■ 大淀の豊かな流れ
豊里大橋からみた夕暮れの淀川
日本を流れる川の大半が急流河川であって、ひとたび大雨が降れば氾濫し、旱天が続けば流れにかわって広大な河原が出現する川が多いなかで、淀川は特異な存在である。山崎の地で合流する三川のひとつ、宇治川(瀬田川)が琵琶湖を水源としているため、淀川は年間をつうじて流量の変化が小さく、常に豊かな水がゆったりと流れている。
淀川下流に開けた沖積地と川や堀川を活かして水都大阪が発展してきた背景には、このような淀川の自然条件が大きく作用している。いっぽう、広い川幅と豊かな流れは、大阪平野の中央部を占める河内国と淀川北岸の摂津国を分かつ国境の川であり、自由な行き来を妨げる障害物でもあった。
淀川には、古来より人の手が数多く加えられてきた。淀川沿いの各地では堤防が築かれ、淀川から分派する堀川や放水路が開削された。また、川の付け替えや明治以降の改修工事によって河道の位置も変遷している。
しかし、淀川に橋を架けてそれを維持し、両岸を自由に行き来できるようにしていくことは容易なことではなかった。大川(旧淀川)が流れる大阪市の中心部は別として、毛馬(けま)から山崎に至る淀川筋や新淀川に橋が架けられたのは、明治の後期から戦後にかけてのことである。
■ 淀川の渡し舟
淀川の下流に設けられた主な渡し場【明治時代】
※新淀川と大川(旧淀川)の天神橋から下流の渡し場は表示を省略
橋のなかった時代、橋のかわりに淀川の両岸を結んでいたのは渡し舟だった。
『源八を 渡りて 梅のあるじかな』 と蕪村の句に詠まれたように、大川(旧淀川)に架かる都島(みやこじま)橋の下流には、梅林に面して川崎と中野を結ぶ源八(げんぱち)渡しがあった。
明治から大正にかけて、旧淀川や淀川筋には、この源八渡しのほかに、毛馬・赤川・平太・阪巻・八番・七番・佐田(佐太)・仁和寺(鳥飼)・出口(三島江)・枚方(郵便屋)・磯島・前島・楠葉・橋本(広瀬)など、20箇所前後の渡し場があった。淀川沿いの主だった集落ごとに、渡し場が設けられていたといえる。
■橋の空白地帯
明治時代、淀川の毛馬付近から三川合流点にかけての京阪間には、橋がひとつもなかった。唯一の橋は、毛馬で淀川から分派していた中津川に豊崎橋という私設の有料橋が架けられていただけである。
中津川にあった豊崎橋は、淀川改良工事による新淀川の開削にともなって、明治42年(1909年)に長柄橋として架け替えられ、淀川の南北をつなぐ交通の要として機能した。
しかし、毛馬から上流に橋のない状況はその後もずっと続いた。昭和5年(1930年)に枚方大橋が架けられたが、約16㎞離れている毛馬と枚方の間にはまだ橋がなかった。昭和22年(1947年)に初代の鳥飼大橋が完成して、ようやく橋の空白地帯が解消された。しかし、初代の鳥飼大橋は木造であったため、傷みや洪水による損傷を受け、通行時の走行速度を時速10㎞に制限されるなど、交通路としての十分な機能を発揮するまでには至らなかった。
現在のように大きく迂回することなく、ほぼ最短距離を車で行き来できるようになったのは、鳥飼大橋が頑丈な永久橋に架け替えられ、豊里大橋が完成した高度経済成長期以降のことである。
いっぽう、それまで両岸を結んでいた各地の渡し舟は、橋の完成によって役目を終えることになった。枚方大橋の完成にともなって三ツ矢や出口の渡しが廃止され、鳥飼大橋の開通後に佐田(佐太)の渡しがなくなった。土木技術の進歩によって長大橋が架けられて自動車交通が普及するにつれて、渡し舟は淀川から次々と姿を消していった。
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