や色の建物を建てたり、工作物を設置したりすると、その場所に備わっていた本来の空気感が損なわれる。その土地が川に隣接していれば、水辺の風景も台無しになる。

端的な例を示すと、1989年に東京の隅田川のほとりに出現した金色のウンコ雲である。
■中之島の空と川(その4)へつづく
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