はじめに
新淀川と長柄運河の開削
絵図や古地図に描かれた川と島
はじめに
地図から消えた川と島のこと
100年まえの中津川と鼠島【大正時代】
1921(大正10)年測図 1万分の1仮製図「大阪西部」(部分)を彩色
歴代の旧版地形図のなかで、この版が鼠島の施設群を最も詳しく描画している
これから書くのは、いまはもう影も形もなくなってしまった中津川と鼠島についてのことである。
中津川というのは、長柄のあたりで淀川から分派し、現在の北区、淀川区、西淀川区、福島区、此花区のあたりを大きく蛇行しながら流れ、最後は幾筋かの川に分かれて大阪湾へ注いでいた川であった。『大日本地名辞書』によれば、古名を吾君(あき)川と称し、地域によっては、名柄(ながら)川、十三川、野里川という名で呼ばれたこともあった。大阪湾に注ぐ流末部の伝法口のあたりでは、幾筋かに分派して、正蓮寺川や伝法川、六軒屋川などに名を変えていた。
明治後期に開削された新淀川は、蛇行していた中津川を真ん中あたりで断ち切る形で新しい大きな河道が築かれた。その結果、中津川の旧河道は3つに分割された。中央部の一部が新しく掘られた新淀川の中に取り込まれ、北部と南部は新淀川を挟んで右岸と左岸とに分断した状態で残された。
鼠島と呼ばれた小さな島は、分断されて淀川の左岸に残された中津川が六軒屋川と正蓮寺川に分派する四貫島の北側にあった小さな中の島である。
鼠島のことをはじめて知ったのは、『大阪春秋』第88号に掲載された中島陽二氏の「ある小さな島(鼠島)の生涯」という論考を読んでからである。
中島氏は、掲載誌には郷土史家と記されている。それ以上のことは存じあげないが、閘門を船が行き来した往時の鼠島を実見されているので、おそらく地元に長く住まわれた方であろう。多方面の資料にあたって書かれた労作であり、鼠島に関するこれ以上の論考は知らない。
掲載誌のバックナンバーは入手するのが難しいかもしれないが、Я[なにわふくしま資料館]Яというサイトに再録されており、そこの収録論文の項で全文を読むことができる。鼠島に興味を持たれた方は、まずは一読すべき文献であろう。
その後、2007年の夏に鼠島があった現地を訪ねて、姿を消す寸前の六軒屋閘門跡や付近の川を見てきた。
それから更に10年が経った。ふと思いたって中島氏の論考を参考にしながら、川と島の変化を自分なりにまとめてみよう思い、試しに少し書き始めてみた。
本稿で考察の対象とする期間はまだ決めていない。仮に明治から平成にかけての約150年間に限ってみても、大阪の発展とともに川も島も大きく姿を変えてきた。
川の様相だけでなく、島も削られたり埋立てられて、歳月とともに姿を変えてきた。土地利用も風景も時代時代で異なっている。
複雑で多様な変化をとげた川と島のことをわかりやすく正確に記述することは、たやすいことではない。関連する事項が多岐にわたっているからである。いささか荷が重すぎるだけでなく、大阪から遠く離れて暮らす今の自分にとって足かせが多いことにすぐに気づかされた。
■中津川と鼠島に関連する主な事項
- 淀川の治水、高潮対策
- 利水や舟運のための水門や閘門などの諸施設
- 疫病対策や離病院などの公衆衛生
- 戦災などによる住宅困窮、無秩序で不法な土地利用
- 都市環境や住環境の改善、整備
- 川の埋め立てと高速道路の建設
関連する事項について調べようにも手持ちの資料だけでは十分とは言えず、所蔵する大阪の図書館に通うのは地理的・時間的に難しい。
今はネット上にさまざまな情報があるが、いかんせん玉石混淆でコピーも多い。それらの真贋を確かめて整理し、正確にきちんと描ききれるかどうかあまり自信がない。そうは言っても何かを書き始めないと事は始らない。
そんなわけで不十分な記述になるかもしれないが、川と地図に関する知識を活かしながら、消えていった川と島の変遷をおおまかに整理することを本稿の目的としたい。
折りをみて大阪に行く機会をつくれば史料や資料も見ることができるだろう。あるいは現地を訪れて確認することもできる。 まずはとりあえず書いてみて、新しい知見が得られた時点で少しずつ改訂を加えていくこととしたい。
川の名や地名について
川の名前や地名が時代によって多少異なるのはよくあることである。
複数の呼び名や名前の変化などによる誤解や混乱を避けるため、本稿では次のような定義・区分に基づいて河川名・地名を使用した。一部は行政などによる正式な呼称・名称と異なる用い方をしているかもしれないが、あくまで便宜上のことである。あらかじめご承諾をいただきたい。
新淀川の左岸を流れる川【1950~1960年ごろの状況】
本稿に登場する福島区や此花区の周辺地域を流れる川と運河
新淀川や安治川は現在でも残っているが、中津川や伝法川、
木場川、長柄運河などは埋立てられて現存しない
- 新淀川:淀川のうち明治期の改修によって開かれた毛馬の大川分派点から河口に至る新しい河道
- 中津川:新淀川の開削によって分断されるまえの中津川、および分断後に新淀川の左岸に残された旧河道、下流端は六軒屋川と正蓮寺川の分派点までを基本とする
- 長柄運河(中津運河):新淀川の左岸に沿って毛馬から阪神淀川駅西側にある中津川の旧河道の区間に開削された運河、地元では中津運河とも呼ばれるがここでは長柄運河の呼称を使用する、下流端は中津川との接続点とする
- 六軒屋川:鼠島付近の中津川からの分派点から南側、安治川との合流点に至る区間
- 正蓮寺川:鼠島付近の中津川からの分派点から西側、伝法川の分派点を経て大阪湾に流入する区間
- 六軒屋水門:1955年から1970年に鼠島に設けられた水門で、現在、六軒屋川の下流にある「六軒屋川水門」とは別の施設
参考文献について
参考とした文献や史料・資料については、本稿の末尾に一括して掲げることにする。
新淀川と長柄運河の開削
新淀川の開削
淀川の流域は、わが国のなかでも最も古くから開けた地域であり、古くから治水や利水に関心を払い、幾多の川普請や河川工事が行なわれてきた。豊臣秀吉が伏見と大坂の間に築いた築いた文禄堤、徳川幕府の命を受けて河村瑞賢が行なった低水工事などがその代表例である。主たる目的は、堆砂をコントロールしながら河道の安定を図り、浚渫工事などを行なって舟運路として利用するためである。
明治に入ると、交通交易の要となる大阪築港と淀川の河川工事を一体的に進めることが国家的にも重要な課題となった。政府は先進国である外国から優秀な土木技師を招聘することを決め、オランダから招いたエッセル、デレーケなどの指導を得ながら淀川の低水工事は継続された。
1885(明治18)年の洪水で現在の枚方市で左岸の堤防が破堤した。堤防から溢れでた水は北河内一帯を水浸しにし、さらに大阪市内も水に浸かって大きな被害が生じた。
これが契機となって1896(明治29)年に河川法が制定され、翌1897(明治30)年から淀川改良工事がはじまった。工期は1911(明治44)年までの長期間に及んだが、改良工事によって上流では瀬田川に南鄕洗堰が新設され、中流の巨椋池付近では宇治川が付け替えられた。そして下流部では、枚方付近の河道が拡幅され、毛馬から西に新しい放水路として新淀川が開削された。
新淀川の河道計画と中津川などの旧来の河川
資料:建設省淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』の附図を彩色
新淀川の開削は、淀川から分流していた中津川の河道を利用しながら、延長16㎞の放水路を開く大工事であった。新旧の淀川が分岐する毛馬には洗堰を設置し、水門によって流量を調節した。旧淀川の大川には普段必要な水量だけを流すことで大阪市内の治水機能の強化が図られた。
長柄運河の開削
毛馬から長柄運河を鼠島方面に向って下る砂船【1961年 撮影】
右側の土手は淀川の左岸堤防、石造の施設は長柄運河給水樋門
新淀川の開削とあわせて、毛馬から新淀川の左岸に沿って下流に伸びる長柄運河が設けられた。長柄運河は阪神淀川駅の西方で中津川の旧河道につなげられ、六軒屋川、正蓮寺川、伝法川などに接続する河水の流れと航路が形成された。
新旧の淀川には、地盤高や干満の影響で水位差が生じたので、新旧淀川を直通する船舶の航行はできなかった。その代わり、長柄運河を経由して淀川の毛馬と大阪湾を結ぶ船の航行がスムーズにできるよう、毛馬、六軒家川、伝法川の各所に閘門が設置された。
淀川改良工事に続いて、1907(明治40)年から1918(大正7)年にかけて淀川下流改修工事が進められた。この改修工事では、 安治川から楠葉に至る低水工事、毛馬第二閘門の設置などが行なわれた。
このように明治から大正にかけての河川工事によって治水や利水機能が高められ、舟運の主要航路を担う河川水路網が形成された。
ありし日の長柄運河(左)と中津川(手前)【1961年 撮影】
長柄運河は正面奥から曲がれてきて、ここで中津川につながる
対岸に見える建物は大阪市で最も古い海老江下水処理場で、
建物の向こう側に阪神の淀川駅がある 左端の鉄橋は阪神のもの
毛馬から新淀川の堤防に沿って西に流れてきた長柄運河(写真左奥)は、中津川の旧河道に突き当たり、中津川に接続する形で流れの向きを南に変える。鼠島はこの屈曲点から約700m下流にあった。
この写真を撮った昭和36年ごろ、長柄運河や中津川は、まだ舟運に使われていた。
絵図や古地図に描かれた川と島
江戸時代初期の中津川
写真や正確に測量された地図がまだなかった時代のことを考証するとき、絵図や古地図といった史料は有効な手がかりとなる。
ただし、絵図の多くは特定の目的のために描かれたものが多い。目的の対象となる地物は精緻に描かれるいっぽうで、関係のない地物や周辺部などは省略されたり誇張されたりして正確さを欠く場合も多い。
また、川や島の形は視覚的な特徴がよくとらえられている反面、誇張されたり、途中から縮尺が変って歪んでいるようなケースも見受けられる。こういった点は絵図などの史料に基づいて考察する際に考慮すべき事項であろう。
『大坂町中並村々絵図』【1665年頃】
まず、いまから350年ほど遡った江戸時代初期の川と島の様子を眺めてみよう。
『大坂町中並村々絵図』は江戸時代初期の大坂三郷を中心に、周辺の摂津・河内・和泉三国の一部を描いたもので、「大坂三郷図」と呼ばれる絵地図のひとつである。この絵図に描かれている大坂は、付箋紙で示された当時の町奉行屋敷から1663(寛文3)年から1673(延宝元)年の間と推定される。
三郷とは大坂城下における3つの町組の総称で、北組、南組、天満組を示す。この絵図は、それらの町奉行の行政用につくられたものである。図の中心部を占める三郷部分の描写は精緻であるが、周辺部は道路、河川、村形・村名が簡潔に記載されているだけである。
下に掲げた絵図(部分)をみても明らかなように、三郷と周辺部との表現の違いは際立っている。実際も絵図のとおりで、当時の大阪で賑わいのあるまちだったのは大坂の町内だけである。それ以外の周辺部は、現在の大阪市内に含まれる区域といえども田畑や荒れ地の拡がる鄙びた場所だった。
『大坂町中並村々絵図』部分(国立国会図書館蔵)
図の右上に位置する一津屋で神崎川を分派した淀川は、毛馬から南流して大阪城の北川で流向を西に転じ、大坂の町の北部を西へと流れ下っている。現在の大川から土佐堀川、安治川へと続く淀川本流の流れである。大阪城の北側で東から寝屋川と大和川が合流しているので、大坂の町中を流れる淀川は現在よりも広く、流れも豊かである。
いっぽう中津川は、毛馬から西に分派したのち、神崎川と並走するような経路で大きな孤を描いて西南へ流れている。河道はくねくねと細かく蛇行しており、川の両岸は郊外の農村地域である。前掲の明治に作成された『淀川治水史 淀川改良工事計画』の附図と比較すると、河道の位置や蛇行の曲がり具合が異なっている。実際の差異も多少あるかもしれないが、絵図と実測図面との違いである。
大坂の町を大きく迂回する経路で流れ下った中津川は、四貫島の北端付近で東から流れてきた淀川本川と合流し、さらに幾筋かの川に分派している。この時代の淀川の下流から河口にかけての一帯はそこら中が「島」だらけである。福島、九条島、四貫島、稗島、出来島といったような現在に伝わる地名の大小の島がたくさん分布している。
淀川と中津川が合流する付近で現在と大きく異なる点は、安治川の新河道がまだ開かれていないことである。このため淀川は一直線に海に向かわずに、九条島の北縁に沿って「く」の字を描く形で西に流れている。「く」の字の中央にある屈曲点で九条島の対岸に位置するのは四貫島の北端付近で、そこで北東から流れてきた中津川と合流している。
中津川との合流点から下流は、現在の六軒屋川であるが、この頃はまだ固有の名前はなく「尻なし川」とだけ記されている。
『大坂町中並村々絵図』部分(国立国会図書館蔵)
淀川と中津川の合流点付近を少し拡大してみるとこのようになる。
四貫島の北東端には番所とお役人の屋敷が設けられている。1620(元和6)年、幕府が四貫島村に設けた船奉行所である。今風に言えば大坂警察の四貫島水上警察署と言ったところであろうか。
諸国から大坂に向かう船は伝法川を遡り、のちに逆川と呼ばれる淀川を経て大坂市中に向かったので、この場所が警備の要衝に選ばれたのである。
船奉行所の対岸で「く」の字の屈曲点にさしかかるあたりの淀川の本流には、2箇所の細長い中州が描かれている。凡例には示されていないが、筆致からしてこの中州はヨシの生育する湿っぽい場所だったのかもしれない。
いっぽう中津川の河道には、合流点付近を含めて中州は描かれていない。省略されている可能性もあるが、のちに鼠島の形成されるあたりにはまだ中州ができていなかったのかもしれない。
中津川は四貫島の北端付近で淀川と接したあと、すぐ西側で二筋に分派している。そのうちの南側の流れは少し下流でさらに二分している。絵図にはそれぞれの川の名前は記されていない。のちに正蓮寺川、伝法川と呼ばれる流れである。
江戸時代後期の中津川
260年あまり続いた江戸時代のうち、中期に描かれた適当な絵図を現時点ではまだ探し当てていない。
そんな訳で先の1660年代から1700年代を飛び越えて一気に江戸後期にタイムスリップする。江戸中期のよい史料が見つかれば追記することにしたい。
『増脩改正攝州大阪地圖』【1806】
前項に掲げた『大坂町中並村々絵図』から140年もさがれば、表現内容や情報量もがらりと変わる。手書きの絵図だったものから印刷された古地図へ進化したためである。
『増脩改正攝州大阪地圖』は、大岡尚賢の訂正、岡山玉山の写図によるもので、1806(文化3)年に浪華の赤松九兵衛によって出版されている。図は約150㎝四方の大きなもので、毛馬付近から下流一帯が描かれている。ここに示したのはそのうちの一部で、中津川や淀川が大坂の西で大阪湾に注ごうとするエリアである。
『増脩改正攝州大阪地圖』部分 (国立国会図書館蔵)
図に示した範囲でいちばん目に付くのは淀川の変化である。中之島の西方からほぼ一直線に大阪湾に向かう新しい河道が描かれている。1684(貞享元)年に河村瑞賢が舟運と治水のため九条島に新しい河道を開削し、以降、この区間は安治川と呼ばれるようになった。
九条島は安治川によって分断され、島の西側半分は西九条と呼ばれることとなった。また、九条島の北縁に沿って迂回していた淀川の旧河道は川幅を狭めて残され、「逆川」と呼ばれるようになった。
逆川という名の由来は定かではないが、安治川開削以前は南東から西北に向かって流れていた川が、開削以後は西北から南東へと流れの向きが逆転したからであろうか。あるいは、干満差の影響で河水の流れの方向が一日に数回逆転するからであろうか。
いっぽう中津川のあたりに目を移すと、淀川筋との違いが際立って見える。淀川や安治川、それに大坂町中を流れる堀川が人工的で整然としたまちの川に姿を変えつつあるのに対して、中津川には自由に蛇行していた自然の川の息吹が残っている。
川沿いにある島の外縁部の多くは黒い太線で描かれている。これらは河水によって運ばれてきた土砂が長い期間に堆積してできた自然堤防に手を加えて、洪水から島内を防御する土堤が築かれていたり、堤防上に馬が駆けることのできる程度の幅の道があることを示している。
中津川の赤い○で囲った所にはやや大きな中州が描かれている。のちに鼠島となる陸域である。ただし、この当時はまだ完全に干陸化しておらず、土地利用を示す文言も記されていない。
中州には周辺の島のように洪水時に陸域を防御する土堤も築かれていない。したがって、雨が降って少し水位があがると、流れに没してしまう不安定な場所だったに違いない。
この中州の少し上流の左岸には「舟渡」の文字がみえるが、少し北にある「稗島渡」のように渡し場の名称は書かれていない。東岸の海老江の村はずれと西岸の稗島村や北傳法村とを結ぶローカルな渡し場が置かれていたのだろう。
この古地図から読み取れる中津川の範囲は、のちに鼠島となる中州のあたりを越えて中津川が南傳法川と北傳法川に二分するあたりまでとなっている。南傳法川はのちの正蓮寺川、北傳法川はのちの伝法川である。また、中津川から分派した流れが逆川と合流し安治川に至る現在の六軒屋川に相当する区間は、淀川の名前が消えて単に「堀割」とだけ書かれている。
幕末期の中津川
長かった江戸時代をわずか数点の絵図や古地図で考察するのは少し乱暴ではあるが、先も長いし他の事項もあるので急がないといけない。近世の最後は岡山藩の手になる幕末期の絵図である。
『摂州西成郡海岸図』【1860頃】
『摂州西成郡海岸図』岡山大学附属図書館蔵 (池田家文庫)
描かれている3筋の川は、右から安治川、中津川、神崎川であり、海岸部付近で幾筋にも分派したり合流したりする様子がわかりやすく描かれている。精緻ではないが、言葉では表現しづらい全体と構成要素の関係が一目瞭然であり、絵図の持つ長所や機能がうまく活かされている。
土地利用は彩色で区分されており、人家・畑・川に大別される。彩色されていない白いところは田畑が入り組んでおり、その多くは田であるという注記が見られる。各集落にはおおよその戸数の注記がある。
前掲の『増脩改正攝州大阪地圖』と同様に、島の外縁部のうち土手筋は墨書きの太線で示されている。
各河川の名前は、おおむね現在に伝わる名が記されている。ちなみに中津川の分派河川では、南から順に六軒屋川、正蓮寺川、伝法川となっている。
『摂州西成郡海岸図』部分 岡山大学附属図書館蔵 (池田家文庫)
同時期に制作された同じ絵柄の絵図が数点残っており、それらのなかには航路や河川や海の水深を数値で示したものもある。このことから一連の絵図は、下図として制作された可能性、警備に必要な情報を補完するために制作された可能性が考えられる。
別図によると、流れの幅は六拾間余(約108m)、水深は場所によって異なるが三尺五寸や五尺といった記載がみえる。川幅の割には浅いので、上流から運ばれてきた土砂が川底に堆積しやすい流れのゆるやかな川だったのであろう。また中津川は俗に十三川とも呼ばれていたと記されている。中津や十三といえばどこか阪急電車の駅みたいである。
中津川が六軒屋川を分派し、その少し下流で正蓮寺川を分かつ区間には、川の中央付近に中州が4つ描かれている。一番上流の中州は流下方向に長いが、他のものは横断方向に長く、いずれも「流作」と書かれている。
この流作(りゅうさく・ながれさく)というのは、川辺など水害を受けやすい場所に開かれた新田や耕地の意味である。水の多い年には作付けや収穫が困難で生産力が不安定な土地である。
年貢をとるためには周囲に堤を築くなりして収穫量を安定させる必要があった。中州など堤のない状態で正式の耕地として石高を決め勘定にいれると、年貢や諸役の負担に耐えられず耕作人がいなくなってしまう。そのため、検地の際に厳密な石盛付けは行わずに反別だけを測り、諸役を免除して本年貢のみを納めさせたといういわば半人前の土地であった。
『改正増補国宝攝阪地全図』【1868】
古地図の印刷物を参照したのでここに掲載できる画像はないが、1863(文久3)年の『改正増補国宝攝阪地全図』には、中津川と現在の六軒屋川の分派点北側に島が描かれている。比較的大きな中州(島)がひとつと、その南側に小さな中州が2つ分布しており、それぞれに「野田村ノ内」「同」「同」の文字がみえる。
東岸の野田村と西岸の伝法村や稗島村などの間で領有権の争いがあったのかどうか定かではないが、地図をみる限り野田村の農民が流作として利用する農地だったと思われる。
江戸時代約260年を通じて中津川の状況変化を概観すると次のように整理される。
- 江戸期を通じて中津川の河道の位置は一定で、大きな変化はみられない。
- 安治川の開削以前と以後とでは淀川からの流れの流入による影響が異なり、開削以降は流量が減った可能性がある。
- 江戸時代後半で川幅は100m前後あるが、水深は1~2mの浅い川であった。
- 江戸時代前期、のちに鼠島が形成される六軒屋川分派点付近に中州はなかった。
- 現時点において、史料未確認のため江戸時代中期の状況は掴めていない。
- 江戸後期になると分派点付近に中州が形成され、幕末期には「流作」としての土地利用がみられた。但し、周囲に堤はなく洪水や冠水の影響を受けやすいため、生産力の不安定な土地であった。
- 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」に記されている初めて「鼠島」の名がみえる史料(絵図)は、個人蔵のため現時点では未見である。
・次 は▶ 中津川と鼠島-地図から消えた川と島(2)
●参考文献
- 建設省 淀川工事事務所『淀川治水史 淀川改良工事計画』1966、淀川工事事務所
- 小出 博『日本の河川研究』1972、東京大学出版会
- 建設省 近畿地方建設局『淀川百年史』1974、近畿建設協会
- 三浦行雄『大阪と淀川夜話』1985、大阪春秋社
- 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」、『大阪春秋』第88号、1997、大阪春秋社
- 大阪歴史博物館『水都大阪と淀川』特別展図録、2010、大阪歴史博物館
●制作メモ
- 2007/07/24:鼠島跡、正蓮寺川、六軒川など現地を確認
- 2017/11/10:コンテンツの制作に着手
- 2017/11/11:【はじめに】を公開
- 2017/11/12:【新淀川と長柄運河の開削】を公開
- 2017/11/13:【絵図や古地図に描かれた川と島】を公開
- 2017/11/20:【絵図や古地図に描かれた川と島】に『改正増補国宝攝阪地全図』を補遺
・次 は▶ 中津川と鼠島-地図から消えた川と島(2)
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