万博のころ EXPO’70 観客の鉄道輸送

押し寄せた観客をどうやって運んだ

シリーズ「万博のころ」の第4弾は、開催中の観客輸送についてです。

大阪万博・EXPO’70の会期は、3月15日から9月13日までの183日間でした。この間の来場者数は、当初、目標として設定した3,000万人を大幅に上回る約6,421万人でした。
このうち外国からの来場者は約170万人だとされていますので、国内からの来場者は約6,250万人です。計算上、日本国民の2人に1人は、万博見物にでかけたことになります。実際には何度も繰りかえして出かけた人もいるので、人口総数に対しての観客の割合は、もう少し低い数値になります。

来場者数を開催日数で単純に割ると、1日あたり平均約35万人です。開催地の吹田市の人口は、2015年の国勢調査時点で約37万人ですので、これも荒っぽく言うと、すべての吹田市民が毎日会場に通ったのと同じ規模になります。ともかく凄い数の観客が毎日毎日、会場に押し寄せたわけです。

会場への交通手段は、電車・自動車・徒歩や自転車に大別できます。現在、中央環状線に沿って走る大阪モノレールは、万博当時はまだできていません。
観客のうち、徒歩や自転車で行けるのは会場周辺のごく一部の人に限られます。したがって、ほとんどの人は電車、あるいは自家用車やバスを利用したと言ってもよいでしょう。

車の場合は、自家用車にせよバスにせよ、会場周辺に設けられた駐車場の収容台数に限りがあります。
万博開催時の駐車場は、午前中にほぼ満杯になってしまいました。一度入場すると夕方や夜まで帰らない人が多かったはずなので、駐車場は1日に何回転もできません。ざっと見積もって、収容台数×乗車定員×1.2倍前後が車で来る人のキャパシティだったのではないでしょうか。

 開幕直前の万博外周道路開幕直前の万博外周道路と駐車場【1970年3月 撮影】
モノレールは会場内を周回するだけでアクセスには使えなかった

電車と自動車の比率がどれくらいだったのかは、正確なデータを掴めていません。仮に、一日の来場者数が約40万人で、鉄道と自動車の利用比率が3:1だとすると、約30万人と10万人となります。比率が2:1の場合は約27万人と13万人、4:1だと約32万人と8万人です。

鉄道を利用した人は一日あたり約27万~32万人、自動車利用者は約8万~13万人と推定されます。概算なので誤差やかなり幅がありますが、いずれにせよ観客輸送の主役は鉄道だったはずです。
大阪万博では、鉄道に備わった大量高速輸送機関としてのメリットが最大限活用されたわけです。

会場にアクセスできる鉄道は次の3本の路線で、最寄駅は万博中央口駅・万博西口駅・茨木駅の3駅がありました。このうち茨木駅はバス輸送との併用でした。

  1. 地下鉄御堂筋線・北大阪急行南北線・会場線:万国博中央口駅
  2. 阪急千里線:万国博西口駅
  3. 国鉄東海道本線:茨木駅(駅と会場間はバスのピストン輸送)

各路線の概要について、次のセクション以降で順にみていきます。

北大阪急行会場線 万国博中央駅

 万博中央口駅と太陽の塔北大阪急行の万国博中央口駅と試運転中の列車【1970年2月 撮影】

北大阪急行の万博中央駅は、太陽の塔を間近に仰ぎ見ることのできる万博会場のど真ん中に設けられました。万国博中央口駅を利用するアクセス経路は、3本の鉄道路線のなかでもメインルートでした。もし、この駅と会場直結の鉄道路線がなければ、大阪万博は失敗していたかもしれません。

地下鉄御堂筋線は、大阪市営の地下鉄1号線として最初に開通した路線です。梅田を起点に御堂筋の地下を南下し、難波から天王寺に至る大阪市の南北軸を貫く市営地下鉄の顔のような存在です。北端の駅は梅田でしたが、東京オリンピックが開催された1964年に新幹線と接続する新大阪まで延伸されました。
その後、万博開催にあわせて新大阪~江坂間が建設され、1970年2月24日に江坂まで開業しました。
江坂駅は新大阪駅から北に約3キロの地点で、江坂から万博会場までには、まだ9キロ前後の距離があります。江坂の南側を流れている神崎川を渡った先は、行政区域が吹田市にかわりますので、大阪市営地下鉄として万博会場まで延伸するには無理があります。

江坂と万博会場を結んだのは、北大阪急行電鉄という私鉄の路線です。北大阪急行は、1967年に阪急電鉄と大阪府などが出資して設立された第三セクターで、現在の実質的な経営母体は阪急電鉄です。
万博に少し先だって開発された千里ニュータウンへの公共交通機関として、地下鉄御堂筋線を延伸する経路で、千里中央までの鉄道建設は計画されていました。但し、建設費用もかさむことから、建設工事は遅れがちでスローペースであったようです。
そこへ万博開催が決まると状況が一変しました。もともとは通勤路線として計画されたこの路線の建設工事を、国や万博協会、大阪府が資金面などで強力に援助することで万博開幕までに一気に完成させ、万博会場への鉄道の乗り入れを実現させたわけです。

江坂駅から新御堂筋に沿って高架橋梁で北に延びてきた北大阪急行の南北線は、千里中央駅の南側、中央環状線との交差部手前でゆるやかな右カーブを描きながらトンネルに入ります。トンネルの先は現在の千里中央駅ですが、万博開催当時はまだ開業していません。
このトンネル内に東に分岐するポイントが設けられました。終点の千里中央駅の手前で、北から東へ直角に進路を変える臨時の支線を設けて、レールを約3.5キロ離れた万博会場へと向わせました。これが「会場線」と呼ばれる万博会場へ直接乗り入れる路線です。

万博会場へつながる会場線と万国博中央口駅の開業は、万博の開幕より少しはやい2月24日でした。

万博開催期間中の千里中央駅は、会場線に設けられた仮駅でした。場所は、分岐点からカーブを曲がり、トンネルを抜けたところにありました。
仮駅は、中央環状線の東行き車線と中国縦貫自動車道に挟まれた形で、ホームは狭かったです。ホームから仮設階段でプレハブの駅舎を通り、もう一度階段を昇ると北新田橋の橋の上にでることができました。

会場線は閉幕翌日の9月14日に廃止されました。トンネル内にあった分岐点のポイントは切り替えられて、既に完成していた千里中央駅へ向う本来の線路がつながりました。
現在でも、トンネル内には会場線が使っていた支坑の入口部分が残っています。また、北新田橋には、駅舎に降りる仮設階段を撤去した痕跡がたぶん残っているはずです。

 北大阪急行会場線を万博中央口に向う列車万国博中央口駅から千里中央仮駅へ向う回送列車
右は中環東行き車線、線路の向こう側は中国道と中環西行き車線
中央奥の坂道は外周へのランプウェイ【1970年3月 撮影】

鉄道の建設に際して、通常、最も難航するのは用地の確保です。
千里中央で分岐した万博会場への臨時路線は、中央環状線の上下線の中央部に計画された中国縦貫自動車道の道路用地にレールが敷設されました。開通前の東行き車線の道路用地を万博の開催期間中だけ一時的に鉄道用地として利用することで、建設費用や工事期間が大幅に短縮されました。ウルトラCと言いますか、国家的事業であった「日本万国博覧会」のみがなせる荒技でした。

このようにして地下鉄御堂筋線と北大阪急行の南北線・会場線を結んだ直通運転が実現し、大阪市の中心部や新大阪駅から乗り換えなしで、会場のど真ん中に短時間でアクセスできるようになりました。東京駅からでも新大阪駅で1回乗り換えるだけで、あまり歩かずに万博会場のお祭り広場に到達することができました。

北大阪急行は、初乗り運賃が日本で一番安い鉄道として有名です。運賃を格安にできる背景には、用地取得が不要で建設コストのかからなかった万博への会場線で大いに稼ぎ、その遺産が半世紀経った現在でも活かされているといわれています。

阪急千里線 万国博西口駅

阪急電鉄の千里線は、もとは千里山駅が終点で千里山線と呼ばれていました。戦前の建設であることも相まって、急カーブが連続するため高速運転のできない路線です。

千里ニュータウンの建設にともなって、開発当時、鉄道のなかったニュータウンに段階的に延伸され、1963年に南千里駅(旧新千里山駅)、1967年に北千里駅がそれぞれ開業しました。現在では両駅の間に山田駅がありますが、同駅は万博終了後の1973年の開業です。

万博会場と千里線は、北千里駅の南約1.3キロ付近で最も接近します。万博開催前は、そのあたりに駅はありませんでした。阪急千里線の近くに万博会場の西口が設けられたこともあり、西口の最寄駅として万国博西口駅が臨時駅として設けられました。

 千里NTからみた万博西口駅と万博会場千里ニュータンからみた万国博西口駅(右下)と万博会場
駅と会場とは高架構造の歩道橋で結ばれていた【1970年 撮影】

北千里駅付近の阪急の線路は、道路と立体交差するため築堤の上を走っています。駅は線路両側の築堤の上に仮設構造のホームや階段が設置されました。駅を降りて万博の西口へは約400メートルほど距離があります。
観客は屋根のない高架構造の長い歩行者通路を歩いて、西口に向かいました。現在の大阪地下鉄ニュートラムのフェリーターミナル駅から南港のフェリーターミナルビルへ伸びている高架の歩道者通路から屋根を取り外したような感じです。

万博当時の阪急千里線は、競合路線や観光地もないことから、京都・宝塚・神戸各線よりも格下の扱いでした。走っている電車も戦前につくられた旧型車両が中心で、当時、新型車両に普及しはじめたクーラーはもちろん付いていません。

 千里NTの築堤区間を走る阪急デイ100形千里ニュータウン内の築堤区間を走る阪急の旧型電車
のちに万国博西口駅が設置される場所の少し北側付近、
梅田側の先頭は125号車【1968年 撮影】

この古い電車のことをよく知らなかったこともありますが、乗る電車にオンボロ車両が当たるとガッカリしていました。しかし、そのオンボロ電車は、じつはかつての京都線の花形車両でした。阪急が新京阪と合併する前の1927年から1929年にかけて、当時の新京阪鉄道によって製造された「P-6形」で、のちに阪急では「100形」と呼ばれた車両でした。
製造当時は国内最大級のモーターを積み、最高速度は時速120キロでの運転ができたそうです。京都線の大山崎付近では、すぐ横を走る国鉄東海道線の特急列車「燕」を追い抜かしたと伝えられています。

そんなエピソードのある由緒正しき車両が、大きなモーター音を響かせながら場末の千里線で活躍していました。千里丘陵を登る千里山から南千里への区間は、阪急でも最大の急勾配区間で、強力モーターを積んだ100形が活躍できたのかもしれません。100形のほとんどの車両は、万博の翌年の1971年から1973年にかけて順次廃車されました。万博会場へ行き帰りする観客を運ぶのが最後の仕事だったわけです。

万博開催の数年前から阪急電車の車両には、梅田側のドアの横に白地に紺色でEXPO’70の文字とシンボルマークの描かれたステッカーが貼られていました。他社の電車や飛行機の機体にも同じデザインの協賛ステッカーが貼られていたと思います。

 阪急百貨店に掲げられた万博関連の広告梅田の阪急百貨店の外壁に掲げられた屋外広告【1970年5月 撮影】

阪急梅田駅のあるターミナルデパートの壁面には、大きな時計や残りの日数を示す電光掲示板が設置され、万博へ向う観客に阪急電車の利用を促していました。

しかし、万博中央口駅に直接乗り入れる御堂筋線経由に比べると、速度の遅い阪急千里線はアクセスに時間がかかりました。走っている車両も古かったのであまり人気はなかったように思います。万博開催期間中、毎日の通学で千里線に乗っていましたが、最盛期の夏休みを除くと車内もさほど混雑しなかったように記憶しています。

国鉄東海道本線 茨木駅

国鉄の茨木駅は、万博会場の東口に近接した駅として利用されました。元からある駅ですので、他の2駅と比べて会場との距離は約2.5キロ離れています。駅と会場間は、バスをピストン運転することによって来場者をさばいたようです。

当時の国鉄には中~長距離の列車が走っていました。それらを利用して東は京都や滋賀方面、西は兵庫や岡山方面から万博を訪れた人たちのなかには、茨木駅を利用した来場者が多かったと思われます。

国鉄は、万博開催直前の1970年3月10日に万博開催を念頭においたダイヤ改正を行なっています。
遠方からの観客輸送対策として、新幹線の車両を増結し、ひかりを1列車16両編成にしています。
在来線の長距離列車の関係では、大阪と北陸や九州方面とを結ぶ特急を増発しています。特急の利用客は、新大阪駅や大阪駅で地下鉄に乗り換えて、万国博中央口駅へと流れるため、茨木駅を利用するケースは少ないはずです。

茨木駅を利用したのは、快速電車を利用して京阪神周辺やその隣接県から訪れた人たち、開催期間中の毎日運転された「万博1号」~「万博6号」などの臨時列車を利用した人たちです。
「万博1号」は彦根のすぐ西にある河瀬駅を7:39に発車し、茨木駅には9:16に到着しました。また、「万博2号」は姫路駅を7:50に発車し、茨木駅には9:47に到着しました。
「万博3~6号」は、観客の帰宅用の列車です。茨木駅を16時台と21時台に発車するダイヤで、上下それぞれ2本ずつ運転されました。21時台に発車する各列車の終点の到着時刻は、姫路行きの「万博5号」が23:11着、河瀬行きの「万博6号」が22:47着でした。朝から夜遅くまで、観客も国鉄の関係者もたいへんだったでしょう。

このほか、岡山からの臨時列車として「岡山万博号」、名古屋からの臨時列車として「名古屋万博号」が運転されました。会場に向う乗客が乗降したのが茨木駅なのか、新大阪駅なのかちょっとよくわかりません。

国鉄を利用した観客を迎えた国鉄茨木駅は、たしか万博の1~2年前に西口の再開発が行なわれ、現在のような駅前広場やバス乗り場が整備されました。ペデストリアン・デッキがあったかどうかは、よく覚えていませんが通路の狭い歩道橋はあったような気がします。

駅前再開発の時に国鉄茨木駅から万博会場への道路が新設されました。駅からほぼ一直線で外周道路に到達できましたので、途中での渋滞やバスの積み残しさえなければ、スムーズに往復できたはずです。実際には、どうだったのでしょうか。
鉄道で直接会場近くまで入ることのできた万博中央口や西口に比べて、乗り換え時の混乱を招きやすく、不利な面があったことは確かです。

2025年に夢洲での開催が予定されている次の万博では、どのようなアクセスルートの整備がなされるのでしょうか? どのような計画なのかよく知りませんが、会場の周囲は海に囲まれていますので、鉄道にせよ道路にせよ、1本のルートだけに頼ると、もし何かアクシデントが起きたときに、たいへんな事態を招くことだけは確実です。高潮や津波を想定に入れた安全対策も必須です。

まもなく前回の万博から半世紀が経ちます。前回と違って、府と市の連携もうまくいっているようです。行政関係者のお手並みを拝見したいと思います。


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