空中写真に記録された川と島【戦後~平成】 ← 現在地
- 空中写真で見る中津川と鼠島の60年
- 【1948(昭和23)年 米軍撮影】
- 【1961(昭和36)年 国土地理院撮影】
- 【1964(昭和39)年 国土地理院撮影】
- 【1975(昭和50)年 国土地理院撮影】
- 【1985(昭和60)年 国土地理院撮影】
- 【1997(平成9)年 国土地理院撮影】
- 【2007(平成19)年 国土地理院撮影】
- 【2018(平成30)年】
空中写真に記録された川と島【戦後~平成】
空中写真でみる中津川と鼠島の60年
戦争中の度重なる空襲によって大阪市内の大半の地域は焼け野原となった。
日本を占領した米軍は、戦後まもなくして全国各地で空中写真の撮影を開始した。空中写真は、自らの無差別爆撃の成果を検証するうえでよき資料であり、統治下にある日本の管理や復興支援に必要な地図を制作するためにも有用であった。
戦後、大阪市内西部における米軍による空中写真の撮影は、1948年に行なわれている。以後、国土地理院などが測量や地形図の改訂作業のために定期的に空中写真の撮影を行なっている。
ここでは1948年から2007年の間に撮影された多数の空中写真のなかから、比較的、低い飛行高度で撮影されたカットを選び出し、それらを判読しながら戦後から平成にかけての約60年間に中津川と鼠島周辺地区がどのように変貌を遂げていったかをみていくことにする。
【1948(昭和23)年 米軍撮影】
この写真は1948年12月30日に高度2,438mから撮影されたものである。
空襲を免れた地区や建物もあるが、画面右手の西九条地区や左下の四貫島地区などは、焼け野原のなかにポツリポツリと建物が再建されはじめたばかりである。
太平洋戦争の末期、米軍はB29の大編隊で飛来し、大阪を幾度も爆撃した。
いわゆる「大阪大空襲」と呼ばれる大阪市およびその周辺地域への一連の無差別爆撃である。最初の空爆は1945年3月13日深夜から翌日未明にかけて行なわれた。その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日と続いた。これらの空襲で一般市民 1万人以上が死亡し、市内の大半は焼け野原になった。
空爆時のB29の飛行高度は一様ではないが、当初は高高度で飛ぶB29から精巧な照準器を使った精密爆撃が試みられた。しかし、ジェット気流の影響を受けて命中精度が低くなり、戦果は芳しくなかった。そこで、戦術の方針転換が行われ、夜間に一般市街地を狙うときは高高度からの精密爆撃をやめ、高度2000m前後の低空から無差別爆撃する方式に改められた。
低空からの焼夷弾投下による無差別爆撃を考案したのは、陸軍航空軍司令官カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)だった。彼の指揮のもと、日本各地のおもだった都市には膨大な量の焼夷弾が投下された。その結果、多くの建物と人々が一気に焼き払われることとなった。
医療施設のあった鼠島への空襲がいつ行なわれたか、手持ちの資料では判然としない。標的となる地区が記載された空襲記録や米軍が損害評価のために爆撃直後に撮影した空中写真などからみて、1945年3月の第一回大阪大空襲の時でなく、6月に行われた4回の空襲のいずれかである可能性が高い。
1948年に撮影されたこの空中写真から判読できること、および戦前の1932(昭和7)年に部分修正された地形図と比べたときの主な変化は次のとおりである。
中津川
- 東側の流路に大きな変化はない。
- 締切り堤の六軒屋洗堰の直下に水流らしきものが見え、下流に放流されている模様である。
- 西側の流路の鼠島南端部付近には、以前から築造されていた締切り堤防が拡幅され、島と此花区伝法地区をつなぐ広い陸域が形成されている。西側の流路だけを通る下流への航路は完全に閉ざされてしまった。
- この締切り堤防付近の埋め立てがいつ頃行なわれたかは不明である。地形図からの判読も併せて推察すると、1932(昭和7)年から1948(昭和23)年までの期間のうち、戦災で生じたがれきを処分するために終戦直後に埋められた可能性が高い。
鼠島や周辺部
- 島の北側にあった消毒隔離所は空襲で焼失した。いつの空襲かは特定できないが、大阪大空襲の記録などを参照すると、福島や此花が爆撃目標にされた1945年6月の可能性が高い。
- 消毒隔離所の跡地には小さな建屋が何軒か建てられている。建物の用途などの詳細は不明である。
- 六軒屋第一および第二閘門は稼働している。
- 第一閘門の閘室には、6~7隻の船や艀が入っている。
- 島の第一閘門の西側および埋め立てによってできた伝法地区に続く陸域は未利用である。
- 周辺地区にあった工業群のうち、いくつかの工場は戦災で焼失し更地になっている。焼失した主な工場は、東洋紡四貫島工場(四貫島)、帝国製麻大阪工場(伝法)などである。
- 焼失を免れた工場もあり、製紙工場(福島)、泉鉛管工場(伝法)などは戦前と同じ建屋が確認できる。
【1961(昭和36)年 国土地理院撮影】
終戦から16年、前回の米軍の撮影から13年が経過した中津川と鼠島である。
朝鮮戦争の特需で景気が良くなり、戦後の復興が順調に進んでいたいっぽうで、戦災や戦後の水害などによって住む家を失った人が大勢いた。この空中写真にはそんな混乱した世相が写し込まれている。撮影者が意識したかどうかわからないが、単なる記録ではなく立派な社会派のドキュメンタリー写真である。
東側流路の北半分が埋立てられ、福島側と陸続きになった鼠島には、たくさんのバラックが建てられている。河川敷内にある鼠島は国有地なので、このバラックの住民は不法占用である。戦災や戦後の水害などで家を失い、止むに止まれず電気も水も引かれていないこの地に移り住んだのだと思われる。
写真左下にみえるのは、四貫島の北端付近、戦災で焼失した東洋紡の工場跡地につくられた戸建ての住宅地である。整然と区画割りされていて、鼠島の住居群とはまことに対照的である。
戦後の鼠島の住所表記は福島区下島町である。国勢調査の町丁別人口によると、下島町における戸数と人口の推移は次のとおりである。
- 1950(昭和25)年: 45戸・150人
- 1955(昭和30)年: 41戸・172人
- 1960(昭和35)年:273戸・1066人
- 1965(昭和40)年:285戸・1193人
鼠島は、1945年の空襲で住戸ゼロの焼け野原になった。戦後5年経って1955(昭和30)年に41戸・172人だったものが、さらに5年後の1960年には273戸・1066人に急増している。その後も増加は続き、1965(昭和40)年には285戸・1193人となってピークを迎えている。
居住人口が爆発的に増えたのが住宅難だった終戦直後ではなく、敗戦から10年が経過し、世の中が少し落ち着きはじめた1960年代の前半であることが少し意外である。そして、その理由が少し気にかかる。
仮に、国勢調査の人口推計が居住実態を正しく反映していて、しかも戦災で焼け出されたのではないとしたら、考えられる理由のひとつは自然災害である。高潮によって此花区のほぼ全域が水没した1950(昭和25)年のジェーン台風、西九条地区が水に浸かった1961(昭和36)年の第2室戸台風あたりが関係しているのだろうか?
バラックが建てられた場所は、当時、東側の流路が埋立てられていてもう中州ではなかったが、仮寓をたてて生活するには不向きな水をかぶりやすい場所だったはずだが・・・・・・
この時期における大きな変化が二つある。ひとつは、東側の流路にあった六軒屋洗堰の廃止と洗堰以北の流路の埋立てである。もう一つは終戦後に一度埋め立てられた西側流路の南端部の陸域へ水路が開かれて、六軒屋水門が新設されたことである。
1958(昭和33)年に六軒屋洗堰・サイフォンが廃止され、中津川のうち鼠島東側の流路の北半分が埋立てられた。洗堰が廃止された理由は、地盤地下が進んで機能を維持できなくなったからである。洗堰には1949(昭和24)年に一度かさ上げによる補修が加えられていたが、その後さらに地盤沈下が進み、補修も困難になったものと思われる。
六軒屋水門は、廃止された洗堰に代わる施設として1955(昭和30)年に大阪府によって築造された。水門の設置位置は、洗堰から少し離れた鼠島西側の流路跡である。
西側の流路は、昭和初年に南端付近に締切り堤防が築造され、さらに終戦前後の埋立てによって下流側が閉塞されていた。その閉塞箇所の陸域の鼠島寄りに幅約10mの新たな水路を掘り、そこに六軒屋水門が設置された。
なお、この六軒屋水門は、のちに六軒屋川の流末付近に設置された六軒屋川水門とは別の施設である。
この時期における中津川と鼠島の主な変化は次のとおりである。
中津川
- 東側流路のうち、六軒屋洗堰の設けられた締切り堤防から北側が埋立てられて、左岸の福島区上島町と鼠島(下島町)が完全に陸続きになった。
- この埋立てに先だって六軒屋洗堰・サイフォンは1958(昭和33)年に廃止されている。
- 埋立てられなかった東側流路の南半分は、船だまりとして使われていた模様である。
- 第二閘門を通過して西側流路を北に向けて航行する牽き船と3隻の艀がみられる。
- 西側流路では、南端付近を埋立てて陸続きとなった箇所の鼠島寄りに新たに水路が設けられている。
- 新たに開かれた水路の中央部付近に水門のような工作物が確認できる。大阪府が1955(昭和30)年につくった六軒屋水門である。
鼠島や周辺部
- 第二閘門を通過している船が確認できる。
- 第一閘門は北側の扉室付近に航路を遮断する工作物のようなものが設置されているように見える。『淀川百年史』によると施設周辺の地盤沈下が進んだため1950(昭和25)年3月に使用を停止している。撮影時点では航行を規制していたが、撤去されずにそのまま残置されていたようである。
- 国有地である消毒隔離所の跡地には、小さな家屋が無秩序に密集している。戸数はおそらく150~200戸以上と思われ、バラックを建てて住み着いた住民による不法占用が見受けられる。
- 第一閘門と第二閘門に挟まれた島の中央部と島の西端付近は未利用地となっている。
- 四貫島の北端にあった東洋紡の工場は空襲で焼失したが、その跡地には、整然と区画されて戸建住宅が建ち並んでいる。
- 画面右下の逆川の河畔から中津川の東側流路に向かってゆるやかな円弧を描きながら北上している線分は、中津川左岸の大開地区にあった製紙会社へ通じる国鉄の引き込み線である。野田駅の西方から分岐して、工場への原材料や製品を運ぶ貨物輸送に使われていた。
【1964(昭和39)年 国土地理院撮影】
1964(昭和39)年は東京オリンピックが開催された年である。開催地である首都東京では、大規模な都市再開発、高速道路やビルなど大型施設の建設が進められ、オリンピックを境に都市が大きく変貌を遂げていた。
いっぽう大阪では、大阪駅前ですら戦後の闇市の名残が漂う木造の商店街が広がっていた。東京のような大規模な都市再開発は、1970年の万博開催前まで待たねばならなかった。
1964年の中津川や鼠島周辺では、変化の予兆があるところと、あまり変わっていないところが混在している。
以前、鼠島全体を挟んで東西に分流していた中津川は、鼠島の西半分だけを挟む形に縮小している。流路や水路の数が減り、東側には閘門、西側には水門があるシンプルな構成になった。中津川の一部や鼠島にあった第一閘門が埋立てられている。川沿いや島の西半分で白っぽく見える所は、造成や整地が行なわれた場所である。目に見える新しいものはまだできていないが、陸域の拡大や基盤整備はその後の大きな変化の予兆といえるかもしれない。
いっぽう、第二閘門付近やバラックの密集した島の東半分は、前回の撮影時とあまり変わっていない。
中津川
- 鼠島以北の左岸側の河岸沿いが約10~15m幅で帯状に埋立てられ、水面幅は3分の2程度に狭められている。
- 東側の流路では、水域が残っていた南半分も、第二閘門付近まで埋立てられた。埋立て地の土地利用は判然としないが、土砂や資材置き場のように見える。
- 南端に設けられた新たな水路は前回と同じ状態である。
- 水路の中央付近には水門の上流側に新たな工作物が確認できる。道と接続しているので、右岸の伝法地区と島の西半分を結ぶ橋の可能性が高い。
鼠島や周辺部
- 地盤地下で使えなくなった第一閘門は、長らく使用停止になったままで残置されていたが、南端部の扉室入口付近の護岸を除いてほぼ完全に埋立てられた。
- 第二閘門は稼働しており、二つのゲートが開かれている。閘門南側の六軒屋川には、河岸に沿って5~6隻の船か艀が確認できる。
- 消毒隔離所の跡地を不法占用した小さな家屋の密集地は、前回とほぼ同じ状況である。
- 密集地の南東端に大きな屋根の建屋ができているのを確認できる。この建物は、規模が不法占用物件とは明らかに異なっており、のちの1975年の空中写真にも写っているので、廃川敷の土地を正式に取得した事業所などの施設と思われる。
- 第二閘門と西側水路に挟まれた島の西半分は、造成中のように見うけらえる。島の東半分で見られるような小さな家屋による不法占用は見受けられない。
【1975(昭和50)年 国土地理院撮影】
前回の撮影より11年が経過した。大阪は、市内も郊外も1970年の万博前後で大きく変わった。この中津川や鼠島も例外ではなく、かなりの変貌を遂げている。
画面の右上から左下に北港通りが完成し、六軒屋川の上を嬉ケ崎橋や高架橋で渡っている。
いっぽう、中津川は流末の100mほどを残してほぼ完全に埋立てられている。右上付近に見える細長い屋根が並んだ建物は福山通運のトラックターミナルである。貨物輸送の交通手段は、船からトラックに世代交代した。そのことが空中写真からも明らかである。
通船のなくなった長柄運河も1972(昭和47)年に埋立て工事が完了した。
中津川や長柄運河が埋立てられたのは、船の航行がなくなったせいもあるが、実際の事情はもう少し複雑で、大阪府の高潮対策事業と関連している。ここでその事業の説明をすると長くなるので別の機会としたい。
鼠島に設けられていた閘門や水門などの河川管理施設で残っているのは、第二閘門の南側約3分の1、第一閘門の扉室入口付近の護岸、六軒川水門のあった水路の南端付近の護岸だけある。残された第二閘門跡の水域には船か艀が数隻係留されている。
なお、これらの施設のうち、第一閘門の扉室跡と六軒川水門のあった水路跡は、六軒屋川や正蓮寺川の維持流量を確保するための浄化用水の放流口、ならびに海老江下水処理場の処理水を放流する吐口として再利用されている。浄化用水は淀川の高見地点から最大で毎秒22トン取水され、途中で下水処理場からの処理水と合流させて、中津川跡の地下に埋められた管路で放流口に送られている。
鼠島の北半分を占拠していた民家群は、最盛期に数百軒あったものが数十軒程度に数を減らしている。行政による立ち退き要請をうけて代替の賃貸住宅に移転したり、別の場所に引っ越していったであろう。
国勢調査によると、下島町における戸数と人口は、1965(昭和40)年に285戸・1193人を数えたが、1970(昭和45)年には120戸・493人に半減している。1973(昭和48)年ごろには行政の書類上、移転促進事業は完了したことになっているようである。この空中写真は事業完了後に撮られているが、写っている数十棟の家屋は、鼠島の名残を惜しむ人々なのか、それともよい移転先が見つからずやむなく残留している人たちの住宅なのかも知れない。
中津川の両岸の土地利用や建物も大きく変わった。川沿いに並んでいた大きな工場が取り壊されたり、規模を縮小したりしている。
左岸の福島区側では、三菱製紙浪速工場のあった跡地に大小の運輸会社のトラックターミナルや社屋、倉庫、社員住宅などがつくられている。右岸の此花区側でも、此花厚生年金住宅や住宅都市整備公団の千鳥橋団地などの住宅団地が建設された。
両岸と陸続きになって姿を消してしまった鼠島であるが、その跡地の大半は造成中になっていたり、資材などが置かれたりしているようで、この空中写真を見る限りでは、はっきりとした土地利用は定まっていないように見受けられる。
中津川
- 中津川は、正蓮寺川と六軒屋川とに分派する地点の直上流約100mが残っているだけで、分派点より北側の中津川の河道はほぼ完全に埋立てられた。
- 東側流路を埋立てた跡地のうち、第二閘門付近には運輸会社(浪速通運)の社屋と倉庫が建てられている。
- その北隣の埋立て地、前回の写真でバラック群の南東端に確認できた大きな屋根の建屋はそのまま残っている。
- 西側流路の埋立て地は、一部が南北方向の道路や住宅団地の用地ととして利用されている。それ以外の一帯は造成中もしくは未利用の模様である。
- 六軒屋川には、北港通りの嬉ケ崎橋や高架橋が架けられている。橋の共用開始は1971年3月。
鼠島や周辺部
- 中津川の埋立てにより、島は中津川の両岸と完全に陸続きになった。島の輪郭は南端部を除いて消えている。
- 北半分を不法占用していた数百軒の民家は、数十軒程度に減っている。
- 島にあった施設で残っているのは、第二閘門の閘室南側約3分の1と南側扉室付近、第一閘門の扉室入口付近の護岸、六軒川水門のあった水路の南端付近の護岸のみである。
- 鼠島に入り込んでいた凹形をした第二閘門跡の水域には船や艀が数隻係留されている。なかには船倉に水がたまっているのもあるので、廃船がそのまま放置されているのかもしれない。
- 中津川(東側流路)の左岸にあった製紙会社の工場は、敷地の南半分を占めていた建物が撤去されて、跡地は運輸会社(福山通運)のトラックターミナルや社屋、倉庫などに利用されている。
- 中津川(西側流路)の右岸から正蓮寺川に右岸にかけての一帯には、此花厚生年金住宅や住宅都市整備公団の千鳥橋団地など中~高層の住宅団地が建設され、工業地区から住宅地区へと変貌している。
【1985(昭和60)年 国土地理院撮影】
前回の撮影から10年が経過した。
北港通りの福山通運の南に交差点が設けられた。その交差点から鼠島の中心部だったところに向けて1本の道路が延びている。道は島の中心部だったあたりでY字形に二分し、一本は北へ、もう一本は西に真っ直ぐ延びている。
分流した中津川に挟まれた鼠島のあったこのあたりからは、閘門を船に牽かれた艀が行き来し、バラックが密集していた往時の面影は一掃されている。街路や区画はきちんと整理され、広い公園があり高層住宅の建つモダンなニュータウンに生まれ変わっている。
この年代では、このあたりがかつて島であったことの記憶を残している施設がかろうじて残っている。それは中津川や正蓮寺川にの河岸に残置された河川管理施設の一部、すなわち第二閘門の南側扉室付近の護岸、第一閘門の扉室入口付近の護岸、六軒川水門のあった水路の南端付近の護岸である。
中津川
- 10年前と同じく正蓮寺川と六軒屋川とに分派する地点の直上流約100mはそのままで残っているが、鼠島に入り込んでいた凹形をした第二閘門跡の水域は埋立てられてなくなった。
鼠島や周辺部
- 北港通りの交差点から島の中心部だったあたりに伸びる道路が新設された。
- 新しい道路は島の中心部だったあたりで二分し、一本は中津川の旧河道の左岸に沿って北へ、もう一本は西に真っ直ぐ延びている。
- 北に延びる道路の両側は、それぞれ三角形の敷地の公園用地として利用されている。東側は大開西公園、西側は高見新家公園で、公園内の一部では植樹や緑化が行なわれており、一部は多目的広場のような状態になっている。
- 公園の南側で第二閘門の北東側、新設された道路との間には、サッカーのフィールドを斜めに半分にしたぐらいの広場が設けられている。空中写真の撮影当時は、市内の路上から集められてきた放置自転車の一時保管場として利用されている。
- 第一閘門と第二閘門のあった付近に、大開厚生年金住宅2棟が建てられた。L字形の第3棟は11階建ての高層住宅、第2棟は5階建ての中層住宅である。
- 厚生年金住宅の南側、わずかに残された中津川と正蓮寺川に面した一角は、阪神高速道路の建設が予定されており、撮影時点では未利用地のままとなっている。
- 島にあった施設で当時の面影を残しているものは、中津川や正蓮寺川の河岸に残置された第二閘門の南側扉室付近の護岸、第一閘門の扉室入口付近の護岸、六軒川水門のあった水路の南端付近の護岸のみである。
【1997(平成9)年 国土地理院撮影】
前回の写真から12年が経過した。昭和が終ってまもなく10年が経とうとしている。
この写真は2月に撮影されているので、色味に生彩がやや欠けるが、この付近での都市基盤の整備は着々とすすんでいる。まず目に付くのは、正蓮寺川の右岸に沿って河道の約半分が埋立てられていることである。
これは大阪府と大阪市、それに阪神高速道路公団の三者が連携しながら共同で進めている「正蓮寺川総合開発事業」による川の大改造である。高潮対策として河口近くに防潮水門を設けて海水の侵入を阻止するとともに、雨水と下水道を流すそれぞれの暗渠を河道の地下に設け、さらに中津川から正蓮寺川の河道跡に沿って高架および地下構造(当初は堀割構造で計画)の高速道路を建設する。正蓮寺川跡を通過する区間の高速道路にはフタをかけて上部の地上には公園や散策路を整備するという。河川・下水道・公園・高速道路を総合的に整備するというすばらしいアイデアである。
果たして目論見通りうまく行くかどうかは、時代の評価を待たねばならない。もし目論見がはずれて地区周辺が水浸しになったとしても、「想定外のことでした」という伝家の宝刀がある。
鼠島だったあたりは、整地や公園の整備がすすんでいる。中津川の右岸にあった工場群も取り壊されて敷地は更地になりつつある。
かつては工場の煙突が何本も立っていた中津川右岸の工場跡地には、「高見フローラル・タウン」などの高層住宅が林立するニュータウンが建設されることになっている。
中津川
- わずかに残されている中津川に大きな変化はない。
- 正蓮寺川では、1993(平成5)年から陸地化する工事が始っている。
- この時点では、河道の中央に遮水壁が設けられ、右岸側の半分で陸地を造成する工事が進められている。
- 地下には川に代って雨水を流すコンクリート製の暗渠と下水を流す暗渠が設置される。
鼠島や周辺部
- 旧鼠島での区画整理や基盤整備はほぼ完了している。
- あとは、淀川方面から中津川跡を南下してくる高架構造の高速道路の建設工事を待つばかりである。
【2007(平成19)年 国土地理院撮影】
わずかに残された中津川と六軒屋第二閘門の南端付近【2007年撮影】
1948年からはじまった中津川と鼠島をめぐる遊覧飛行もそろそろ終わりに近づいてきた。
上の空中写真は前回の写真から10年経った2007年7月に撮影されたものである。今から約10年まえの様子が記録されている。
下の画像は、上の空中写真に赤い●印で示した地点から西北方向の鼠島跡と六軒屋第二閘門跡を撮影したものである。偶然ではあるが、最後まで残っていた鼠島跡の様子を地上から撮影したのは、空中写真が撮影された日のちょうど1週間前のことである。
空中写真を見ると、淀川方向から中津川の河道跡を高架橋梁で南下してきた阪神高速道路の一部が完成している。高速道路は高架橋梁からゆるやかな坂道を下って、赤い○印のところでそのまま地下に潜りトンネルに入っていく。この地点は、かつて鼠島の北部にバラック群が建っていた場所のちょうど真ん中あたりである。
地下の正蓮寺川トンネルに入った高速道路はR195mの急カーブを右に曲がり、正蓮寺川の川底を西に向かう。空中写真からも高速道路の路線形がなんとなく掴めると思う。
六軒家川と分派した正蓮寺川には、流頭部に強固な締切り堤防が設けられていて、もはや地上の河道を水が流れることはできなくなっている。
当時の正蓮寺川では、1993年からはじまった陸地化工事が最後の追い込み期を迎えていた。空中写真と地上から撮った写真には、鼠島の南縁に沿って作られた工事用車輌ための仮設道路も写っている。
正蓮寺川の陸地化工事は、この写真撮影から3年後の2010(平成21)年8月に完成した。その後、2014(平成25)年5月には、阪神高速道路淀川左岸線の島屋~海老江JCT間4.3㎞が供用を開始した。さらに、2017(平成29)年4月には高速道路の正蓮寺川トンネルの地上部を利用した正蓮寺川公園の一部が完成した。
2007年当時、ほんの僅かだけ残っていた中津川と鼠島の南端部は、その後の工事で正蓮寺川や六軒屋川の流頭部とともに埋立てられてしまい現存していない。
【2018(平成30)年】

2018年秋に帰省した折、近くまで行く機会があったので、約10年ぶりに鼠島跡と埋め立てられた中津川や正蓮寺川の河道跡に立ち寄ってみた。
かつて流れていた中津川に沿って阪神高速道路の高架橋梁が南へ伸び、ゆるやかな勾配の坂道で地上へと降りている。高速道路は画像の右下あたり、鼠島の中心部付近で地下へと潜り、正蓮寺川跡地の地下トンネルへと続いている。
高速道路の両側には大きな公園が整備され、高層住宅が建ち並んだ周辺地区の人々の憩いや散歩の場として利用されている。
もはや、かつてこの地に中津川が流れ、鼠島という小さな島があった痕跡を見いだすことは容易ではない。
・次 は▶中津川と鼠島-地図から消えた川と島(5)
●参考文献
- 大阪市保健部編『大阪市保健施設概要』1932、大阪市役所保健部
- 建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』1966、淀川工事事務所
- 小出 博『日本の河川研究』1972、東京大学出版会
- 建設省近畿地方整備局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
- 三浦行雄『大阪と淀川夜話』1985、大阪春秋社
- 水原 完「大阪桃山病院ができたころ」、『生活衛生』29巻6号、1985、大阪生活衛生協会
- 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」、『大阪春秋』第88号、1997、大阪春秋社
- 大阪歴史博物館『水都大阪と淀川』特別展図録、2010、大阪歴史博物館
- 工藤洋三・奥住喜重 編著『写真が語る日本空襲』2008、現代史料出版
●制作メモ
- 2007/07/24:鼠島跡、正蓮寺川、六軒川など現地を確認
- 2017/11/10:コンテンツの制作に着手
- 2017/11/11:【はじめに】を公開
- 2017/11/12:【新淀川と長柄運河の開削】を公開
- 2017/11/13:【絵図や古地図に描かれた川と島】を公開
- 2017/11/14:【地形図に描かれた川と島 明治時代】の一部を公開
- 2017/11/16:【伝染病対策基地としての鼠島】を公開
- 2017/11/20:【地形図に描かれた川と島 明治時代】に●鼠島周辺の建物や工作物を追記
- 2017/11/21:【鼠島周辺の河川管理施設】を公開
- 2017/11/22:【地形図に描かれた川と島 大正~昭和前期】の一部を公開
- 2017/11/23:【空中写真に記録された川と島 戦後~平成】公開、リスト表示の文字列が乱れる不具合を修正
- 2018/11/11:【空中写真に記録された川と島 戦後~平成】画像を追加
- 2021/03/13:米軍が空襲直後に撮影した損害評価のための空中写真の判読結果を追記
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