謎のトロッコ列車

桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる三川合流点のあたりで、今から60年近く前に父が撮った築堤をゆくトロッコ列車の写真。撮影地点や写っているトロッコのことが長い間わからなかったが、このたびその正体がようやく判明した。

築堤上をゆく謎のトロッコ列車

築堤上をゆくトロッコ列車
築堤上をゆく工事用トロッコ列車

父が1960年代の初めごろに淀川の中流域を撮影した1本のフィルムがある。小西六から発売されていたモノクロのポジである。映画用の長尺フィルムを切って35㎜カメラに流用したのであろう。

大山崎や八幡のあたりの景色が写っているが、経年にともなう色素の退色が進んで、写っている影は随分うすくなってしまった。保存性に優れたネガフィルムでなかったことが惜しまれるが、そのフィルムの最後のほうに、小さなディーゼル機関車に牽かれた工事用トロッコ列車が写ったカットがあった。

背景の山のスカイライン、高圧送電線の鉄塔などから判断して、撮影地点は左岸の橋本付近の堤防上と推定された。そこから望遠レンズで右岸の山崎や水無瀬のあたりを撮ったものと思われた。

機関車は土砂を運ぶトロッコをたくさん連ねているので、かなり大規模な工事だろう。最初は淀川の堤防工事だと思ったが、撮影した場所の足もと、つまり河川敷にあたる場所に田んぼのような農地がある。堤外民地のケースもあるが、河川工事だとするにはつじつまが合わない。

正確な撮影地点や何の工事のトロッコか判然としないし、何度調べても確証を得られなかったので、ウェブでの公開は見送ろうと思っていた。

新幹線工事の可能性を探ってみたが・・・

河川工事のほかに、1960年代前半に山崎付近で行われた築堤の工事といえば、東海道新幹線の建設工事の可能性がある。当時、まだ運航されていた山崎の渡しで右岸に渡り、右岸堤防の上から堤内地で進む築堤工事を撮ったものか? 一時は、その線での検討を重ねてみた。

新幹線の軌道敷は、全線が高架橋梁上か築堤上に建設されている。
この付近での築堤区間は、阪急京都線と並走する約3.8㎞の区間である。築堤区間の範囲を隣接する阪急の駅で示せば、大山崎駅付近から上牧駅南西付近まで続いている。

新幹線の築堤区間で地上の道路と交差する箇所は、築堤を分断して道路上に跨道橋が架けられている。跨道橋の橋台付近のコンクリート擁壁には、建設された年月を示す小さな数字が刻まれている。確認してみると「1962.9」や「1963.1」という数字であった。建設時期は写真の撮影時期とほぼ一致している。

トロッコの写真はもう1カットあって、その写真には築堤の背後の様子が写っている。

トロッコ列車
トロッコ列車の背後に広がる上牧や水無瀬付近の山

背景の山並みや山麓の景色はあきらかに水無瀬や桜井の駅跡あたりだ。山裾付近に見える白っぽいものは、山麓を通過している国鉄東海道線の乗客に向けに設置された屋外広告の看板であろう。築堤の位置や山との距離の点では、新幹線の築堤工事と見立ててもおかしくはないだろう。

しかし、どうしても満たさないといけない条件がひとつある。トロッコの走っている築堤が新幹線の築堤だとするならば、すぐ隣の山側を並走しているはずの阪急の架線や架線鉄柱が写っていないといけない。

写真にはそれらが見当たらない。架線や架線鉄柱が写っていない以上、新幹線の築堤だと判断することはできない。

東大寺採石場と淀川を結ぶ専用線

結局、何の工事に使われたトロッコかわからないまま、時間だけ経過した。最近、再び振り出しに戻って調べていたところ、同志社大学鉄道同好会OB会のサイトに決め手となる情報が書かれているのを見つけた。十数年前の記事であるが、特定につながった貴重な情報だった。
http://drfc-ob.com/c-board/c-board.cgi?cmd=one;page=738;id=

投稿記事によると、右岸から流入している水無瀬川に沿って、山あいにある採石場から淀川まで、河川改修に使う土砂運搬の専用線が敷設されていたことが記されていた。専用線は明治末期から1961(昭和36)年まで稼働していたというから、撮影時期とも一致する。

地形図で確認すると、淀川への流入点から水無瀬川を遡り、名神高速道路との交差を過ぎたあたりに大きな採石場跡がある。現在は採取されていないが、建設省の資料によるとかつては東大寺採石場と呼ばれていたことがわかった。この採石場で土砂を採取し、専用軌道を使ってトロッコ列車で淀川まで運んでいたのだという。

水無瀬川の採石場と淀川の船着き場水無瀬の山あいにある東大寺採石場(正面奥)と淀川河畔の船着き場
この付近の岸辺は、東大寺採石場で採取された石材の積み出しのほか
付近の淀川で採取された川砂の陸揚場としても使われていた

東大寺採石場は、明治以降の淀川における河川工事記録をとりまとめた『淀川百年史』(建設省近畿地方建設局、1974)にもたびたび登場する。
同書によると東大寺採石場は、内務省直営の採石場として1910(明治43)年に新設された。当時の淀川下流改修工事は航路を維持するための低水工事が主体で、ケレップ水制や護岸などが整備されていた。それらの河川工事に使用する大量の石材を安定的に確保するためには自前の採石場が必要であり、東大寺採石場を設置したのであろう。
のちに河川工事は低水工事から洪水対策を主眼とした高水工事へと変化していく。工事の目的や工種が変化しても、堤防や護岸の建設や補強、維持・補修には大量の石材や土砂が必要である。使用量の増大とともに採石場の敷地面積も大正や昭和に幾度か拡張されている。戦後、工事の主体が内務省から建設省に引き継がれたのちも、淀川改修工事に使われる石材や土砂の直営の供給基地としての重要な役割を担ってきた。

採石場から採取した石材や土砂は、水無瀬川の左岸堤防に沿って敷設された軌道を使い、土運車に積んで淀川の浜に搬出された。採石場から浜までの距離は約1900mで、うち約1500mは複線だった。

運搬には、フランスの軽便鉄道メーカー・ドコービール社が考案した機材やトロッコが使われた。初期は人力で押し出したと記されている。のちに大量輸送ができる小型の蒸気機関車が導入され、戦後の晩期はディーゼル機関車がトロッコ列車を牽いていた。

空中写真で見た専用軌道

専用線が稼働していた当時に撮影された何枚かの空中写真で確認してみると、線路は水無瀬川の左岸に沿って敷かれていたようである。国鉄東海道本線や阪急京都線とは立体交差となっていて、トロッコ軌道は鉄道の下をくぐっている。
阪急京都線に続いて国道171号の下をくぐると、軌道は淀川流入点付近の水無瀬川の流れに沿ってカーブし、淀川の河川敷に達している。

1946年に米軍が撮影した空中写真に専用軌道の様子が鮮明に捉えられているので、時代が少し異なるが下に掲げておく。

水無瀬川合流点付近の専用軌道水無瀬川の合流点付近の専用軌道【1946年 米軍撮影】

空中写真では、水無瀬川に対して斜めに架けられた2本の橋が確認できる。橋のひとつは国道171号のすぐ東側にあり、もうひとつは淀川(桂川)に流入している地点の100mほど上流に架けられている。

水無瀬川を渡って淀川の右岸高水敷にでたのち、線路は何本かに分岐しているようである。細部は判然としないが、一本は高水敷を南に伸びて約1㎞下流の河岸に設けられた船着き場へと続いている。採石場からトロッコで運んできた土砂は、船に積み替えられて淀川各地の工事箇所まで運ばれたのであろう。また、下流側の橋の近くには、長い編成のトロッコ列車を停めておく留置線も認められる。

もう一本は、上流側の橋を渡った地点から、右岸の堤防と堤防下を流れる水路の間を堤防に沿って南下している。軌道は堤防土手を少しずつ登り、数百メートル下流で堤防の天端にあがっているように見受けられる。

水無瀬川合流点付近水無瀬川合流点付近の軌道の変化【1961年 国土地理院撮影】

1961年に撮影された空中写真では、軌道の状況が少し変化している。上流側の橋は撤去された模様で、水無瀬川に架けられた軌道の橋は1本に減っている。残った橋からは、高水敷を流れている水路の東側を並走して下流にある積み出し地点に向う軌道のほかに、水路を渡って堤防に伸びる軌道が確認できる。
また、周辺の高水敷には淀川で採取された川砂を河岸に陸揚げし、ダンプトラックに積み込んで運び出すための通路が何本もできている。

水無瀬川が合流する地点から下流側約2㎞に渡って立派な築堤が続いているので、父が撮ったトロッコ列車は、この付近で堤防の建設や補修工事をしていたときに土砂を運搬したものと推定される。トロッコ列車を撮影した1960年代の初頭は、淀川の河川工事で機関車やトロッコ列車が使われた最後の時期にあたる。『淀川百年史』によると、1963年をもって淀川管内での工事用機関車は廃止されたとある。以降、土砂の運搬は機動性に優れたダンプトラックによって行われるようになった。

いっぽう、東大寺採石場がいつ閉鎖されたのか確認できていない。前掲書には1970(昭和45)年度まで採取された土砂の出来高が記録され、各工事に使用されたことがわかる。また、’70年度には山腹斜面の崩壊を防止する保全工事が行なわれているようだ。おそらく、1970年ごろに採掘が停止されて、その後何年かして閉鎖されたものと思われる。

築堤の手前側に写っていた耕作地、つまり河道内にある田や畑は、当初、河川工事のトロッコであることを否定的に捉えていた理由のひとつである。しかし、当時の空中写真を見ると、淀川の高水敷や、桂川と宇治川・木津川を分かつ背割堤や隔流堤にも耕作地がびっしりと分布している。治水や河川法の遵守よりも腹を満たす農作物の生産が重要だったのかもしれないし、地主が耕作する権利を有した堤外民地なのかもしれない。そうした河川敷内の耕作地が手前に写り込んでいたのであろう。

見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川  夕べは秋となに 思ひけむ

新古今和歌集にある水無瀬川付近の春の景色を詠んだ後鳥羽上皇の和歌は、中学の時に習ったのだが、なぜかよく覚えている。
トロッコの写真とこの和歌は直接関係がないが、記憶の中の山もとかすむ水無瀬川あたりの風景が、撮影地点の特定に一役買ったのかもしれない。


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