大阪に関わる内容でもあるので、このたび『大阪のこと』のコンテンツとして再録した。再録に際して、おおさか東線開業後の状況について少し加筆した。
城東貨物線と赤川の鉄橋
淀川の下流に架かる『赤川(あかがわ)の鉄橋』。長さ約610mもあるこの橋の正式な名は、城東貨物線淀川橋梁といいます。
鋼製のトラス橋のなかは、下流側に貨物線の単線の線路が通り、上流側に木製の人道橋が設けられています。鉄道橋のなかに人道橋が居候しているちょっと変わった橋です。
この鉄橋が架けられたのは、昭和4(1929)年のこと。鉄道貨物輸送の拠点であった吹田(すいた)操車場と竜華(りゅうげ)操車場とを結ぶ貨物幹線の将来の輸送力増大にも対応できるよう複線幅の敷地を確保し、築堤や橋梁などの主要施設も複線用で建設されましたが、レールは単線分しか敷かれませんでした。
太平洋戦争の末期には、アメリカ軍のB29が輸送路を断つべく、おびただしい量の爆弾をこの鉄橋めがけて投下しましたが、幸いにも一発も命中しなかったそうです。
余っていた単線分のスペースを利用して、橋の少なかった淀川を渡るために歩行者や自転車が通れる仮設の人道橋がつくられました。蒸気機関車に引かれた長い貨物列車を間近に眺められる場所でしたので、小さいころからこの鉄橋に汽車を見につれていってもらったり、友だち同士で遊びにいったものです。
1948年米軍撮影の赤川の鉄橋付近
河原や市街地にたくさん分布する黒い●は爆撃によってできた爆弾池(大穴)
毛馬で空襲にあっている祖母からうるさく言われたことは、「赤川の鉄橋の所では絶対に泳いだらアカンでぇ」ということ。B29が投下したハズレの爆弾によって大穴が鉄橋付近の水面下に隠れていて、そこはすり鉢状に急に深くなっているため、子どもが溺れて何人も水死したことを聞かされました。
最近(注:2005年ごろ)、この人道橋はちょっとした名所になっていて、わざわざ渡りに来る人もたくさんいるようです。この城東貨物線を複線化し、旅客線に転用してひと儲けしようという大阪外環状線プロジェクトがJR西日本などで進められていて、人道橋の部分は近々にも廃止される運命にあると聞きます。
しかしながら、安全を軽んじたがために大阪近郊の福知山線で百余名もの犠牲者をだす大惨事を引きおこしてしまいました。重いツケを背負った今、新線の開業はもう少し先になるかもしれません。
写真はいずれも1967年の撮影。なお、一番下のカットは逆行の単機回送を通過後に撮影したもの。
ところで、ネット上では「赤川鉄橋」と言う人が多いようです。地元で育った自分としては、小さいころから聞き慣れた赤川と鉄橋の間に「の」を入れて「赤川の鉄橋」と呼んでいます。
赤川は、川の名前ではなく旭区の地名です。赤川の鉄橋から500メートルほど離れた赤川1丁目交差点にも市電の走っていた広い道路を斜めにまたぐ城東貨物線の鉄橋がありました。赤川1丁目の鉄橋の名前は知りませんが、トラスではなくガーダー形式です。鉄橋の色は時代によって異なり、むかしは緑色や錆止めの赤茶色に塗られていました。
最近の様子をグーグル・ストリートビューを見ますと、複線化された現在でもそのままの姿で残っています。色はグレーに塗られているようです。
赤川1丁目のガーダー橋 1967年撮影
・旧版公開:2005/05/08、改訂版公開:2017/02/27
晩年の赤川仮橋と新線の開業
赤川の鉄橋の中に設けられた「赤川仮橋」は、2005年ごろに閉鎖の噂がたちましたが、その後も何年かは渡ることができました。大阪に帰省して時間のあるときには様子を見に行っていましたが、2013年10月31日、この橋を利用してきた多くの市民に惜しまれながら閉鎖されました。
2005年11月撮影
2007年10月撮影
通れなくなるという噂が立ち始めてから、実際に閉鎖されるまでには10年ほど間がありました。大家のJRと間借り人の大阪市の間では、水面下で人道橋の閉鎖時期や代替橋建設の可否、迂回路などについて協議が重ねられていたのでしょう。
2007年ごろから橋の床に敷かれている板に傷みが目立つようになりました。本来ならば全部の板を貼り替える時期が来ていたのでしょうけど、閉鎖が決まっていたため新しい板に貼り替えずに、穴の上からパッチを当てたようなその場しのぎの修繕が施されていました。
2009年08月撮影
さらに最後の数年は、木の板の上から全面に鉄板が敷かれました。大家のJRは『安全第一』を社訓とする鉄道会社です。万一、橋板を踏み抜いて通行人が落ちて死傷事故などが起きると、大家の看板に泥を塗ることになります。店子の大阪市もしっかりとした安全対策を講じなければならなかったということでしょうか。
足元が木の板から鉄板にかわってからは、ずっと慣れ親しんできた赤川仮橋を渡るときのポコポコという独特の音がしなくなってしまいました。
それからもうひとつ変ったことがあります。むかしはこの橋を渡るときにもっとスリルがあったような気がします。子どもだったからそう感じたのかもしれません。
ですが、改めて自分の撮った写真をよく見ますと、両側にある転落を防止する柵(欄干・高欄)の高さが昔と今では変わっています。
おそらく、国が定めている橋の安全基準が改訂されたのでしょう。それにともない転落防止柵も高くなったのだと思います。一番上の画像(1967年)と最後の画像(2009年)を見比べてみてください。大人の腰ぐらいの高さだったものが、胸から肩あたりの高さへと変化しており、1.5倍ぐらい高くなっています。
最後に閉鎖後の現在の状況について。
ネット上の画像で確認すると、2017年時点で、複線化の工事はだいぶ出来上がっていたようです。その後、JRおおさか東線の北区間として、2019年3月に開業しました。開業した暁には、新大阪からおおさか東線の電車にのって赤川の鉄橋を渡ってみたいと思っていましたが、なかなか叶いませんでした。
2020年に突然流行りだした新型コロナウィルス感染症のピークの谷間を狙って帰省し、淡路駅から城北公園通駅間まで新線に乗ってきました。
木製の仮橋の跡には真っ直ぐな線路が敷かれ、18連の長いトラス鉄橋も電車だとあっという間に渡り終えてしまいました。
2020年08月撮影
できれば、もう一度歩いて渡りたいのですが、「赤川の鉄橋を渡ろうとしたボケたおっさんが、線路上に迷い込み電車がストップ。おっさんは、通報で駆けつけた警察官に保護された」といったニュースにならないよう気をつけます。
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