■豊里大橋の架橋と渡し舟の廃止
廃止になる前年の平太の渡し
万博開催を控えて豊里大橋(右端)の建設がすすむ
昭和45年3月3日、大阪市内では初めての斜張橋として長さ561mの豊里大橋が開通した。それとともに300年もの長きにわたって運航されてきた平太の渡しは、淀川の両岸を結ぶ足としての役割を果たし終えた。
平太の渡しの廃止によって、淀川の渡し舟は鳥飼下と仁和寺を結ぶ仁和寺(鳥飼)の渡しを残すのみとなった。船頭さんは大阪市が運航する大阪湾周辺の安治川や木津川など他の渡し場へと移っていった。
そして、平太の渡しを利用していた人々は、バスや車に乗って淀川をひと跨ぎにできる利便を得たが、それと引き換えに、暮らしのなかで淀川の大きさやおだやかな流れを肌で感じとれる格好の場を失ってしまった。
■渡し場跡の風景
土手の高さは淀川の大きさを物語る
渡し舟が廃止されて約30年が経過した平成11年の初夏、久しぶりに平太の渡しがあった場所に出かけた。淀川は、我がふるさとの川である。小さい頃に住んでいた家のすぐ横には、江野川という幅10メートルほどのドブ川が流れていた。その川に沿って5分ほど歩けば、淀川の高い土手に突きあたった。
明治の淀川改良工事の際につくられ、その後も数次に渡って嵩上げされてきた淀川の堤防は、かつて仰ぎ見たときと同じように高い。よっこらしょと階段をのぼって、ようやく淀川の流れを見ることができた。
河川敷には、大きなグランドがいくつも並んでおり、堤防とグラウンドの間には緊急用道路ができている。緊急用道路は阪神大震災を契機に、大震災などの災害に備えて整備されたものらしい。水辺の景色はすっかり変貌を遂げていた。
スポーツを楽しむ人達で賑わう現在の淀川
河川敷では、たくさんの人達がスポーツに興じていた。一見、川がよく利用されているように見える。しかし、川が使われているのというのは錯覚であって、単にグラウンドとして利用されているだけのことである。
これは、淀川だけに限ったことではなく、荒川や多摩川など大都市を流れる大きな川の典型的な風景である。
川は、地域の自然や文化、人々の暮らしぶりを反映した流域の鏡であるならば、スポーツやレクリエーションを楽しむ場と化したこの風景もまた、いまの淀川と人々との関係を示しているのであろう。まぁそれはそれで良しとしても、人々の暮らしとともにあった緊密な関係の川は、どこにも見当たらない。
渡し場跡に係留されていた釣り舟
おぼろげな記憶だけが頼りでは・・・と思い、昭和36年に撮影された写真を携えて来たが、かつて舟着き場があった場所を特定するには、少しばかり時間を要した。グラウンドのはずれ、たぶんこのあたりだと思われる場所の近くには、釣り舟が一艘係留されていたが、水ぎわにはゴミやスクーターがうち捨てられていた。
高水敷が整地されてグランドができた頃から、川岸の位置が変わって流れが堤防から遠ざかり、同時に川と人が疎遠になったのかもしれない。ただ、記憶のなかにある淀川は、今よりずっときれいであったし、また、流れの幅ももっと大きかったような気がする。
■ 参考文献・資料
・大日本帝国陸地測量部:2万分の1地形図 「山崎」「高槻」「星田」「吹田」
「大阪東北部」、1911
・建設省 淀川工事事務所編:『淀川治水史 淀川改良工事計画』、1966
・建設省近畿地方建設局 淀川百年史編集委員会編:『淀川百年史』、1974
・茂木 草介:「まぼろしの川」、『大阪春秋』第6号、1975
・三浦 行雄:「河川風景・いまとむかし」、『大阪春秋』第19号、1979
・高木 伸夫:「京街道(3)」、『まんだ』第12号、1981
・松村 博:「豊里大橋、鳥飼大橋」、『大阪の橋』、1987、松籟社
・就航当時の平太の渡しの写真は、父 高木伸夫が撮影したものを使用した。