買い物は渡し舟にのって 淀川(2)

■ 平太の渡し-発足から昭和の最盛期まで

昭和40年頃の渡し場の風景 撮影:高木伸夫

平太の渡しは、いまから300年余り前の延宝4年(1678年)ごろ、左岸の今市(現在の大阪市旭区)と右岸の平太を結ぶ個人経営の渡し舟として発足した。当時、大坂の渡し舟は民営が一般的で、船頭は世襲の家業とされていた。

淀川では、明治29年(1896年)から明治44年3月にかけて、新淀川の開削や屈曲部河道の付け替えなどを伴う大規模な淀川改良工事が行われた。この工事によって渡し場付近の河道は、明治37年、北側に掘られた新しい河道へ付け替えられた。その時、渡し場も新しく掘られた川に移転したが、平太の渡しの名はそのまま引き継がれた。
川の付け替えによって、旧河道の右岸に位置した西成郡豊里村は、新しい河道を挟んで両岸に分離された。平太の渡しは2つに分かれた豊里村の家々を結ぶ役割も担うこととなった。

明治時代、渡し舟の運航は大阪府によって管理されていた。明治40年に個人経営の許可期限が切れたのを契機に府営に移管され、次いで大正14年には大阪市営となった。渡しのある一帯が、大阪市域の拡大にともなって大阪市に編入されたためである。市営化された当初は、請負制度によって民間に委ねて運航されていたが、昭和23年以降、昭和45年に廃止されるまで大阪市直営の渡し舟として運航された。

渡し賃は明治40年頃で大人2銭・子供1銭だったが、大正8年に道路法が施行されてからは、道路の付属物として無償で運航しなければならないようになった。この平太の渡しも、「東淀川区第386号」という水上路として天下の公道に指定され、それ以降は渡し賃が廃され無料で利用できるようになった。

渡し舟には、昭和30年代なかばまで手漕ぎの和舟が用いられていた。船頭が竿と櫓を操って上流に漕ぎあがり、岸までの距離を見計らってうまく流れにのり、対岸の船着き場につけたという。当時の和舟は20人乗りで、大きな淀川を渡りきるのに片道20分も要した。
いっぽう、昭和20年代後半から淀川沿い、とくに右岸側の市街地化がすすみ、利用者も増加して小さな和舟では時々積み残しが生じるようになった。また、小さな手漕ぎ舟では、風雨の強いときには欠航という事態を避けられなかった。こうした不便を解消するために、昭和35年(1960年)に21人乗りの発動機船が投入された。さらに昭和38年には36人乗りの新造船も就航して渡し場は最盛期を迎えた。1日におよそ3,000人の乗客と600台余りの自転車を運んだとされている。船腹に澪つくしのマークをつけた渡し船が、ポンポンポンというエンジン音を川面に響かせながら、淀川を渡る市民の足として活躍した。

■ 平太の渡しが賑わったわけ

平太の渡し付近の旭区側の地図【昭和30年代】
(資料:毎日新聞社『大近畿名鑑地図』1961)

平太の渡しの利用者が多かった理由のひとつは、昭和30年代の後半になっても淀川を渡る橋が依然として少なかったからである。また、自家用車もあまり普及していなかった。戦前からあった下流の長柄橋と上流の枚方大橋に加えて、その中間に初代の鳥飼大橋が昭和22年に架けられてはいたが、長柄橋と鳥飼大橋は8㎞も離れていた。長良橋と鳥飼大橋の間で淀川を渡ることができたのは、平太の渡しのほかに、通称「赤川の鉄橋」と呼ばれていた貨物線の線路の横に設けられた人道橋がひとつあっただけである。

もうひとつの理由は、左岸の船着き場から歩いて10分ほどのところに、千林(せんばやし)商店街という大阪市内でも有数の商店街があったことが関係している。その頃の千林商店街には、その後業界で最大規模を誇るスーパーマーケットにまで成長したダイエーの第1号店舗「主婦の店」が開店し、数百軒もある大小の店が、連日安売り合戦を繰りひろげていた。その集客力は淀川を隔てた右岸にもおよんでおり、対岸の東淀川区に住む主婦たちも、こぞって平太の渡しに乗って淀川を越え、千林に買物にやって来たからである。

【次は】 買い物は渡し舟にのって 淀川(3)


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